【33】揺れる髪をすくいあげて〈4〉
差し出された髪紐を受け取り、ほっと胸を撫で下ろす。ところが、いざ結ぼうとして手が止まった。
……紐で髪を固定するやり方が、さっぱりわからなかった。
(あれ? 紐ってどうやって結ぶの? くるくる巻くの? ……どうすれば!?)
四苦八苦しながら髪と格闘していると、対面に座ったルシアンからくすりと弾んだ笑い声が漏れた。
「髪紐、使ったことないのか?」
「……うん」
恥ずかしくなって、腕を下ろすと、まとめようとしていた髪がさらりと零れ落ちて、カーテンのように顔を隠した。
すると、ルシアンが「あはは!」と声を上げて笑い出した。それは、エナ自身の笑い方にそっくりな、屈託のない響きだった。
(……あ)
いつも澄ましているルシアンに、自分の笑い方がうつっている。それが可笑しくも、無性に気恥ずかしい。
少し崩れたその笑い方は、彼がやると驚くほど爽やかで、清涼感すら漂っていた。
エナは思わず息を呑み、ルシアンを見上げたまま硬直する。普段の彼なら絶対に見せないような、形振り構わない笑顔が視界をいっぱいに占領していく。
心臓が内側から、ぎゅっと握りつぶされたような感覚に陥った。
(──ああ、好きだな)
自分にだけ、こんなに隙を見せてくれるところが。いつの間にか同じ笑い声を上げているところが。たまらなく愛おしくて、心底、彼が好きだと思った。
ひとしきり笑うと、ルシアンは席を立ってエナの手から髪紐をひょいと奪った。
「あ……」
口惜しげに漏れた声に、すぐ間近から「僕がやる」と、鼓膜を震わせるような優しい声が重なる。
ルシアンはエナの背後に回ると、大きな手で長い髪を梳き、後ろへと集めていく。
(う、つめたい……)
うなじを掠める指先に、エナの肩が小さく跳ねる。
けれど、ルシアンの手つきは驚くほど繊細だった。迷いのない動きで髪を編み込んでいく様子は、随分と手慣れている。
「……上手だね」
「まあ、以前に髪が長かった時期があるからな」
ルシアンは否定せず、けれど少し照れたような、柔らかな声で応じる。耳のすぐ後ろで響くその声色に、エナの背筋がくすぐったいような心地になった。
「へえ……そうなんだ」
エナは少し俯き、長い睫毛を伏せた。
(知らないふり……上手くできてるかな)
声の抑揚、表情、仕草。その全てに細心の注意を払い、エナは微笑んだ。
もうボロは出せない。エナが知るはずもないことを知っていたら、不気味に映るだろう。何より、ルシアンに嫌われたくない。
窓から差し込む夕陽が、机の上に長い影を落とす。髪を編むルシアンの指先が動くたびに、重なり合った二人の影がゆらゆらと揺れた。静まり返った部屋に、二人の呼吸と、髪が擦れる微かな音だけが溶け合っていく。
背中越しに伝わるルシアンの体温を感じながら、エナは動かないようにじっと前を見つめていた。
「……綺麗な髪色だな」
不意の落ちてきた言葉に、エナは照れくささを誤魔化すように前髪を弄った。
「えへへ。……でしょー?」
エナの前髪は顔のまわりで、緩い曲線を描いている。
「ブリーチ要らずで気に入ってるの」
俯いて呟いた声が聞こえなかったのか、ルシアンが横から覗き込んでは、じいっとエナの瞳を見つめた。
「その瞳も、本当に綺麗だ」
「あ、ありがとう。……えへへ。褒められても、なーんにも出ないよ?」
あまりに真顔で褒めるから、茶化しながら平静を装う。
「本心だ」
真っ直ぐな言葉に耐えきれず、「お、おう……」と呟いてエナは目を伏せた。視界の端に、自分の銀色の睫毛が映る。
この世界に来てから、髪も瞳も本来の色を失って変色してしまった。以前、学園長に聞いた話では、前に異世界からやって来た聖女も今のエナと同じ色彩をしていたという。この世界の魔力を帯びた空気に触れたことで、体内のメラニンが何らかの変調が起きたのではないか──それが、エナなりの分析結果だった。
(ブリーチ要らずだし、綺麗なカラコンをつけてるみたいで気に入ってるから、別にいいんだけど……)
けれど、それを「綺麗だ」と面と向かって言われるのは、また別の話だ。ルシアンの熱を帯びた視線が、髪を、瞳をなぞるように注がれている。その重みに、エナの頬はさっきよりも一段と熱くなった。
「その目も髪も、平民では珍しいのではないか?」
ルシアンの声音には、わずかに探るような緊張が混じっていた。
(……ん?)
