【40】僕のところまで〈1〉
(絶対に、足を、踏まない、ように!)
演奏に合わせて、ルシアンが滑らかにエナを導く。ステップを間違えないかとはやるエナの心を落ち着かせたのは、ふわりと鼻先を掠めるホワイトムスクの香りだった。
(……大丈夫、大丈夫。ここで、ターン)
くるりと回れば、白の制服スカートがふわりと広がった。
やっぱり授業とは全然違う。ルシアンのエスコートは、本当に踊りやすい。腰に添えられた手の僅かな動き、指先の導き、そしてルシアンの視線の先。それだけで、次にどこへ足を踏み出せばいいのかが、驚くほど自然に伝わってくる。
それでも目を合わせる勇気はなくて、一秒合うのが限界で、エナはずっと気崩されていないルシアンのネクタイを見ていた。
たまに思い切って視線を上げた時、ルシアンとも目が合わない時がある。こんなに近い距離で踊っているのだから、彼も少し気恥ずかしいのかもしれない。
そう思うとふいに親近感が湧いて、エナは小さく笑い声を零した。
「どうしたんだ?」
踊りながら突然笑ったエナを不思議に思ったのだろう。ルシアンが小首を傾げる。
「えっと……ルシアンの研究室って大きいなって思って」
零れてしまった笑みを指摘され、エナは慌てて誤魔化すように周囲を見回した。
「あとほら、このフロアって部屋数少ないし、ルシアンしか見かけたことないなって考えてて」
実は、ずっと思っていたことだ。こうしてのびのびとダンスを踊っていても、壁や物にぶつかる気配はない。
ルシアンはああ、と納得したように頷いた。
「それもそのはずだ。このフロアは僕しか研究生はいないからな」
「そうなの? じゃあ、隣とかに名札があるのは?」
「あれは、卒業した先輩のものが残っているんだ」
「へえ、外さないんだね」
「次に使う生徒が自分の名札をかける時に取り外すんだが……ここは成績上位者のフロアだからな。なかなか後続が来ないんだ」
ルシアンは少し困ったように苦笑した。
「ということは、フロアが下がっていくごとに優秀……ってこと?」
「ああ。階段や移動の時間が少なくすむだろう?」
「たしかに」
エレベーターのないこの世界ならではの価値観だ。たまにふらっと時計塔に居ても人と遭遇することはないのは、そういうことだったのかと合点がいく。
「ルシアンも上の階だったことあるの?」
「一年の時は五階だった」
「えええ! 知らなかった」
エナが目を丸くすると、ルシアンはくすりと笑って軽やかにターンを先導した。
「当たり前だろう」
確かに普通はそうだ。それでも漫画でのルシアンは二年生からの登場だったから、一年生の時の彼を知らない方が普通なのに、変なことを言ってしまった。
(怪しまれないようにしなきゃ)
わずかな焦りを悟られないよう、エナは意識して明るい声を弾ませた。
「私も研究生になりたいなあ」
「ほう?」
ルシアンが眉を上げる。
「ルシアンや友だちが卒業したら、私、暇になっちゃうんだけどさー。この部屋を使えるようにっていう目標なら、頑張れそうな気がするんだよね」
「……そうか」
ルシアンはどこか寂しげな目をして、静かに微笑んだ。優しい人だから、エナが学園に一人残る未来を想像したのだろうか。
しかし、伏せられた長い睫毛が瞬くと、彼はすぐにいつもの生真面目な先輩の顔を取り戻した。
「言っておくが、研究生になるには全座学の成績が九割以上であることが条件だ。……まあその分、学費免除などの特典はあるが」
「うわー……、結構厳しいね」
むぐぐと唇を引き結ぶ。エナの座学平均点は八割程度である。八割から九割に上げるのは、簡単そうに見えて実は一番難しい。
でも、勉強は嫌いじゃない。元の世界では理系学部に通っていたこともあって、微積も物理も習得済みである。
(魔法学校で通用するかはわからないけど)
「頑張ってみたい、かな。私も……後悔なく過ごしたいから」
エナはふっと唇を綻ばせて、照れ隠しのように笑ってみせた。
思いがけず真剣な響きを持ってしまった言葉に、ルシアンはわずかに目を見開く。
(ちょっと大袈裟だったかな)
エナが内心で焦っていると、
「そうか」
降ってきたのは、ひどく優しい声だった。
ルシアンは踊る足は止めないまま、眩しいものを見るように目を細める。やがて流れるようなターンを経て演奏がふわりと消えるのと同時に、ぐいとエナの腰を力強く引き寄せた。




