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【35】爆ぜる熾火〈2〉

 パチパチと爆ぜる暖炉の火を見つめながら、ルシアンはげんなりとした表情を隠せずにいると、「ルシアン、淹れたぞ」と不意に声がした。

 振り返ると、アルベールが湯気の立つカップを手に手招きしている。


「ミルクもいるか?」


 隣のカリムがにやにやしながら尋ねてきた。


「……ああ。頼む」

「珍しいな。いつもはストレートのくせに」

「……今日は、そんな気分なんだ」

「そうか」


 アルベールは不思議そうにしながらも、丁寧にミルクを注いでくれた。

 受け取ったカップを一口含めば、芳醇な香りと柔らかな甘みが広がった。だが、胸の中に居座る霧は一向に晴れる気配がない。


 あの後のエナはといえば、ルシアンの淹れたミルクティと茶菓子をこれ以上ないほど満喫し、最後には“るんるん”という擬音が聞こえてきそうなほどな足取りで、実にあっさりと帰っていったのだ。


 嵐が去った後のような静寂の中、自分だけが取り残されたような感覚に囚われている。


(なんで僕は、こんなに釈然としないんだ)


 ルシアンはカップの中身を一気に飲み干すと、ふっと溜め込んでいた言葉を零した。


「……女子が、わからない」


 絞り出すようなその響きに、隣でカリムが「いーっひっひ!」と品のない笑い声を上げた。アルベールの方を見れば、彼もまた眼鏡の奥の瞳を面白そうに細めてにやついている。


「……何がおかしい。笑い事ではないんだ」


 ルシアンはムスッと眉間に皺を寄せ、不機嫌を隠さずにそっぽを向いた。その余裕を失った不器用な反応が、友人たちにはさらに可笑しかったらしい。


「よく女子に囲まれているくせに!」

「……カリムほどじゃない」


 ルシアンがさらに眉根を寄せると、カリムはついに腹を抱えて笑い転げた。


(これまで人を殴ったことなどないが、今だけは無性にこいつをぶん殴ってやりたい……)


 ふるふるとやり場のない苛立ちを募らせていると、見かねたアルベールが間に割って入った。


「まあ、待てカリム。ルシアンがそんなこと聞くなんて珍しいだろ」


 アルベールが宥めるように言うと、カリムはさっきまでの爆笑から一転、今度は興味津々といった様子で目を爛々と輝かせた。


「好きな子でもできたのか!?」

「はあ?」


 ルシアンは呆れ果てたような、ひどく胡乱な目を二人に向けた。


「僕はクローディア一筋だ。お前らも知っているだろう?」

「んー……まあ、知ってるけどさぁ」


 カリムは角砂糖を追加し、スプーンでカチャカチャと品良く混ぜながら薄ら笑いを浮かべる。


「あの堅物のルシアンが、どうでもいい女子の考えてることがわからないなんて、そんなことで悩むのかーって思うじゃん。……なあ?」

「その通りだ」


 カリムの視線に、アルベールも深く頷いた。


「んで、その相手って誰なの? 見合い相手? 婚約者? はたまた隠し子?」

「……いや、隠し子も婚約者もいない」

「じゃあ、誰?」


 ルシアンは少し考える素振りを見せた。誰だと言われても、エナはエナでしかない。関係性と言えば先輩と後輩であり、そして──。


「……友人だ」


 ぽつりと呟くと、カリムが目を細めた。


「ふーん。ルシアンはその()()とやらに、随分と振り回されてるんだな?」

「…………っ」


 カリムの鋭い指摘に、ルシアンはぴたりと固まった。胸の奥に、得体の知れない感情がじわじわと侵食していくのを感じる。

 ルシアンはなんと言い返せばいいかわからず、ただ口を閉ざした。


(確かに。カリムの言う通りだ)


 振り回されているという自覚はなかったが、言われてみれば、自分は完全に彼女に振り回されている部類に入るのだろう。

 放っておけないと思うのも、泣き顔を見たくないと思うのも、彼女が来る来ないで一喜一憂するのも、すべて。


(別に彼女が初めての友人というわけでもないのに……)


 頭の中でじたばたしている自分を想像し、ルシアンは耐えかねて片手で顔を覆った。


 そんなルシアンの背中に、ぽんと軽く手が置かれる。


「まあまあ、気を落とすなって。男は女に振り回されてなんぼだって、よく父上も言ってる」


(カリムの言う父上とは、一国の国王じゃないか)


「……そ、そうか」


 カリムとよく似た容姿の偉丈夫が、がーっはっは!と豪快に笑いながらバンバンと背中を叩く想像をして、肩の力が抜けた。

 すると、アルベールもまた、ふっと柔らかく微笑んだ。


「僕もレイチェルには振り回されているよ。でも最近気づいたんだ。それがすごく楽しいんだって」


 アルベールが愛おしそうに婚約者の名を口にする。普段は誰に対しても冷静で理知的な男だが、ことレイチェル・メルディアの話題になると、隠しきれない愛情が言葉の端々に滲み出るのだ。


