【32】揺れる髪をすくいあげて〈3〉
「ほんとに、ほんとに、ほんっっとうに、ごめんね……」
床に座り込んだまま、エナは消え入りそうな声でしゅんとして謝った。せっかくの練習を台無しにしたどころか、ルシアンを押し倒すという大失態を犯してしまったからだ。
だが、ルシアンは衣服の乱れを軽く整えると、怒る風でもなく穏やかに首を振った。
「そう何度も謝らなくていい」
「で、でも……」
「君に怪我がなくてよかった。それが一番だ」
そう言って、ルシアンがふっと柔らかく微笑む。
その破壊力抜群な笑顔を間近で浴びて、エナは胸を押さえてその場に膝をつきそうになった。
「なんて、紳士なの。ああ、もう……大好き」
あまりの尊さに、脳より先に唇が動いていた。
ぽろりと零れ落ちた好意に、言われたルシアンは目を見開いたまま固まり、さっと立ち上がり、勢いよく上体を逸らして後退った。
「──っ、久々だな……それ」
ルシアンは顔を背け、誤魔化すように拳を口元に当てて咳払いをした。
エナはえへへ、と照れ隠しに笑う。ルシアンへの恋心を自覚してからは、恥ずかしくって、口が裂けても言えなかった。でも、初対面で「一目惚れした」と迫った仲なのだ。……今更である。
──『彼を想うことで、エナが苦しむ必要はないわ』
親友のリリアとセラフィナから励まされて、エナは自分の恋心を否定するのをやめた。たとえルシアンがクローディアのことを愛していたとしても。この恋が報われない結末に向かっていたとしても。この好きという感情だけは誰にも恥じる必要なんてない。
ルシアンの困ったような、けれど決して拒絶はしていない横顔を見つめ、エナは胸の奥でぎゅっと拳を握りしめた。一度大きく深呼吸をして、乱れた鼓動を落ち着かせると、スッと姿勢を正す。
「練習、付き合ってくれてありがとう。ルシアンも研究で忙しいのに、私のわがままに付き合わせちゃって、ごめんね」
動いたせいで、乱れた髪が頬にかかって邪魔になる。髪を結い上げようとポケットを探ったが、あるはずのヘアゴムが見当たらないことに気づいた。
(……あれ? それにしても、私の髪、こんなに長かったっけ)
元の世界でもロングヘアではあったが、今の長さは優に腰を越え、さながらスーパーロングだ。指先に絡まる髪の重みを感じ、ここへ来てから積み重なった月日の長さを改めて突きつけられたような、不思議な感慨が込み上げてくる。
ぼんやりと思考の海に潜りながら髪を弄っていると、黙ってその様子を見つめていたルシアンが、不意に棚の引き出しから何かを取り出した。
「髪紐なら……これがあるが」
「えっ!」
差し出されたのは、金糸と紫の糸で緻密に編み込まれた一本の髪紐だった。その先端には、小ぶりながらも深く、神秘的な輝きを放つアメジストが飾られている。
(これ……! クローディアがルシアンに贈った、あの髪紐だ)
瞬時に、漫画の知識が脳内を駆け巡る。これはルシアンの十七歳の誕生日に贈られた品で、彼がいつも大切に髪を結っていた宝物のはずだ。今は髪が短いから仕舞ってあるのだろうが、それを知っている身としては、あまりに重すぎる代物だった。
「い、いいよ! これ、ルシアンの……すごく大切なものでしょう?」
借りるのは申し訳なかったし、何より、ルシアンが大事にしている特別な贈り物をただのゴム代わりに使うのは心が痛んだ。
脳内思考に没頭していたエナは、その場にふいに落ちた、重苦しい沈黙に気づくのが一歩遅れた。
「……なぜ、これが大切だと?」
氷の刃を突きつけられたような、ルシアンの低い声。
見上げれば、彼の眼差しは一瞬で鋭く、険しいものへと変貌していた。
(しまった……!)
エナは心の中で絶叫した。
クローディアが贈り、ルシアンがそれを大切にしているという背景を、エナが知るはずもない。初めて見るのはずの品に対して、その価値を知っているような振る舞いは、あまりに不自然すぎた。
「だ、だって──」
脳みそをフル回転させて、エナは必死に言い訳をひねり出した。
「その髪紐の色……ルシアンの色でしょう? これ、誰かからの贈り物だよね?」
手に持つ髪紐のアメジストに、視線を落とす。
「ルシアン……私が贈ったものも、すごく大切にしてくれてるから……」
窓辺に視線を向ければ、ピンクのサンキャッチャーが光を散らしている。
ルシアンが時折、部屋に散らばるエナの贈り物に時々視線をやっては、ふっと柔らかく目を細めるのをエナは知っていた。
「これ……贈った人が、ルシアンのことを一生懸命考えて選んだ物だって、見ればわかるもん。そんな素敵なものを、ルシアンが無下に扱うはずないでしょ?」
実際、漫画の中では、クローディアが悩み抜き、レオンハルトに助言をもらって選んでいた逸品だ。その背景を知っているだけに、胸がチクリと痛む。
(うわぁ、自分から言っておいて心にダメージが……)
エナは胸の痛みを隠し、無理に笑顔を作ってルシアンを見つめた。
「だから大切なものなんだろうなって思ったの。……それは、ルシアンだけが使って。……ね?」
ルシアンの鋭い視線が和らぎ、室内の重苦しい空気が霧散していくのがわかる。それから、しばらく黙って髪紐を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……君は、妙なところで鋭いな」
険のとれた、柔らかい声だった。
(あー……危なかった! 心臓止まるかと思った……)
ルシアンはエナの手からアメジストの髪紐をそっと受け取ると、大切そうに、けれどどこか複雑な手つきで引き出しへ戻した。
「それなら、こっちを貸そう」
背を向けて、引き出しから取り出したのは、飾りのない簡素な髪紐だった。
「僕が以前、適当に買って使っていたものだ。だから……遠慮しなくていい」
差し出された紐を見つめ、エナの瞳がぱちぱちと瞬く。
先ほどまでの鋭い視線が嘘のように、今のルシアンの瞳には、険悪な雰囲気にさせてしまったへの申し訳なさと、穏やかな光が滲んでいた。
(切り抜けた……!)
「ありが、とー……」
エナは心の中で盛大に、けれど深く、深ーーく安堵の息を吐き出した。




