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【37】彼女の夢〈2〉

(いい匂い……)


 ふわりと鼻孔をくすぐるホワイトムスクの香りに、エナの意識がゆっくりと浮上する。んんう、と唸りながら重い瞼をわずかに持ち上げると、霞む視界の中で美しい金髪がさらりと揺れた。すぐ近くで、深いアメジストの瞳が眉尻を下げてこちらを覗き込んでいる。


「……起きたか」

「あれ……ルシアン? 私、寝ちゃってたの……?」

「ああ。毎日練習続きで疲れていたんだろう」

「そっかぁ……。課題終わらせようと思ってたんだけど」


 あくびを噛み殺しながら、ゆっくりと上体を起こす。すると動きに合わせて、ぽろりと何かが机の上に滑り落ちた。


「ん?」


 視線を落とせば、そこには上品な光沢を放つ男物のシルクのハンカチがあった。


(ハンカチ??)


 空気に触れた頬が、やけに冷たい。触ってみると頬は濡れており、ご丁寧にハンカチのしわ跡までついていた。きっとそのハンカチは先ほどまで、自分の顔の下に敷かれていたのだろう。


(ま、ま、まさか、よだれ垂れてた!?)


 背筋が凍りつく。バッとルシアンを見れば、彼はなんだか気まずそうに視線を逸らし、髪をかきあげていた。その指の隙間から見える耳の先が、不自然なほど赤らんでいる。

 よだれ疑惑が増しながらも、エナはおそるおそる問いかけた。


「あのー、これ、ルシアンのだよね。……ごめん、汚しちゃったかも」


 顔がカッと熱くなるのを感じながら、指でさっと頬の湿り気を拭う。


「いいんだ。その、君が……眠りながら、泣いていたから」


「私が泣いてた……?」


 ルシアンの言葉が、ワンテンポ遅れて鼓膜に届く。


(あ……よだれじゃなくて、涙だったんだ)


「そっか」


 よかった、と肺から一気に空気が抜けた。好きな人によだれか涙か、どっちの方を見られたくないかと言ったら、断然よだれの方である。安堵の溜息を吐きながら、エナは涙の粒がついた睫毛をぱちぱちと瞬かせた。


「ありがとう。洗って返すね」


 化粧が崩れることを恐れるより先に、ハンカチを指先で押さえるようにして目元の雫を吸い取る。


 そんなエナの姿を気まずそうに見つめていたルシアンは、一つ小さく咳払いをして誤魔化すように口を開いた。


「君が突っ伏していた魔導書だが……邪魔だと思って引き抜いておいた」


 そう言って、手元から分厚い魔導書を差し出してくる。


「わぁ……重ね重ね、ありがとうございます」


 エナが恭しく受け取ると、ルシアンは依然として目を合わせないまま、「それじゃあ、勉強を再開するか」と呟き、なんと自分の手元にあったインクの染みがついた紙をぐしゃぐしゃに握りつぶした。


(あれれ……)


 ルシアンが紙を汚して丸めるなんて珍しい。慣れないつけペンに悪戦苦闘して、エナは何枚の紙を無駄にしたかわからないというのに、彼はいつもさらさらと無駄のない美しい字を書き綴っていたはずだ。


(どうしたんだろう。ルシアンらしくない)


 エナは提出期限の長い課題を早々に諦め、受け取った魔導書の適当なページを開きながら、じっとルシアンの様子を盗み見た。


 彼の手にはエメラルドグリーンのガラスペンが握られているが、インク壺に浸す素振りはない。真新しいレポート用紙には一文字も書き込まれず、ペン先は紙の上でピタリと止まったままだ。どうやらルシアンは、どこか遠くへ意識を飛ばしているようだった。


(ルシアンも疲れてるのかな)


 無理を言ってダンスの練習を頼んだ身としては、なんだか申し訳ない。

 エナがそわそわと様子を伺っていると、不意にルシアンが顔を上げ、ばちんと真っ向から視線がぶつかった。


「ん? どうした?」


 優しく微笑みかけてくるルシアンの表情に、きゅんと胸のど真ん中へハートの矢が突き刺さる。


(ええい、しずまれぇい!)


