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【31】揺れる髪をすくいあげて〈2〉

「……とりあえず、その机を少し下げるか」


 ルシアンが軽く手を振ると、あの重厚なデスクが軽々と浮き上がり、部屋の隅へと追いやられた。真ん中にぽっかりと空いた空間が、エナのための即席ダンスフロアに変わる。


(まさか、ルシアンが手伝ってくれるなんて……)


 予想外の展開に拳を握りしめる。せめて足だけは踏まないように、迷惑をかけないようにしよう。エナは自分に言い聞かせて、深くお辞儀をした。


「……お願いします!」


 ルシアンは少しだけ驚いたような顔をした後、穏やかに笑った。


「ああ」


 そのあまりに優しい表情に、エナの心臓が不意を突かれたようにトクンと跳ねる。


「それじゃあ……まずは基本の形だ。右手を出して」


 促されるまま、おずおずと右手を差し出す。エナの手を、ルシアンの大きくて節立った指が包み込んだ。

 心臓がうるさく跳ね上がるのを必死に隠そうと、エナは唇を強く噛み締める。ルシアンに触れ合っている場所から、じわじわと熱が全身に広がっていくようだった。


「左手は僕の肩に。……そう。僕は君の腰に手を添える」


 腰に、ルシアンの大きな掌が添えられた。

 厚いローブ越しだというのに、そこから確かに伝わる体温と、引き寄せられるように感じた身体の距離に、思わず喉の奥がひくりと鳴る。


「もっと、近くに来てくれ。そんなに離れていてはリードできない」

「……でも、足を踏んじゃいそうで、怖い」

「僕が踏ませないように動く。君は僕の目を見ていればいい」


 言い切るルシアンの瞳には、エナだけが映っている。真っ直ぐ見つめられるあまりの近さに、頭の中がパニックを起こしそうだった。


(……これは、ダンスの練習。私は付き合ってもらってる立場!)


 先日ようやく自覚した恋心を、今は必死に心の隅へと追いやり、エナは覚悟を決めてもう一歩、彼との距離を詰めた。

 ルシアンが再び指を振ると、どこからともなく優雅な演奏が流れ出す。


「まずはボックスステップだ。僕の動きに合わせて、右足から──」


 ルシアンの先導で、ゆっくりと一歩を踏み出す。


「一、二、三。一、二、三……。いいじゃないか、ちゃんとできている」


 予想外に素直な称賛を贈られ、エナの頬がわずかに上気した。

 心地よいリズムに身を任せようとした、その時だった。ふわりと鼻先をかすめたホワイトムスクの香りに、熱を出して寝込んでいた時の記憶が揺り起こされる。


 あの時も……この匂いに包まれていた。彼の声に、その温もりに、どうしようもなく安心して眠りに落ちたのだ。


(……待って。そういえば私、あの時……!)


 脳裏に、熱に浮かされた自分の声が鮮明にフラッシュバックする。


『やだ、行かないで』


 縋るように彼の服を掴み、甘えた声を出す自分の姿。


『どこ行くの』


(……えっ)


『やだ……独りにしないで』


(ああああ……っ!!)


 意識が朦朧としていたとはいえ、あんな痴態を晒してしまったなんて。再試験の衝撃ですっかり忘れていたけれど、顔から火が出そうなほどの羞恥が突き上げる。


(あ〜……恥ずかしい!)


 あまりの動揺に、エナの足がもつれた。


「うわっ……!」

「おっと!」


 ぐらりとバランスを崩したエナの身体を、ルシアンの腕が瞬時に抱きとめる。不意に彼を抱きしめるような形になり、エナは図らずもルシアンの胸の中にすっぽりと収まってしまった。


「……途中までは上手くいっていたのに、急にどうしたんだ?」


 呆れ気味なルシアンの声が頭上から降ってくるが、エナの心はそれどころではなかった。腕の中から伝わる熱、広い胸板の感触。

 寝込んでいた数日間、彼に会えなかった寂しさが、この密着感で一気に満たされていく。


(集中、集中……っ! おちつけ、私!)


 必死に叱咤し、ぎこちなく足を動かし始める。だが、どうしても自分の足元が気になって俯いてしまい、そのたびにルシアンの顎に頭がぶつかりそうになり、慌てて首を引っ込めた。


「下を見るな」


 不意に、重なった手からぐいっと力が伝わる。


「……僕を見ろと言っただろう」


 低い声で優しく諭されて、思わず「ひゃい!」と情けない声を上げて顔を上げた。その瞬間、ルシアンの鼻先が触れそうなほど顔が接近する。


(ああ……もう無理。死んじゃう。心臓止まる……っ!)


 そう思った時には、もう遅かった。

 エナは思いきりルシアンの靴を踏んづけてしまい、バランスを崩して派手に転倒した。



 ──ルシアンを、床に押し倒して。



「な……っ!?」


 ルシアンの、短い絶叫が静かな研究室に響き、ドサリという重い音と共にエナの視界がぐるりと回る。


 鼻先が触れそうなほどの至近距離で、ルシアンの瞳が驚愕に大きく見開かれていた。重なり合った身体からは、彼の硬い体格と、ドクドクと速い心臓の鼓動が、ぶつかるような激しさで伝わってくる。


 全身を包み込むホワイトムスクの香りに、エナの脳内はパニックを一周回って、逆にふっと冷静になった。


(…………これ、再試験どころじゃないな)

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