【22】その指先をほどかないで〈2〉
(落ち着け、僕……)
ルシアンは懐中時計を取り出し、その金色の蓋を弾くように開ける。
針はさっき確認したときと、さほど変わっていなかった。止まっているのではないかと疑いたくなるほど、その歩みは遅々としている。
この動作を何度繰り返しただろうか。ルシアンは重いため息を零し、懐中時計を掌に収めた。
普段なら授業の終わりを告げる鐘が鳴り止む前に、エナがすっ飛んで来るはずなのに。今日は待てど暮らせど、研究室の重い扉が開く気配はなかった。
無意識のうちに募る不安を抑えきれず、ルシアンは手元の魔導書から意識を切り離し、幾度となくドアへと視線を送った。
(……なぜ、来ないんだ)
これまで当たり前のように刻まれていたエナの足音も、明るい挨拶も、今のこの部屋にはどこにもない。昨夜の別れ際、あんなに明るく笑って、また明日と言っていたはずなのに。
すっかり日の落ちた研究室は、天井に掛けられたランタンの淡い橙色に照らされている。
ふと視線を向ければ、窓辺に吊るされたピンク色のサンキャッチャーが、所在なげに揺れていた。祭りの際、ルシアンが自ら選んだものだ。その愛らしい色味が、どこか明るいエナを連想させて、無意識に手に取った。それを昨夜、彼女が嬉しそうに笑って贈ってくれてから、丸一日が経とうとしている。
昼間は太陽を浴びて、無数の光の粒を部屋中に振りまいていたそれは、今はただ、淡いランタンの光を透かして、ひっそりと佇んでいた。
(何か、気に障るようなことを言っただろうか)
昨日の星降祭を思い返す。果たして自分は、彼女から贈られた物に値するだけの礼を、返すことができたのだろうか。
彼女を楽しませることはできたのか。それとも、無自覚に彼女を傷つけるような振る舞いをしてしまったのか。
もしかして、と不吉な予感がルシアンの脳裏をかすめる。
(“友人”と言ったのが嫌だったのだろうか……)
その考えに至り、ルシアンは思わず頭を抱えた。
大切に思えば思うほど、どう向き合えばいいのか分からなくなる。自分の中にある対人関係の引き出しが、これほどまでに空っぽだったとは。
魔力が暴走したあの日、母や乳母、周囲の人間が見せた表情が今もこびりついて離れない。自分を得体の知れないものとして突き放す、あの冷ややかな視線が。化け物を見るような、あの濁った瞳が。
(……嫌なものを思い出した)
肺の奥に溜まった淀みを吐き出すように、長く重いため息をついた。
今は仲の良い友人もいて、独りではない。温和な人当たりも演じることができ、生徒から声をかけられることも増えた。
以前とは違う、開かれた環境に身を置いているはずなのに、幼少期から染み付いた人を避ける癖が、今も深い場所に根を張っている。
クローディアという光に出会い、そこから繋がった縁で、もはや自分は孤独ではないのだという気がしていた。それでも、自分は結局、あの頃から何一つ変わっていないのではないか。答えの出ない自問自答が、暗い水底に沈むようにルシアンの思考を濁らせていく。その時だった。
──ギィ
沈黙を破り、ようやく音を立てて扉が開いた。ルシアンは弾かれたように顔を上げる。
「……遅くなって、ごめんね。……ルシアン」
聞き慣れたその声に、張り詰めていた心が音を立てて解けていく。
(…………やっと、来た)
一気に弾けた安堵も束の間、現れたエナの姿を見て、ルシアンは息を呑んだ。
「えへへ。ちょっと……寝坊、しちゃってさぁ」
扉にすがるようにして立つエナは、いつものように笑おうとしていたが、その肩は危うげに揺れていた。
「……エナ?」
思わず椅子を蹴るようにして、立ち上がる。
こちらへ歩み寄る足取りは、ひどくおぼつかない。いつもの快活な気配は微塵もなく、誰の目にも体調の悪さは明らかだった。
「…………あっ」
ふらりと、エナの身体が力なく傾く。
ルシアンは慌てて駆け寄り、よろめいた彼女の肩を両腕で抱きとめた。
「──おい、大丈夫か!」
ローブ越しに伝わる、恐ろしいほどの熱量。間近で覗き込んだエナの顔は、耳元まで真っ赤に染まっていた。潤んだ瞳と、浅く吐き出される熱い呼気が、彼女の異常を無言で訴えかけてくる。
(……昨夜の寒さが原因か!)