 暴れ出しそうなときめきをぎゅっと押さえ込み、エナは瀕死の平常心になんとか鞭を打つ。


「……もしかして、ダンス練習のせいで、ルシアンも疲れてますか?」


 緊張のあまり、つい言葉が硬くなってしまった。誤魔化したくてへらへらと笑っていたら、ルシアンは不思議そうな顔をする。


「いや、ダンスくらいではさして疲れないが。なぜそんなことを聞くんだ?」

「いえー、そのー……なんだか疲れてるように見えたから、無理させちゃったのかなぁと思ってですね……」


 エナが明後日の方向を見つめながらしどろもどろに答えると、ルシアンはくすりと笑い声をこぼした。


「練習に付き合うと言ったのは僕だ。それに、体を動かしたいと思っていたと言っただろう? たとえ疲れていたとしても、それはダンスの練習とは全く関係がない」

「そっか」


 その言葉に、エナは安心して微笑んだ。ルシアンの優しさが嬉しい。


「疲れてるわけじゃないならよかった。でも、何か悩みがあるなら話してね! 練習のお礼に、このエナちゃんがなんでも相談に乗っちゃうから」


 おどけるように調子よく言うと、ルシアンは少しの間、何かを逡巡するように沈黙し──やがて、口を開いた。


「悩みはないが、一つ聞きたいことがある」

「いいよ、なんでも聞いて!」


 エナはどんと来いと言わんばかりに得意げに笑ってみせた。だが、次にルシアンの口から漏れた言葉は、その予想を遥かに超えるものだった。


「……君の実家はここから遠いのか?」

「え?」


 思いがけず投げかけられた問いに、エナの笑顔と思考が、ピタリと止まった。


「……じ、実家?」


(どうして急に)


 疑問が露骨に顔に出たのだろう。ルシアンが少し慌てながら付け加える。


「さっき……君は、泣きながら帰りたいと言っていたんだ」


 ルシアンの視線が、わずかに揺れて手元に落ちる。


(嘘……)


 目を見開いたまま、エナは自分の記憶の引き出しをひっくり返したが、何も見当たらない。寝ていたのだから当然といえば当然だ。


(え、私、どこまで言った?)


 もしかして、元の世界のことも、漫画のことも口走ってしまったのだろうか。


 この世界がかつて読んだ漫画とよく似ていることも、もしかしたらそのエンディング後の世界ではないかということも。ルシアンに関わらず、エナは誰にも一生話すつもりはなかった。


 彼が幼少期に負った傷も、クローディアに救われる運命も、失恋でさえ、そのすべてが漫画の設定だなんと告げるのは、彼の精神を破壊することに等しい。


 この記憶を墓まで持っていくことこそが、この世界に迷い込んだ者の、ルシアンやその世界の人々に対する最低限のマナーだと思っているのだ。


「──だから、もしかして遠方に故郷があるのかと思って、だな。詰問しようと思ってたわけじゃないんだが」


 俯いて頭の中でぐるぐると思考を巡らせていたエナを、ルシアンは言いにくいから口ごもったと捉えたようだった。焦ったように言葉を重ねる彼の様子から、その問いが純粋に物理的な距離を指していることがわかる。


(多分話してないっぽいな……)


「う、うん。王都とかじゃないから中々帰れなくて。……ホームシックなんて、恥ずかしー」


 エナはあえて少し照れたように肩をすくめ、無邪気な笑みを貼り付けた。

 その言葉に、ルシアンの瞳にふっと柔らかな光が宿る。


「……そうか。仲がいいんだな」

「あはは。……うん。愛されてたよ」


 意図せず過去形になってしまった。ルシアンは気にした様子はなく、その口元を緩めた。その表情があまりに美しくて、エナはぼうっと見とれてしまう。


「憧れるな」


 ぽつりと零れたルシアンの呟きが、やんわりとエナの胸を掠めた。

 幼い彼が求めていたはずの温もりを、親から一度も与えられなかったことを、エナは漫画を通して知っている。


「ルシアン……」


 何かを言いかけて、エナは開いた唇を止めた。彼の寂しげな気配を和らげる言葉を、自分は持っていない。ただ、この沈黙を埋めたくて、喉の奥まで出かかった彼の名前を、もう一度飲み込もうとした──その時。

 鼻の奥が、むずりと奇妙な疼きを訴えた。


「ハ、ハ……ックシュン!」


 静寂を裂いて、間の抜けた音が響く。


 ルシアンのアメジストの瞳が、ぱちくりと瞬いた。ルシアンは数秒、くしゃみの余韻で赤くなったエナの鼻先を見つめると、やがて堪えきれないように「あはは」と吹き出して笑った。

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