【21】その指先をほどかないで〈1〉
はっと目が覚める。
深い泥の底から、無理やり引きずり上げられたような感覚だった。ひどく浅い眠りから叩き起こされたように、呼吸が荒い。
ぼやけた視界の中で、見慣れた天蓋がゆっくりと形を成していく。それと同時に、昨夜の記憶が、濁流となって胸の奥に流れ込んできた。
(全然寝れなかった)
ズキズキと脈打つこめかみを片手で押さえ、のろのろと上体を起こす。
視界に入る部屋の景色は、まだ濃い藍色に沈んでいた。窓の外の気配から察するに、夜が明けるまでにはまだ少し時間がありそうだった。
ふと視線を落とすと、昨日無様に脱ぎ捨てたコートが、冷たい床の上で惨めに丸まっているのが見えた。
大切にしていたあの一着。昨夜はあんなに無造作に放り出したのに、今はそのしわだらけの姿が自分自身を映しているようで、見ていられなかった。
軋む膝を叱咤して床に指をかける。拾い上げたウールの塊は、どこか温もりを失ってひんやりとしていた。それを震える手でハンガーに掛け、形を整える。そのわずかな動作だけで、肩が激しく上下した。
(体が、まだ鉛のように重たい)
芯の方に嫌な熱がこもっているような、節々がミシミシと軋むような倦怠感がある。けれど、それ以上に胸の奥が苦しかった。
──元の世界の夢を見た。
(夏休みが終わって、どれくらいになるんだろう)
こっちに来てから四ヶ月は経っていた。おそらく、大学も後期の授業が始まってから二ヶ月は経っているだろう。
(留年は、したくなかったんだけどな)
場違いな後悔を吐き出し、エナはふらつく足取りでベッドから降りた。窓際へ向かって、重厚なカーテンを左右に引き開ける。
外は、深く沈んでいた藍色が、薄紫の絵の具をひとしずく落としたように溶け出していた。境界線のない空の色が、音もなくゆっくりと塗り替えられていく。
その淡い光が、サイドテーブルに置かれたガラス細工に反射して、キラリと輝いた。
昨日、ルシアンからもらったばかりの、美しいダリアが閉じこめられた置物だ。
今日はこれを持って、ルシアンに会いに行かなければならない。透明な球体の中で咲き続けるその花を、エナはそっと指先でなぞった。
(嬉しかったな)
昨日の星降祭に一緒に行ってくれたことにお礼を言って、楽しかったと伝えて。いつものように、なんでもない顔をしてルシアンの対面に座る。
(そうするべきだと分かっているのに……)
今はただ、ルシアンの顔を思い出すだけで、喉の奥がきゅっと締まって、うまく息ができない。
せっかく昨日、あんなに優しく名前を呼ばれて、友人だと言ってもらえたのに。
友人であるはずのエナが、その翌日に姿を見せないなんて不自然すぎる。いつも通りの日常から少しでも逸れてしまえば、そこには別の意味が生まれてしまう。
(いつも飛んで行くのに、今日行かなかったら変に思われるに決まってる。そしたら……私の気持ちが、バレてしまうかもしれない)
無意識のうちに喉をせり上がってくる恐怖を飲み込むように、エナは強く唇を噛み締めた。その微かな痛みが、かろうじて自分を繋ぎ止めてくれる。
のろのろと、手鏡を覗き込んだ。
昨夜、かろうじてメイクだけは落としていたが、泣き腫らして浮腫んだ顔は、お世辞にもいつも通りとは言えない。
「あー……会いたくない」
思わず本音が漏れる。
(こんな顔で、ルシアンに会いに行けるわけない)
けれど、会わないという選択肢はエナにはなかった。
重い体を引きずるようにして、洗面台へ向かう。この顔をどうにかしないと、とても外に出られそうにない。
(講義、サボっちゃおうかな……)
冷たい水を何度も掬い、顔に叩きつける。肌を刺すような冷たさが、ぼんやりとした頭を強制的に現実に引き戻した。
(気取られちゃ、だめ。……絶対に)
ルシアンは、友人だと言ってくれた。これ以上、彼に望むことなんてない。
溢れ出しそうな想いに無理やり蓋をして、心の一番奥底に仕舞い込む。
ほんの少しでもこの恋心が顔を出してしまったら、きっと今の関係さえ壊れてしまうだろう。それだけは、何としても避けたかった。
(大丈夫。ちゃんと、友だちでいるから)
自分に言い聞かせるたびに、胸の奥がひりひりと焼ける。
昨日よりもずっと熱を帯びた頬を両手で挟み、エナは自分を鼓舞するように、歪な笑みを作ってみせた。




