表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
22/55

【22】その指先をほどかないで〈2〉

(落ち着け、僕……)


 ルシアンは懐中時計を取り出し、その金色の蓋を弾くように開ける。

 針はさっき確認したときと、さほど変わっていなかった。止まっているのではないかと疑いたくなるほど、その歩みは遅々としている。


 この動作を何度繰り返しただろうか。ルシアンは重いため息を零し、懐中時計を掌に収めた。


 普段なら授業の終わりを告げる鐘が鳴り止む前に、エナがすっ飛んで来るはずなのに。今日は待てど暮らせど、研究室の重い扉が開く気配はなかった。


 無意識のうちに募る不安を抑えきれず、ルシアンは手元の魔導書から意識を切り離し、幾度となくドアへと視線を送った。


(……なぜ、来ないんだ)


 これまで当たり前のように刻まれていたエナの足音も、明るい挨拶も、今のこの部屋にはどこにもない。昨夜の別れ際、あんなに明るく笑って、また明日と言っていたはずなのに。


 すっかり日の落ちた研究室は、天井に掛けられたランタンの淡い橙色に照らされている。

 ふと視線を向ければ、窓辺に吊るされたピンク色のサンキャッチャーが、所在なげに揺れていた。祭りの際、ルシアンが自ら選んだものだ。その愛らしい色味が、どこか明るいエナを連想させて、無意識に手に取った。それを昨夜、彼女が嬉しそうに笑って贈ってくれてから、丸一日が経とうとしている。


 昼間は太陽を浴びて、無数の光の粒を部屋中に振りまいていたそれは、今はただ、淡いランタンの光を透かして、ひっそりと佇んでいた。


(何か、気に障るようなことを言っただろうか)


 昨日の星降祭を思い返す。果たして自分は、彼女から贈られた物に値するだけの礼を、返すことができたのだろうか。

 彼女を楽しませることはできたのか。それとも、無自覚に彼女を傷つけるような振る舞いをしてしまったのか。


 もしかして、と不吉な予感がルシアンの脳裏をかすめる。


(“友人”と言ったのが嫌だったのだろうか……)


 その考えに至り、ルシアンは思わず頭を抱えた。

 大切に思えば思うほど、どう向き合えばいいのか分からなくなる。自分の中にある対人関係の引き出しが、これほどまでに空っぽだったとは。


 魔力が暴走したあの日、母や乳母、周囲の人間が見せた表情が今もこびりついて離れない。自分を得体の知れないものとして突き放す、あの冷ややかな視線が。化け物を見るような、あの濁った瞳が。


(……嫌なものを思い出した)


 肺の奥に溜まった淀みを吐き出すように、長く重いため息をついた。


 今は仲の良い友人もいて、独りではない。温和な人当たりも演じることができ、生徒から声をかけられることも増えた。

 以前とは違う、開かれた環境に身を置いているはずなのに、幼少期から染み付いた人を避ける癖が、今も深い場所に根を張っている。


 クローディアという光に出会い、そこから繋がった縁で、もはや自分は孤独ではないのだという気がしていた。それでも、自分は結局、あの頃から何一つ変わっていないのではないか。答えの出ない自問自答が、暗い水底に沈むようにルシアンの思考を濁らせていく。その時だった。


 ──ギィ


 沈黙を破り、ようやく音を立てて扉が開いた。ルシアンは弾かれたように顔を上げる。


「……遅くなって、ごめんね。……ルシアン」


 聞き慣れたその声に、張り詰めていた心が音を立てて解けていく。


(…………やっと、来た)


 一気に弾けた安堵も束の間、現れたエナの姿を見て、ルシアンは息を呑んだ。


「えへへ。ちょっと……寝坊、しちゃってさぁ」


 扉にすがるようにして立つエナは、いつものように笑おうとしていたが、その肩は危うげに揺れていた。


「……エナ?」


 思わず椅子を蹴るようにして、立ち上がる。

 こちらへ歩み寄る足取りは、ひどくおぼつかない。いつもの快活な気配は微塵もなく、誰の目にも体調の悪さは明らかだった。


「…………あっ」


 ふらりと、エナの身体が力なく傾く。

 ルシアンは慌てて駆け寄り、よろめいた彼女の肩を両腕で抱きとめた。


「──おい、大丈夫か!」


 ローブ越しに伝わる、恐ろしいほどの熱量。間近で覗き込んだエナの顔は、耳元まで真っ赤に染まっていた。潤んだ瞳と、浅く吐き出される熱い呼気が、彼女の異常を無言で訴えかけてくる。


(……昨夜の寒さが原因か!)


