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【24】名前のない感情〈2〉

 庭園の散策中、リリアーヌがふと足を止め、西日に縁取られたルシアンの横顔をじっと見つめた。


「ルシアン様。先ほどから貴方は、わたくしの言葉に完璧な返答をくださるけれど……」


 彼女は小さく溜息をつき、揺れるダリアの花びらにそっと指先を触れさせた。


「──わたくしことを、一秒でも“見て”くださいましたか?」


 心臓の奥を直接覗き込まれたような、鋭い問いだった。

 ルシアンは一瞬だけ言葉に詰まり、視線を落とした。けれど、次の瞬間にはもう、外行きの紳士の笑みを貼り直していた。


「リリアーヌ嬢。……私の未熟さが、貴女の歩みを止めてしまうのではないかと、そればかりが案じられます」


 自らを貶めることで、暗に自分に期待しても無駄だと突き放す。

 リリアーヌ少しだけ驚いたように目を瞬かせたが、ルシアンの笑みの裏にある、拒絶の色を敏感に察したようだった。


「……ふふ。ルシアン様は、意外とずるいお方なのですね。承知いたしましたわ」


 彼女はふうっと息を吐き、それ以上何も望まないと言わぬばかりに、優雅に身を翻した。

 けれど、去り際にリリアーヌは振り返り、意地の悪い、それでいて真意を探るような鋭い眼差しを投げかけてきた。


「そういえば……ルシアン様? 今も()()、妃殿下をお慕いしていらっしゃるの?」


 その問いは、ルシアンの心の最も奥底に、土足で踏み入るような無遠慮なものだった。

(自分の恋情が、周囲に知れ渡っていることは理解している)


 以前のルシアンならきっと、腹が立って相手を言葉で傷つけにいっただろう。

 だが、今の自分は彼女を不誠実に断った立場だ。何を言われても文句は言えない。


「…………」


 僅かに開いた唇が、行き場を失って震える。

 慕っている。そう答えようとして、ルシアンは自分の指先が白くなるほど拳を握りしめていることに気づいた。


「ごきげんよう、ルシアン様」


 リリアーヌはそれだけを残して去っていった。その視線は、もはやルシアンを追ってはいない。


 クローディアがレオンハルトの妻となった今、その想いを吐露することは、単なる恋慕の宣言ではない。それは王太子への反逆であり、略奪の意志があると取られかねない危険な火種だった。


(……そんなこと、できるはずがない)


 自分はまだ、クローディアのことを想っている。彼女以上の女性など、現れるはずがない。


 ──『ルシアン……私が、幸せにするから』


 見合いの最中も、令嬢と毒にも薬にもならない会話を交わしている最中も、その呪文のような言葉が、しつこい耳鳴りのようにルシアンを苛んだ。


 家のため、義務のため、次期侯爵としての仮面を被って立ち回ってきた自分を、彼女はたった一言で、根底から揺さぶってしまった。

 それは、エナが庶民だからなのかもしれない。貴族としての振る舞いも、守るべき家も、彼女にとっては取るに足らないものに過ぎないのだろう。


(……どうせ、僕の傍に居続けることなどできないのに)


 幸せにするなんて、あまりに無責任で、眩しすぎる傲慢だ。そんな夢物語を信じられるほど、自分は幼くない。それなのに、あの時感じた彼女の手の熱が、いつまでも掌に残っている。


(幸せにしてくれ、とせがまれたなら。僕はあの時、彼女の手を振り払えただろうか)




 ガタン、と大きく車体が揺れる。


 窓ガラスに映る自分の顔は、歪んでいた。冷淡な父によく似た表情に耐えきれず、ルシアンは嫌悪感を隠すように乱暴に顔を背ける。


 トンネルを通り過ぎ、汽車は間もなく、学園の最寄り駅へと滑り込む。


 汽笛の音が、今のルシアンには、ひどく耳障りに響いた。

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