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【38】西日が引いた境界〈1〉

 時計塔の高層にある展望台。誰もいない早朝の澄んだ空の下で、エナは一人、手すりに寄りかかって眼下の景色を見下ろしていた。


 見晴らしの良いこの場所からは、広大な学園の構内が一望できる。さらに視線を上げれば、学園を囲む堅牢な塀の向こう側に広がる、リーヴェルの街の静かな営みまでが見渡せた。


(もうすっかり冬だなあ)


 ふう、と小さく吐き出した息は、はっきりと白い輪郭を描いて空へ溶けていく。

 凛と張り詰めた朝の空気が肺の奥まで染み渡り、いつの間にか季節が秋から冬へと移り変わっていたことを、エナにひしひしと実感させた。


(……もうすぐ、朝鐘の刻だ)

 エナは名残惜しそうに一度だけ街並みに目を向けると、冷たい風にローブの裾をふわりと翻し、誰にも気づかれないよう静かに展望台をあとにした。




 ◾︎◾︎◾︎




「あっ、それ。魔法陣の改良、完成したの?」


 温かい紅茶の入ったカップで指先を温めながら、エナは興味津々に身を乗り出した。ルシアンがずっと試行錯誤して書き込んでいた魔法陣を、今、確認するように指でなぞっていたからだ。


「……そうだな。大方完成した」

「見せて見せて」

「ああ」


 ルシアンは短く頷くと、見やすいように手元の紙をエナの方へと滑らせてくれた。

 紙にはびっしりと書き込まれた数式と図形、そしてその中心に、ルシアンが開発した魔法陣が描かれている。以前見たものよりもずっと整然としていて、中心に向かう線が少なくなっていた。


「できる限り無駄を省いた。これなら、魔力の伝導効率はこれまでの三割は向上するはずだ」

「じゃあ、あとは学会で発表するだけ?」

「ああ」

「わーお」


 精緻な魔法陣をまじまじと見つめながら、エナはふわりと目を細めて微笑んだ。


「努力の成果だね」


 ルシアンは一を聞いて十を知る、紛れもない天才だ。だが、何もかもを簡単にやってのけるわけではない。特に魔法の開発などは、選ばれた秀才が集う魔塔の専売特許だ。学生であるルシアンがそれを成し遂げるには、途方もない試行錯誤の時間と地道な積み重ねが必要だったはずだ。

 その努力の過程を、エナはずっと傍で見てきた。だからこそ、天才という一言で片付けたくはなかった。


「……別に。研究生として、当然のことをしているだけだ」

「あはは。そう言うと思った」


 そのまま腕を伸ばし、彼の頭をぽんぽんと撫でる。すると、ルシアンの白い頬にサッと朱が差した。


「君はこの前から……! 子供扱いするのはやめてくれ。僕は先輩だぞ」

「うんうん、そうだね。ルシアン先輩はヴェルンの星だよ」


 エナがわざとらしく後輩ぶってにこにこと笑いかけると、ルシアンはふん、と恥ずかしそうに顔を背けた。


(こういうところはやっぱり、年相応で可愛いんだよなぁ)


 微笑ましく思いながらそっぽを向いた横顔を見つめていると、ふと、ある想像がエナの頭をよぎった。


「もしルシアンが魔塔の研究者になったらどうなるんだろう? 世紀の大発見とかしちゃうかな?」


 突拍子もない想像に、ルシアンの肩がぴくりと跳ねる。


「白衣着てるルシアンを想像したら、すごく似合ってる! 今よりもうちょっと大人になってて、いつも着けてるその懐中時計も使ってそう。……もしかしたらモノクルとかかけちゃったりするかもね」


 エナがあははと笑っていると、ルシアンがぽつりと「……ありえないな」と呟いた。


「うん。そうだね。次期侯爵様なんだから、ありえないよね」


 エナはあっけらかんと肯定した。でも不思議と、エナの中ではルシアンが立派な侯爵として領地を治める姿も、白衣を着て研究に没頭する姿も、どちらも鮮明に想像できた。

 漫画では描かれていなかった、学園卒業後の彼の未来だからだろうか。エナには、彼の前にどこまでも無限の可能性が広がっているように思えたのだ。


 薄らと冷めかけた紅茶を一口飲み、ふうと息をついたときだった。


「エナは──」

「うん?」


「……エナは将来、何をしたいんだ?」


 再びティーカップを唇へ運ぼうとしたエナの動きが、ピタリと止まる。


 ──将来。

 それはエナが、思考の最深部に鍵をかけて放り込んでいた単語だった。


「僕は今年で卒業する。君は僕の後輩にあたるだろう?」


 ぎくり、と肩が跳ねた。


(……ルシアンより年上の後輩だなんて、絶対言えない!)