「今度、一緒に王都へ行ってオペラを観る約束をしているんだが。……ルシアン。その時、女子がいつも何を考えているのか聞いておいてやろうか?」


 人の悪い笑顔を向けるアルベールに、ルシアンは慌てて首を振った。


「いや……そこまでしなくていい」

「心配するな。レイチェルは淑女の中の淑女で、模範になるようなレディだからな」


 いつもの惚気話が始まったのを察し、カリムはさっさとキッチンへおかわりを注ぎに行ってしまった。


「メルディア嬢は、確か一つ下の学年だったな。学年が違うとあまり接点はないだろうに、上手くいっているんだな」


 ルシアンの言葉に、アルベールは当然だと言わんばかりに大きく頷いた。


「良好な関係の持続に大切なのは、何度も言葉を交わす接点を作り、それを継続することだよ。接点を切ってしまえば、どんなに惹かれ合っていても他人になってしまうからね」


 アルベールは眼鏡のブリッジをくいっと指で押し上げた。その姿は、ルシアンにはまるで人生を説く教師のように見えた。

 婚約者と上手くいっている男の言葉には、確かな説得力がある。


 アルベールの眼鏡のレンズに、暖炉の炎がちろちろと反射していた。この男はいつの日か、この炎のように温かく穏やかな家庭を築くのだろう。迷いのない、確信に満ちたその愛情が、今のルシアンには酷く眩しく、そして少しだけ羨ましかった。


(何度も言葉を交わす、か……)


 ルシアンは、手元のティーカップを見つめた。

 エナは毎日のように研究室に飛び込んできて、ルシアンに会いに来る。これ以上ないほど言葉を交わしていると言えるだろう。顔を合わせればよく笑い、ころころと表情が変わって、見ていて飽きない。ルシアンが意図的に冷たく接していた時でさえ、彼女は尻尾を振って懐いてくる子犬のようだった。


(彼女が僕を『好き』だと言うたびに、救われるような、突き放されるような心地がする)


 自分を特別視してくれているのはわかる。だが、その視線の先にあるのは“ルシアン・ベルクレア”という侯爵家の跡取りの姿なのであって、今ここで悶々としている等身大の“僕”ではないのではないか。そんな不安な問いが、頭をよぎる。


 だが、すぐにその考えを打ち消した。

 もしエナが打算や地位目当てで近づいてくるような女なら、ルシアンが気づかないはずがない。友人と言うまでに心を許すこともなかったはずだ。あんなにも強引に、かつ自然に、ルシアンの警戒の懐に入り込んでくることはないだろう。


 ふと、エナの風貌を思い返す。銀髪に赤眼。このアウレリウス王国において、銀髪の人間は決して珍しくないが、赤眼となると話は別だ。ルシアンの知る中でこの二つの容姿の特徴を併せ持つ者は、エナの他にもう一人だけ心当たりがあった。


(ああは言っていたけれど、もしかしたら──)


 その思考を遮るように、カリムが紅茶を啜りながら声を上げた。


「そういや、この前、聖女科の子たち見かけたぜ」


 ちょうど頭の片隅にあったその単語に興味を惹かれ、ルシアンは思わず身を乗り出した。


「……いつのことだ?」

「マカロン食った日」

「僕はパフェを食べた日だな」


 アルベールがカチャリとティーカップを置いて付け加える。


「珍しいな。彼女たちは滅多なことでは聖女棟から出ないだろう」


 ルシアンの言葉に、カリムが我が意を得たりと頷いた。


「だから覚えてたんよ。珍しー三人組だなってさ。フード被って顔を隠してたけど、レディ・ローゼンがいたから確定だと思うぜ」


(……三人組?)


 手に持つ紅茶の液面に、微かな波紋が広がる。

 この学園において、聖女科は一種の不可侵聖域だ。その人数さえ厳格に秘匿されているが、まさか、わずか三名しかいなかったとは。


(いや、カリムの話だ。三名“以上”いるかもしれない、という仮定の方が正しいだろう)


 聖女は国の宝だ。優れた医療資源であり、民衆の絶対的支持を集める象徴であり、あるいは他国との強力な外交カードにもなり得る。その価値は計り知れない。だからこそ、彼女たちはヴェルン王立魔法学園という鉄壁の結界で守られる我が校に在籍しているのだ。聖女見習いたちを育成するためだけではなく、その身を権力者たちの不当な搾取から守るために。


 絶対数が少ない聖女を、留学生であるカリムが母国に連れ帰ろうと目をつけていてもおかしくはない。むしろ、一国の王子としての責務を考えれば、その方が自然な思考だろう。


(あの方は聖女だが、エナは……)


 ちなみに、ルシアンの想像する一般的な聖女の姿は、いつだってお淑やかで、嫋やかで、常に慈愛の微笑をたたえているような女性である。その神聖な女性像に表情をくるくる変えて笑うエナが結びつくはずもなく──。


(いや、違うだろうな)


 エナは自分には貴族の血は流れていないと明言していた。そして、エナと同じ色彩を持つあの方の肉親は二人だけだ。


 そもそもあの方は──星詠みの聖女は、遠い異世界から来た存在なのだ。エナと血が繋がってるわけがない。


 パチッ、と暖炉の火が爆ぜ、ルシアンの整った横顔を赤く照らす。


 カリムが、その思索に耽るルシアンの横顔をじっと観察していることにも気づかず、ルシアンは手元のティーカップを見つめたまま、ただ一人、深い思考の海に沈んでいた。

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