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【30】揺れる髪をすくいあげて〈1〉

(……憂鬱だ)


 職員室を後にしたルシアンは、独りごちて溜息をついた。

 呼び出された理由は、次週から三週間続く実技演習についてだった。研究生であるルシアンは座学こそ免除されているものの、実技への出席は必須であった。


(今更、学園レベルの魔法で何を学べというんだ)


 ルシアンにとって、学園で学ぶ基礎の魔法はもはや習得すべきものではなく、自在に操る手足の一部に等しい。侯爵家の名にかけて授業の手を抜くことはないが、結末のわかりきった演習をなぞるのは、退屈以外の何物でもなかった。


(今は何よりも、個人の研究を進めたいというのに……)


 開発中の睡眠魔法は、ようやく形にはなってきた。だが、描いた魔法陣にはまだ無駄が多い。膨大な魔力量を誇るルシアンなら力技で発動できるが、汎用性を高めるにはさらなる改良が必要だ。誰でも安定して使えるようにするには、術式をさらに最適化し、洗練させる必要があった。


 魔法学そのものへの探究心は人一倍持っている自負がある。だが、最終学年で卒業が刻一刻と近づいている今、悠長に構えてはいられない。ひとたび卒業し、侯爵家の跡取りとしての責務が待つ領地へ戻れば、こうして魔法に没頭できる時間は二度と訪れないのだから。


 悶々とした気持ちを抱えたまま、静まり返った特別棟へと足を踏み入れる。人気のない廊下に響くのは、ルシアンの苛立ちを映したような硬い靴音だけだった。

 自分でも少し機嫌が悪いと自覚しつつ、慣れ親しんだ扉へ手をかける。


 ……だが、ゆっくりと研究室のドアを開けた瞬間、不機嫌に尖っていたルシアンの意識は、ふわりと凪いだ。

 西日の差し込む静寂のなか、一人の少女が、いつの間にか持ってきた椅子に勝手知ったる様子で腰掛けていた。エナだ。彼女は物憂げに頬杖をつき、ルシアンが入ってきたことにも気づかない様子で、ぼんやりと一点を見つめて考え込んでいる。


 エナがここへ出入りするようになってから、研究室に鍵をかけるのはやめていた。彼女がいつ来てもいいようにと、無意識に習慣を変えてしまっている自分に苦笑する。

 同時に脳裏に浮かぶのは、先日の熱に浮かされたエナの姿だった。浅い呼吸を繰り返し、苦しげに眉を寄せていたあの光景が、ことあるごとに蘇っては、ルシアンの胸の奥をざわつかせていた。


(……熱は、もう下がったのか)


 安堵が広がる一方で、こちらに背を向けたまま動かない彼女の後ろ姿に、微かな焦燥が混じる。まさか、また無理をしてやって来たのではないか。

 懸念を振り払うように、ルシアンは静かに扉を閉めた。


 ギィ──と小さな軋み音が響く。

 その音で、エナはようやくルシアンの帰還に気づいたようだった。どこか心ここにあらずといった様子で、ゆっくりとこちらを振り返る。


「もう、体調は──」


 平気なのか。そう問いかけるより早く、エナが立ち上がった。


「ルシアンだぁ……」


 ふらふらと近づいてきたかと思うと、エナはそのままルシアンの胸元に頭を預け、ぐりぐりと額を押し付けてきた。


「お、おい……」


 唐突な密着に、心臓が跳ねる。頭の中が真っ白に吹き飛ぶほどの動揺が全身を駆け抜けた。


「……こ、こういうのはよくない。離れてくれ」


 慌てて押し戻そうとしたが、伸ばしかけた手の先には彼女の柔らかな髪がある。レディの頭を無造作に掴むわけにもいかず、行き場を失ったルシアンの腕は、ただ空を彷徨った。

 どう引き剥がすべきか。混乱するルシアンの耳に、胸元からくぐもった呻き声が届いた。


「うー……っ」


(な、泣いているのか……?)