 ルシアンはわずかに目を細め、机に置かれた自分の手に視線を落とした。指先が、落ち着かなげに机の木目を叩く。


「……庶民である君が卒業した後、どう生きていくつもりなのか、多少案じているんだ」


 ルシアン照れ隠しをするように顔を背けて呟いた。


(ああ、優しいな)


 可愛い気遣いにエナの胸がぎゅっと締め付けられた。


 ──もしこのまま、元の世界に帰れずここで骨を埋めるのだとしたら。


 エナの歩く道は、もう決まっている。聖女科を卒業すれば、本人の意思に関わらず、聖女としての公務が待っている。普通の人よりは、ずっと安定して生きていけるはずだ。転移初日に聖女として認められたあの幸運のおかげで、今こうしてルシアンと話すこともできているのだから。


「決して他言はしないと約束する。だから、君に将来の設計があるなら……話してくれないか?」


 真っ直ぐ見据えるルシアンの視線が、背筋にぴりりと走った。


(どうしよ。……考えたくなくて、何も考えないようにしていました、てへっ。なんて言える空気じゃない。このまま生きていたら、なんとなく聖女になるんだろうなー、っていうふわっふわした自覚しか持ててないのに……)


 むぐぐ、とエナが言い淀んでいると、ルシアンは椅子の背から身を乗り出し、さらに距離を詰めてきた。


「大丈夫だ。僕が力になると約束しよう」


 次期侯爵の、慈悲深い申し出である。就活生にとってはこれ以上ない最強の切り札だろうが、今のエナにとっては、逃げ場を塞ぐ言葉でしかなかった。


(聖女見習いだって余計に言い出しにくい……!)


 タイミングを逃して、逃して、逃しまくっている。

 きらきらと混じりけのない光を向けてくるルシアンから逃れるように、エナは口をついて出た言葉を、半ば投げ出すように放った。


「えっ、あー……そうだ。ルシアンの付き人とかやってみたいかもなー! って……思ったり、思わなかったり?」


 誤魔化すようにエナがこてんと首を傾げると、ルシアンの薄い瞼がわずかに下がり、ジトッとした呆れ半分の視線に変わった。


(うっ、怒られるかな)


 エナが内心身構えていると、ルシアンは深く溜息をつき、そのまま乱暴に前髪をかき上げた。


「君は、そう言ってすぐ誤魔化す」


 そして不満げな顔で机に肘をつき、言葉を続ける。


「……ふん。付き人は、せっかちで大雑把な君には務まらないだろうな」


 ちくりと皮肉を言いつつも、その口元は抗いようもなく緩んでいた。


(よかった、怒られなかった!)


 エナは内心でほっと胸を撫で下ろしながら、さらにおどけてみせる。


「大丈夫だよ。友情パワーでいけるいける」

「いいや、僕はコネを許さないぞ。実力で上りつめろ」

「望むところだよ」


 軽口を叩きながらも、エナの胸はズキンと痛んだ。

 ルシアンが真剣に訊いてくれたのに、結局はぐらかしてしまった。聖女科の生徒だから将来は聖女になる。だから大丈夫だよ、心配してくれてありがとう、と、ただそう言えばいいだけなのに。どうして自分は言い渋っているのだろう。


「そろそろ夕食時だが、先日の余った焼き菓子食べるか?」

「うん! 何のお菓子だっけ」

「フィナンシェとマドレーヌだな」

「やった、好物!」


 ルシアンは呆れたように息を吐きながらも、その視線はどこまでも柔らかかった。立ち上がって戸棚から籠を取り出し、そこに入っていた焼き菓子を二人でかじると、バターの豊かな香りが口いっぱいに広がった。

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