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【23】名前のない感情〈1〉

 ガタゴトと、規則正しい振動が体に伝わってくる。


(……結局、無駄足だったな)


 ルシアンはコンパートメントの座席に深く身を沈め、窓ガラスに映る自分の顔を無機質に眺めた。独りきりの室内。窓の外では王都の整然とした街並みが遠ざかり、夜の帳が降りた平原がどこまでも広がっている。


 閉ざされた空間で揺られながら、ルシアンの思考は昨夜の出来事へと引き戻された。


 熱に浮かされ眠ってしまったエナを抱きかかえ、夜の廊下を医務室へと急いだ。幸い、校医のセオドア先生がまだ残っていた。ルシアンのローブに包まれたエナの姿に先生はひどく驚いていたが、容体を聞くとすぐに手際よく診察を始めてくれた。


 診断は、ただの風邪とのこと。命に別状がないとわかり安堵したものの、同時に、もっと早く彼女の異変に気づいてやるべきだったという猛烈な自責の念が、ルシアンの胸を焼いた。

 セオドア先生から「君は寮に戻って休みなさい」と促されても、それを頑なに拒み、夜明けまで彼女の傍らで看病を続けた。本当は、彼女が目を覚ますまでその手を見守っていたかったのだ。


 だが、それを一通の手紙が許さなかった。


 現侯爵である父が「予定を空けて王都に来い」と命じた休日。それが生憎今日だったのだ。

 嫡子であるルシアンにとって、父の言葉は絶対的な拘束力を持つ。


 後ろ髪を引かれる思いで学園を後にし、王都のタウンハウスに足を踏み入れたルシアンを待っていたのは、案の定、見え透いた縁談の打診だった。


 重厚な扉が開かれた先、応接室には父と共にベルモンド伯爵と、その傍らで花のように微笑む令嬢が座っていた。


「遅れて申し訳ありません。アッシュフォード侯爵が嫡男、ルシアン・ベルクレアです」

「おお、我が息子、ルシアンよ。よく来た。まずは座りなさい」

「はい。久しぶりです、父上」


 穏やかな父の声には、一見すると息子を慈しむような響きが含まれていた。けれど、それが貴族としての完璧な演技に過ぎないことを、ルシアンは誰よりも熟知している。


「やあ、ルシアンくん。最後見た時はまだ幼かったのに、見違えるほど立派になったな」

「ベルモンド伯爵。お久しぶりです。ご健勝そうで何よりです」

「紹介しよう。娘のリリアーヌだ。君とは幼い頃に一度会っているはずだが……」

「はい。十年ほど前、伯爵の誕生パーティでお会いしましたね」


 淀みなく微笑んで答えると、令嬢は「覚えてくださっていたのですか? まあ、嬉しい」と、弾むような声を上げた。


 伯爵はともかく、彼女のことは欠片も覚えていないが。ルシアンが幼い頃に人と会ったとなれば、必然的に魔力暴走を起こす前のことだ。


 父がわざわざ時間を割いて令嬢を紹介するということは、この縁談が家の格を保ち、安泰を確固たるものにするための最善の選択であることを意味していた。


 嫡子として育てられ、そのための教育を施されてきたルシアンにとって、己の人生が家のための舗装路であることは、呼吸をするのと同じくらい当然の事実だった。


 不当だとか、窮屈だとか、そんな子供じみた感情を抱く段階はとうの昔に通り過ぎている。求められる役割を完璧に演じきることこそが、自分の存在意義だと信じて疑わなかったのだ。


 ──クローディアに出会うまでは。


(家業の親睦を深めるための茶会、か……)


 着飾った令嬢の姿を見れば、それが建前であることは明白だった。現に父と伯爵は、型通りの挨拶を終えると「仕事の話がある」と白々しい口実を並べ、早々に席を外してしまった。


(さて、どう断ろうか……)


 リリアーヌは、非のうちどころのない令嬢だった。会話は淀みなく、所作は優雅。彼女もまた、自分が侯爵家に嫁ぐための価値を理解し、それを完璧に演じている。


 本来ならば、ルシアンも同じように演じきればよかったのだろう。家のため、義務のため。恋愛結婚など端から期待せず、父が決めた相手と粛々と添い遂げる。それがベルクレア家の嫡子として生きる道なのだと、幼い頃までは信じて疑わなかった。


(それなのに……なぜ、これほどまでに気乗りしないのだろうか)


 脳裏に、クローディアの面影がよぎる。彼女が嫁いだ今、誰を隣に迎えても同じことだと思っていた。家業を支え、次期侯爵としての職務を全うするための適切な相手であれば、誰であっても。


 きっと自分は、まだ学生という身分に甘えているのだ。父の補佐官としての実務も数えるほどしかこなしていない。だから、こうして不必要な迷いに足をとられているのだ。すべては、自分の未熟ゆえ──


(……だから、考える必要などないというのに)


 ルシアンは深く息を吐き出すと、鏡の前でそうするように、慣れ親しんだ完璧な貴族の笑みを顔に貼り付けた。

 目の前にいる淑女の手を取り、淀みない賛辞を口にする。


「……庭を案内しましょう」


 そんな型通りの誘いも、エスコートする掌の繊細な動きも、指先一つにいたるまで。ルシアンは一貫して完璧な紳士だった。そう教育され、その通りに生きてきたのだ。


(親の引いた壁の無い真っ直ぐな道を、何も考えずに歩めば、楽に生きれるだろうに)


 次期侯爵として、敷かれたレールの上を歩んできた。


(……侯爵家の未来を考えるなら、この縁談は最善であり、成功させるべきものなのだろう)


 自分に言い聞かせる言葉は、幼い頃から叩き込まれてきた最適解に他ならない。

 それなのに、リリアーヌと流行りの舞台や社交界の噂話に興じているより、エナと研究室でくだらない話をしている方が、ずっと心が充実しているような気がするのだ。

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