迂闊だった。もっと、気にかけなければならなかったのに。
エナをそっと抱え上げ、奥にあるカウチまで運んでゆっくりと横たわらせる。エナは眉根を寄せ、荒い呼吸を繰り返しながら、ルシアンに身を委ねきっていた。
「……少し、触れるぞ」
短く断り、その白い額にそっと掌を当てた。指先に伝わるのは、火傷しそうなほどの熱だ。
汗で張り付いた銀色の髪が、露わになった肌の白さを際立たせる。年頃の男子としてその無防備な姿を正視できず、ルシアンは懸命に視線を逸らしながら声を絞り出した。
「エナ。君、ひどい熱があるぞ」
「…………そっか。そうなんだ。熱、出てたんだ。どうりで、朝からなんかふわふわすると思ってた……」
エナはどこか遠くを見るような目で、力なく笑った。その弱々しさに、胸の奥がぎゅっと引き絞られるように痛む。
「なぜ、こんなになるまで放っておいたんだ」
思わず、詰問するような厳しい声が出た。
「もし、途中で倒れていたらどうするつもりだった? ……君は、自分の身体を何だと思っているんだ」
怒鳴りつけたいわけではなかった。けれど、溢れ出す焦燥を言葉に変えなければ、自分まで彼女の放つ熱に呑み込まれ、掻き乱されてしまいそうだった。
「ごめん。これの、お礼と……祭りに一緒に行ってくれたお礼を……ちゃんと言おうと思って」
掠れた声が、鼓膜を震わせる。
エナはローブのポケットから、昨日ルシアンが贈ったばかりの、ダリアのガラス細工を取り出した。
自分は彼女が来ない理由をあれこれと並べ立て、勝手に悶々と悩んでいたというのに。対する彼女は熱に浮かされながら、ただ感謝を伝えるためだけに、おぼつかない足取りでここまでやってきたのだ。
自身の独りよがりな不安に対する罪悪感と、名付けようもない熱い感情が泥のように混ざり合い、ルシアンは鼻の上に皺を寄せて顔を歪めた。
「……ここで待っていろ」
努めて冷静な声を出し、校医を呼ぶために立ち上がろうとした、その時。
熱で潤んだ瞳が、縋るようにルシアンを見上げた。
「どこ行くの」
エナの指先が、ルシアンのローブの裾をぎゅっと掴んで離さない。その微かな震えが、ダイレクトにルシアンの腕へと伝わった。
「校医を呼びにいくだけだ」
「やだ」
熱に浮かされた瞳が、潤みを帯びてルシアンを射抜く。
「……エナ」
「やだ、行かないで」
すん、と鼻を鳴らして、駄々をこねるように首を振るエナを前に、ルシアンは天を仰いだ。
このまま振り切ることは容易い。けれど、涙を溜めたその瞳に見つめられては、一歩も動くことができなかった。
「……すぐに、戻るから」
しがみつく彼女を優しく宥めながら、自身のローブを脱いだ。それを、スカートから覗く彼女の足元まで、丁寧に包み込むように掛けてやる。
せめてもの配慮のつもりだった。だが、エナはその隙にルシアンの腕そのものを捕らえて離さなかった。
「やだ……独りにしないで」
語尾が震え、涙の熱を帯びた声が空気に溶ける。舌っ足らずに懇願するエナの姿に、ルシアンは言葉を失った。
(これは、友人として正しい距離なのか……?)
わからない。答えは出ない。けれど──今、この熱を帯びた指先を振り払うことなど、ルシアンには到底できなかった。
「……わかった。行かないよ」
ルシアンは熱を持つエナの手を、冷たい自分の手でそっと包み込んだ。安堵したエナが、細い吐息を零してルシアンの手の甲に頬を寄せる。
紅潮した顔が、掌を通じて熱を伝えてきた。あまりの距離の近さに、ルシアンは思わず息を止めた。
チッ、チッと時計の秒針が時を刻む音だけが、やけに大きく響く。
(……参ったな)
途方に暮れたような心地で、ただじっと手元のエナを見つめる。
彼女が病人だから放っておけないだけだ。そう自分に言い聞かせても、ひどく心が乱れそうだった。
「……ルシアン」
エナが潤んだ瞳でこちらを見上げると、涙をぽろぽろと零しながら、震える指先でルシアンのローブを掴んだ。
「……私が、必ず幸せに……する、から」
浅い呼吸の合間に呟かれたその声は、今にも消えてしまいそうに儚い。それでも、心臓を直接掴まれたような衝撃に、ルシアンは息を呑んだ。
「私が……ぜったいに──」
必死に言葉を繋ごうとする彼女。どくん、どくんと耳の奥で早鐘が鳴る。その音を押し殺すように、ルシアンは目を伏せ、ゆっくりと意識的に熱い吐息を吐き出した。
(どうして……君が、そんな顔をして泣くんだ)
自分のような人間に、どうしてそこまでのことを言えるのか。
「うっ、うう、ルシアン……」
混濁した意識の中で、涙を流しながら自分の名前を呼び続けるエナを、これ以上見ていられなかった。
我慢ならず、ルシアンはそっと手を伸ばした。汗で額に張り付いた細い髪を、壊れ物に触れるような手つきで、指先で静かに払う。
一つでも不安を拭ってやりたい。一秒でも早く、この苦しみから解放してやりたい。
「うう……ルシアン。私を、独りに、しないで」
「──ああ」
ルシアンはエナの手を握ると、その熱をすべて受け止めるように力を込めた。
「……僕はここにいる。どこへも行かないから」
口から漏れたその声は、自分でも反吐が出るほど、甘ったるく響いた。




