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【36】彼女の夢〈1〉

(いつの間に……)


 ふと顔を上げたルシアンの目に飛び込んできたのは、机に突っ伏して穏やかな寝息を立てるエナの姿だった。


 社交ダンスの練習を終えた後、ルシアンは研究に、エナは課題に取り組んでいたのだが、連日の猛特訓に疲れたのだろう。エナの下に広げられた魔導書のページが、彼女の規則正しい吐息に合わせて、わずかに震えている。


(起こした方がいいだろうか)


 迷った末に、ルシアンはそのまま寝かしておくことにした。代わりに、枕代わりになっている分厚い魔導書をそっと引き抜こうと手を伸ばす。摩擦音を殺し、重さを感じさせない速度で、静かに引き抜く。

 本を傍らに避けたとき、サンキャッチャーが反射した無数の光の粒が、紙の上に散った。


 窓から差し込む強い西日に目を細める。近頃は、日が傾くのもずいぶん早くなった。


 肘をつき、眩しさを避けるために視線を低くする。すると、西陽をいっぱいに受けたエナの顔が、驚くほど近くにあった。寝顔はあどけなく、気持ちよさそうに眠っている。


 普段は表情がくるくると変わる彼女だけに、こんなふうに静止した顔を見るのは珍しい。夕焼けの色彩のせいか、その肌は微かな熱を持っているように見えた。頬に落ちる睫毛の影が、思ったよりもずっと長いことに気づく。


(こんな無防備で大丈夫なのか)


 男と二人きりの密室ですやすやと眠る彼女を、ルシアンは凝視した。

 友人である自分を信頼してくれるのは、本来喜ぶべきことなのだろう。けれど、もし自分以外の誰に対してもこれほど無警戒な姿を晒しているのだとしたら──。

 そこまで考えて、ルシアンは我に返り、小さく眉を寄せた。


(彼女は、友人だ。……余計な勘繰りはよそう)


 奥歯を噛みしめ、言い聞かせるように自分の中に線を引く。 目が離せないのも、放っておけないのも、すべてはこの危なっかしい友人のせいだ。


 カリムやアルベールにこんな心配をしたことはないが、エナは女性だ。紳士として女性を気にかけ、慈しむのは当然の振る舞いだろう。ルシアンは自らの理屈に納得し、ほろりと表情を崩した。


 ふと、エナが小さく身じろぐ。はらりと零れた銀髪が鼻先を掠め、細い眉が中心に寄った。


(くすぐったいのか)


 ルシアンはふっと口角を上げ、指先を伸ばした。顔にかかった一房を指の背でそっと掬い、耳の後ろへ追いやる。


「……ん」


 湿った吐息が、指先に触れた。


「──っ」


 熱いものに触れたように、ルシアンは勢いよく手を引っ込めた。気づけば左手を胸元まで引き込み、椅子の脚が床を削る嫌な音を立てていた。


 あまりの動揺に、利き手で握りしめていたペンから逃げ出したインクが、真っ白な紙の上で無残に広がっている。幸い、新しく出したばかりの紙だったため、書き上げた魔法陣は汚さずに済んだ。


(落ち着け。……何に動揺しているんだ、僕は)


 激しく鳴り響く鼓動を抑えるように、汚れた紙をぐしゃりと握りしめる。いたたまれなくなってエナに視線を戻すと、彼女はまだ眠っていた。けれど、さっきまでの安らかな寝顔とは違い、その眉間には深い皺が寄せられている。


 今の物音が原因だろうか。ルシアンが音を立てないように息を詰めた瞬間、


「うぅっ……」


 エナの呻き声が聞こえて、ルシアンは固まった。閉じた瞼の端から一筋の雫が零れ落ちていく。


(泣いてるのか……?)


 涙はゆっくりと、けれどとめどなく溢れ出した。長い睫毛に雫を溜め、夕陽を反射して宝石のように輝きながら、頬を伝って消えていく。

 眠りながら静かに泣くエナの姿に、ルシアンの胸の奥が、冷たい手で握りつぶされたように疼いた。愛おしさと、それ以上の切なさが混ざり合う。


 ルシアンはハンカチを取り出し、そっとエナの目尻に触れた。ただ涙を拭うというより、彼女の胸の内に渦巻く悲しみそのものを拭い去ってやりたいという思いからの行動だった。

 そのまま静かに寝顔を見つめていると、しばらくして、エナの唇が微かに動いた。


「……りたい」


 小さな、か細い声がルシアンの耳に響く。


「……かえりたいよぅ」


 微睡みの中で漏れた、舌足らずな寝言の意味を理解した瞬間、ルシアンはほっとしたように目元を和らげた。


 ──帰りたい。

 エナはそう言っているのだ。


 彼女が帰りたいと願う場所は、きっとそう簡単に帰れる場所ではないのだろうと、ルシアンは直感的に悟った。


(……実家か、あるいは故郷だろうか)


 王都の近郊であれば、この間のルシアンのように汽車を使って週末だけ帰省することもできる。だが、彼女の故郷はきっと、それが叶わないほど遠く離れているのだろう。


 慣れない寮生活のなかで、彼女なりに一人、孤独に耐えていたのかもしれない。そんな見当違いの憶測を、ルシアンは確信に近い同情とともに抱いた。


 エナは小さくしゃくり上げて、ルシアンのハンカチをじわりと濡らしていく。

 そんな彼女を、ルシアンは愛おしくもどこか羨ましいと思った。ルシアンが領地の本邸に帰りたいと願って泣くことなど、一生ありえないからだ。


 それでも、エナがそう願うのなら。せめてこの瞬間だけは、一番近くで寄り添ってあげたい。

 ルシアンはそう強く願いながら、眠れる少女を静かに見守り続けた。

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