 よぎった不安に、ルシアンは息を詰めた。不在の間に何かあったのか。それとも、知らぬ間に自分が気に障ることをしたのか。

 まごつくルシアンをよそに、エナは頭突きを止めて、潤んだ睫毛を震わせて顔を上げた。


「……僕が何か、君を泣かせるようなことをしたのか?」


 絞り出すような問いに、エナは「ルシアンが!? ないない、絶対に違う!」とぶんぶんと首を振った。


「違うの。ルシアンのせいじゃないし……泣いてない。でもすっごく困ってるの。ど、どうしよう……っ!」


 自分の過失ではない。その事実が判明した瞬間、ルシアンの胸を支配していた凍てつくような緊張が、音を立てて溶けていった。


(……よかった。僕が彼女を傷つけたわけではなかったんだ)


 張り詰めていた肩の力がふっと抜ける。だが、安堵の波が引いた後に残されたのは、泣いていないと言い張りながら今にも零れそうな涙を溜めて、自分を見上げるエナの姿だった。

 ルシアンは心臓のあたりがぎゅっと掴まれたような錯覚に陥る。


「どうしたんだ。何かあったのか?」


 思わずエナの細い肩を掴み、その顔を覗き込む。誰かに虐められたのか。それとも教授から不当な扱いを受けたのか。いずれにせよ、エナが困っているという事実は、ルシアンにとって看過できないことだった。


「僕が必ずなんとかする。だから、何でも話してくれ」


 あまりに切実なルシアンの眼差しに、エナは気圧されたように身を引いた。


「いやぁ……ルシアンからしたら、ほんっとに大したことじゃないから! むしろがっくりすると思うし!!」


「気にしないと言っている。言ってみろ」


 肩を掴む手に力がこもる。ルシアンはエナの表情を逃さないよう、食い入るようにその瞳を覗き込んだ。

 ほんとね、全っ然、大したことじゃないんだけど……と何度も前置きしてから、エナが観念したように視線を泳がせ、ようやく小さな声で白状した。


「……実は、来週再試験があるのに、社交ダンスが上手く踊れないの」


 ……重苦しく張り詰めていた空気は、その一言で霧散した。


 ルシアンは知る由もないが、聖女のカリキュラムには治癒魔法だけでなく、王国史や社交マナーも含まれる。そしてエナが現在、最大の壁としてぶち当たっているのが、この社交マナーの実技であった。


「……社交ダンス?」


 そんなもの、貴族であれば物心がつく頃には叩き込まれているはずだろう。ルシアンは訝しげに眉を寄せたが、すぐに合点がいった。


(……ああ、そうか。エナは平民だったな)


 自分たちにとって、ダンスは呼吸と同じほど当然の教養だが、エナにとっては全く未知の領域なのだろう。


「再試験に落ちると、放課後強制補習になっちゃうんだって! そうなったら、ここに通えなくなっちゃう……」


 だからそれを伝えに来たのだと、絶望したように頭を抱え、めそめそと泣き言を漏らすエナを見て、ルシアンは拍子抜けして小さく息を吐いた。


(なんだ……そんなことか)


 だが、その“そんなこと”のために、彼女がここへ通えなくなることを惜しんでいる。

 その事実が、ルシアンの胸を熱く焦がした。喉の奥から込み上げてくる喜びを噛み殺すように、もう一度拳を握りしめる。


「……練習に、付き合おうか」


 気づけば、言葉が口をついて出ていた。

 胸の内に、奇妙な高揚感が芽生える。彼女の知らない世界を、自分が教える。それはきっと、友人として彼女を正しく導かなければならないという一種の使命感に近いものなのだろう。……少なくとも、今のルシアンはそう解釈した。


「えっ?」


 弾かれたようにエナが顔を上げ、目をぱちぱちと瞬かせる。


「友人のピンチ……だからな。それに、僕も少し体を動かしたいと思っていたところだ」


 取ってつけたような言い訳を並べ、ルシアンはそうっと視線を泳がせた。エナの肩を掴んでいた指先に、じんわりと熱がこもる。無意識にずっと掴んでいたことに気づき、慌ててその手を離した。


(僕としたことが、何をやっているんだ……)


 病み上がりを心配していたとはいえ、こんなに強く引き止める必要はないはずだ。なぜだか、頬から耳の裏までが焼けるように熱い。ルシアンは誤魔化すように空いた方の手で口元を覆い、一つ、わざとらしい咳払いを落とした。


 そんなルシアンの葛藤など露知らず、言葉を咀嚼したエナの顔がぱあっと輝いた。


「……いいの?」

「ああ」

「ほんとの、ほんとに?」


 期待に満ちた瞳で見つめられ、ルシアンの口元が自然と綻ぶ。


「──ああ。合格するまで、僕が付き合おう」


 そう言うと、ルシアンはくしゃりと笑った。王都で見せた貴族らしい鉄の仮面などどこにもない、年相応な笑みがあった。

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