 迂闊だった。もっと、気にかけなければならなかったのに。

 エナをそっと抱え上げ、奥にあるカウチまで運んでゆっくりと横たわらせる。エナは眉根を寄せ、荒い呼吸を繰り返しながら、ルシアンに身を委ねきっていた。


「……少し、触れるぞ」


 短く断り、その白い額にそっと掌を当てた。指先に伝わるのは、火傷しそうなほどの熱だ。

 汗で張り付いた銀色の髪が、露わになった肌の白さを際立たせる。年頃の男子としてその無防備な姿を正視できず、ルシアンは懸命に視線を逸らしながら声を絞り出した。


「エナ。君、ひどい熱があるぞ」


「…………そっか。そうなんだ。熱、出てたんだ。どうりで、朝からなんかふわふわすると思ってた……」


 エナはどこか遠くを見るような目で、力なく笑った。その弱々しさに、胸の奥がぎゅっと引き絞られるように痛む。


「なぜ、こんなになるまで放っておいたんだ」


 思わず、詰問するような厳しい声が出た。


「もし、途中で倒れていたらどうするつもりだった? ……君は、自分の身体を何だと思っているんだ」


 怒鳴りつけたいわけではなかった。けれど、溢れ出す焦燥を言葉に変えなければ、自分まで彼女の放つ熱に呑み込まれ、掻き乱されてしまいそうだった。


「ごめん。これの、お礼と……祭りに一緒に行ってくれたお礼を……ちゃんと言おうと思って」


 掠れた声が、鼓膜を震わせる。

 エナはローブのポケットから、昨日ルシアンが贈ったばかりの、ダリアのガラス細工を取り出した。


 自分は彼女が来ない理由をあれこれと並べ立て、勝手に悶々と悩んでいたというのに。対する彼女は熱に浮かされながら、ただ感謝を伝えるためだけに、おぼつかない足取りでここまでやってきたのだ。

 自身の独りよがりな不安に対する罪悪感と、名付けようもない熱い感情が泥のように混ざり合い、ルシアンは鼻の上に皺を寄せて顔を歪めた。


「……ここで待っていろ」


 努めて冷静な声を出し、校医を呼ぶために立ち上がろうとした、その時。

 熱で潤んだ瞳が、縋るようにルシアンを見上げた。


「どこ行くの」


 エナの指先が、ルシアンのローブの裾をぎゅっと掴んで離さない。その微かな震えが、ダイレクトにルシアンの腕へと伝わった。


「校医を呼びにいくだけだ」


「やだ」


 熱に浮かされた瞳が、潤みを帯びてルシアンを射抜く。


「……エナ」


「やだ、行かないで」


 すん、と鼻を鳴らして、駄々をこねるように首を振るエナを前に、ルシアンは天を仰いだ。

 このまま振り切ることは容易い。けれど、涙を溜めたその瞳に見つめられては、一歩も動くことができなかった。


「……すぐに、戻るから」


 しがみつく彼女を優しく宥めながら、自身のローブを脱いだ。それを、スカートから覗く彼女の足元まで、丁寧に包み込むように掛けてやる。

 せめてもの配慮のつもりだった。だが、エナはその隙にルシアンの腕そのものを捕らえて離さなかった。


「やだ……独りにしないで」


 語尾が震え、涙の熱を帯びた声が空気に溶ける。舌っ足らずに懇願するエナの姿に、ルシアンは言葉を失った。


(これは、友人として正しい距離なのか……?)


 わからない。答えは出ない。けれど──今、この熱を帯びた指先を振り払うことなど、ルシアンには到底できなかった。


「……わかった。行かないよ」


 ルシアンは熱を持つエナの手を、冷たい自分の手でそっと包み込んだ。安堵したエナが、細い吐息を零してルシアンの手の甲に頬を寄せる。

 紅潮した顔が、掌を通じて熱を伝えてきた。あまりの距離の近さに、ルシアンは思わず息を止めた。


 チッ、チッと時計の秒針が時を刻む音だけが、やけに大きく響く。


(……参ったな)


 途方に暮れたような心地で、ただじっと手元のエナを見つめる。

 彼女が病人だから放っておけないだけだ。そう自分に言い聞かせても、ひどく心が乱れそうだった。


「……ルシアン」


 エナが潤んだ瞳でこちらを見上げると、涙をぽろぽろと零しながら、震える指先でルシアンのローブを掴んだ。


「……私が、必ず幸せに……する、から」


 浅い呼吸の合間に呟かれたその声は、今にも消えてしまいそうに儚い。それでも、心臓を直接掴まれたような衝撃に、ルシアンは息を呑んだ。


「私が……ぜったいに──」


 必死に言葉を繋ごうとする彼女。どくん、どくんと耳の奥で早鐘が鳴る。その音を押し殺すように、ルシアンは目を伏せ、ゆっくりと意識的に熱い吐息を吐き出した。


(どうして……君が、そんな顔をして泣くんだ)


 自分のような人間に、どうしてそこまでのことを言えるのか。


「うっ、うう、ルシアン……」


 混濁した意識の中で、涙を流しながら自分の名前を呼び続けるエナを、これ以上見ていられなかった。

 我慢ならず、ルシアンはそっと手を伸ばした。汗で額に張り付いた細い髪を、壊れ物に触れるような手つきで、指先で静かに払う。


 一つでも不安を拭ってやりたい。一秒でも早く、この苦しみから解放してやりたい。


「うう……ルシアン。私を、独りに、しないで」


「──ああ」


 ルシアンはエナの手を握ると、その熱をすべて受け止めるように力を込めた。



「……僕はここにいる。どこへも行かないから」



 口から漏れたその声は、自分でも反吐が出るほど、甘ったるく響いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