その真剣すぎる眼差しを向けられて、エナは気づいた。ルシアンは口にこそ出さないものの、どこぞの貴族の落とし胤ではないかと訊いているのだ。
エナは内心でにやりと笑った。まだルシアンには自分が聖女であることも、別の世界から来たことも、冗談めかしてしか伝えていない。もし本当のことを話して虚言癖があるなんて思われたら、嫌われてしまったら、もう生きていけない。その恐怖から、エナは意図的に言葉を濁してきた。
聖女の件だって、隠し通すつもりはなかったが、切り出すタイミングを逃し続けていただけだ。
(この際、いい機会かも)
エナは髪を預けたまま、居住まいを正した。
「あのね、ルシアン。実は私──」
「すまない……言わなくていい!」
打ち明けようとした瞬間、ルシアンが慌てて言葉を遮った。
「家庭の事情に踏み込みすぎた。今の質問は忘れてくれ。……すまなかったな」
「……え、別にそんなんじゃ──」
「いいんだ。無理に話さなくていい」
ルシアンの様子からして、完全に訳ありの私生児だと思い込んだらしい。申し訳なさそうに視線を逸らすルシアンを見て、エナは少しムッとした。
「別にルシアンが想像しているような、隠し子とかじゃないんですけど。貴族の血なんて、これっぽっちも引いてないんですけどー」
ツンと横を向いて、拗ねたふりをしてみせる。すると、ルシアンは嘘をつかせてしまった、とでも言いたげな顔でさらに狼狽し始めた。
「……できたぞ」
三つ編みが完成すると、ルシアンは慌てて棚へ向かい、高級そうな茶菓子とエナの好きな紅茶の茶葉を取り出した。
これでエナの機嫌が取れると、知っているのだ。すっかり自分の扱いを学習してしまっているルシアンが可笑しくて、エナは我慢できずにくすくすと笑い声を上げた。
湯を沸かしているルシアンが、落ち着かない様子でこちらを盗み見る。その、普段なら想像もつかない姿が可愛くて、また笑みが零れた。
(ルシアンが私のために一生懸命になってくれるだけで、機嫌なんてとっくに直るんだけどね)
エナは拗ねたふりをやめて椅子から立ち上がると、ルシアンの背中へと歩み寄った。
三つ編みにされたばかりの髪が、背中で心地よく揺れる。
「ねえ、ルシアン」
振り向いたルシアンを見上げ、エナは真っ直ぐにその瞳を見つめた。
「嘘つかないよ、私。……少なくとも、ルシアンには」
エナはその顔を覗き込むように距離を詰めると、にんまりと艶っぽく微笑んでみせた。
(ふふん。これでも私は、君よりお姉さんなんだからね)
心の中で密かに優越感に浸りながら、棚からティーポットを取り出す。
一方のルシアンは、年上のお姉さんの余裕たっぷりの笑顔に、顔をぶわっと真っ赤にして固まっていた。
エナは編んでもらったばかりの三つ編みを指でなぞり、くるりと肩の前に持ってきた。
「……ねえ。今度、染めてみようかな」
そして、茹で上がったように赤い顔をしているルシアンを悪戯っぽく見上げ、
「……金色とか」
頬を緩めて微笑んだ。
──ルシアンの色と同じ、輝く金。
染めてみるのもありだな思った。
エナは楽しげに微笑むと、夕陽に透ける自分の銀色の髪先を指で弾いた。




