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【39】西日が引いた境界〈2〉

(ああ……楽しいな)


 ふと、胸の奥で温かいものが広がった。

 元の世界での、テストに追われながら過ごしていた慌ただしい毎日も、決して嫌いではなかった。けれど今は、その焦燥感すら忘れてしまいそうになるほど、穏やかな時間がここには流れている。


 この世界に、いつの間にか自分の居場所を見つけてしまったからだろうか。


 エナは目を細め、窓から差し込む橙色の光の中に、ルシアンの輪郭を焼き付ける。夕陽に縁取られた彼は、直視できないほどに眩しく、そして切なかった。


(このままで、いいのかな)


 そんな漠然とした不安が、胸を掠める。たまによぎるこの不安は、どう足掻いても晴れることはない。


 ルシアンには、笑っていてほしい。もう傷つかず、絶望に沈むこともなく、健康でいてほしい。エンディングの直後で見た、あの切ない絶望を、もう彼には味わわせたくない。


(私が幸せにする。……例え、その隣が私じゃなくても)


 胸の奥で、静かに、けれど逃れようのない炎が揺れた。

 カップに残っていた紅茶を、一気に飲み干す。


「ねえ、ルシアン」


 声をかけると、顔を上げたルシアンの深いアメジストの瞳と、真っ直ぐに視線が絡み合った。


「私、今が一番好きだよ。……こうしてルシアンとおしゃべりして、お茶を飲んで、勉強しながら毎日過ごすの。だから、将来なんてまだまだ考えたくないんだよね」


 エナはふわっと頬を緩めて微笑んだ。それは紛れもないエナの本音だった。これでさっきの誤魔化しが帳消しになるとは思わないけれど、ルシアンにはどうしても言っておきたかったのだ。

 言葉にすると、その実感がふつふつと湧いてくる。


 ルシアンを正面から見つめる。

 彼には、生まれた瞬間から決まっている華々しい将来がある。この世界に放り出され、身分という絶対的な壁を知り、何百年も続く王国史を学んで、エナはその事実を突きつけられてきた。


(わかってる。この友情が、学園にいる間だけのものだってこと)


 学園を卒業したら、こうして対等に言葉を交わすこともなくなるのだろう。だから、今この瞬間、同じ匂いを嗅いで、同じ温度の紅茶を飲んでいることが、エナにとっての全てなのだ。


 なんとなく、聖女だとルシアンに言いたくない理由がわかった。

 ルシアンに“エナ”としてではなく、“聖女科のエナ・フィアレス”という特別なフィルターを通して見られるのが嫌だったのだ。彼と対等の友人関係を結んでいる今、学園にいる間は、あくまでただの女友達のエナでいたかった。聖女という重い肩書きを背負って、彼の重荷になったり、関係性を不自然に変えてしまったりするようなそんな幕引きにしたくない。

 今まで無意識を装っていたけれど、それは紛れもなく、自分自身の強大なエゴだった。


 空になったカップに手を伸ばし、ティーポットを持ち上げる。褐色の液体が細い曲線を描いて落ち、再びカップを満たしていく。立ち上る湯気の向こうで、ルシアンの瞳がゆらりと揺れた。


「ねえ、ルシアン。卒業して……私、寂しくなったら、こっそりルシアンのところに行ってもいいかな?」


 冗談めかして、おどけてみせる。けれど、次の瞬間、ルシアンの顔から余裕が消えた。驚きに目を見開いた直後、その表情はゆっくりと切実に歪んでいく。


「……君は、またそう言うんだな」


 思いがけない反応に、エナは息を呑んだ。

 いつもの笑みを貼り付けたまま、動けなくなる。軽く笑って流されるくらいの、いつもの調子の言葉だと思ったのに。


(そんな顔をするとは、思っていなかった)


 貼り付けた笑みの下が、焦りでじりじりと熱を帯びていく。


「……あれれ。エナちゃんがこっそり傍にいちゃ、嫌なのー?」


 言葉が上滑りする。


(私はなんてタイミングの悪い女なの)


 オロオロと視線を彷徨わせるエナに、ルシアンは椅子を鳴らして身を乗り出した。その距離の近さに、エナの思考回路が火花を散らして止まる。


「……ああ、嫌だね」


 突き放すような言葉が刺さる。けれど、ルシアンはエナの困惑を見透かしたように、小さな吐息を漏らして眉の力を抜いた。


「──こっそりじゃ分からないだろう? ……普通に、会いに来てくれ」


 ルシアンの口元に、柔らかな、溶けるような笑みが宿った。


「……え」


(ううん。そんなはず、ない)


 エナは慌てて上体を逸らし、視線をティーカップへと逃がした。


(違うよね。私が都合よく、勘違いしてるだけ)


 カッと顔中が熱くなり、心臓が耳の奥でうるさく跳ね回る。自惚れてしまいそうな自分を必死で叩き伏せながら、エナは俯いて真っ赤になった顔を隠した。

 ルシアンはわずかに顎を引き、試すように声を低く落とす。


「……それとも。学園の外では、僕に会ってくれないのか?」


「まさか!」


 勢いよく身を乗り出したエナに、ルシアンが少しだけ驚いたように目を瞬かせた。彼の長い睫毛が揺れ、ふっと笑う。


「言質はとったぞ」


 ルシアンは満足げに喉を鳴らして、優しく目を細めた。


(……忘れちゃいけない)


 ──ルシアンはクローディアが好きだ。


 彼の言動は全て、友人のエナに向けられたものでしかない。

 頭の芯が、氷水を浴びせられたように急速に冷えていく。


(ルシアンは、私のことを好きになってはくれない)


 窓から差し込む西日が、二人の間に明確な境界線を引いていた。

 光の中にいる彼と、影の中に沈んでいく自分。

 さっきまでの熱気が嘘のように、エナの心には冷たい風が吹き抜けた。


(勘違いしないようにしなきゃ。……期待して、勝手に失恋して、傷つくのは私なんだから)


 エナは、我が身が可愛かった。

 これ以上踏み込んで、今の平穏な日々が壊れてしまうのが、怖くてたまらない。


「友だちだもん。手紙出して、絶対会いに行くね!」


 にっこりと笑みを浮かべて、元気よく宣言する。


 机の下で、ハンカチをぐしゃりと握りしめた。

 指先が白くなるほど力を込めても、胸の奥で燻るこの鈍い痛みだけは、どうしても握り潰すことができなかった。

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