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【20】星降る夜に、願うものは〈3〉

 階段を、音を立てないように上る。


 一歩。また、一歩。


 そのたびに、心臓が嫌な跳ね方をした。


(やばい)


 思考が滑る。


(──息が、うまく、できない)


 肺が、酸素を拒絶しているみたいだ。

 視界の端から、世界がぐにゃりと不自然に歪み始める。足元が、おぼつかない。


(今、誰にも会いたくない。誰にも、見られたくない)


 楽しいはずのデート帰りに、泣きそうになっている姿なんて、あまりにも無様すぎる。


 ようやく自室に辿り着くと、エナは鍵をかけることさえ忘れてベッドへと倒れ込んだ。


(体が、泥のように重い……)


 指先ひとつ動かすのさえ億劫になるほどの倦怠感の中、のろのろと、這いずるような動作でコートを脱ぐ。友達とはしゃぎながら買いに行った、あのお気に入りの大切な一着だ。しわ一つつけたくなくて、いつもなら丁寧にブラシをかけ、ハンガーに吊るすはずだった。

 けれど、今のエナには、その数秒の動作さえエベレストに登るような絶望的な労力に感じられた。


 耐えきれず、腕から滑り落ちたウールの塊が、音もなく床に崩れ落ちる。大切にしていたはずのものが無様に形を崩しても、それを拾い上げる気力すら、もう残っていなかった。


 その拍子だった。

 微かにホワイトムスクの香りが、ふわりと鼻腔をくすぐった。……今日、ずっと隣にいたルシアンが纏っていた、あの香水の匂いだ。


(ああ……だめだ)


 瞼を閉じれば、暗闇の中にあの光の蝶が舞う。

 ルシアンが名前を呼んでくれた、あの至福の瞬間。けれどその直前、彼は見たこともないほど甘い顔をして、ヒロインの、あの子の話をしたのだ。


『去年ここへ一緒に来た人は……僕の大切な人なんだ』


 クローディアのことを語った時のルシアンの横顔が、鮮やかに蘇る。心底愛おしそうに、遠い場所を見つめる、あの眼差しが頭から離れない。


 胸の奥が、ずしりと沈む。そこから言いきれない恋情を感じるのに、時間はかからなかった。


(あっ……コート、掛けないと)


 起き上がろうとして、やめた。どうせ何もできない。

 仰向けに寝転んだまま、ただぼんやりと天井を見つめる。枕の上に無造作に広がった銀色の髪が、重力に従ってシーツに沈んでいく。そのわずかな重みさえ、今の自分には耐え難かった。


 逃げるように寝返りを打ち、壁際へと丸まる。

 研究室でずっと二人きりでいた。短くは無い時間を、一番近くで過ごしてきた。


 学園の生徒が知らない彼の素顔も、甘いものに目が無いという子どもっぽさも、不器用な優しさも──自分だけが知っているのだと、自惚れていた。


(わかっていたはずなのに。……なんで自分だけが特別だって、思っちゃったんだろ)


 ずっと、推しとして、好きなんだと思っていた。だけど、違う。本当は、期待していたのだ。



(……私だけを、見てくれたらいいのにって)



 視界が、一気に涙で溢れる。喉の奥が、焼けるように熱い。無意識のうちに、自分が一番ルシアンに近い場所にいるのだと思い上がっていた。


「……ああ」


 喉から、変な声が漏れる。


(私、本気でルシアンのこと……好きになってたんだなぁ)


 推しとしてじゃなくて、相対している彼に。

 今、この世界で、エナと名前を呼んでくれた、あの孤独でめんどくさくて、けれど誰よりも優しいルシアンという男に。



 ──本気で恋をしてしまった。



 ぽろりと、涙が零れ落ちる。


「馬鹿だなぁ、ほんと……」


 声が震えた。震える唇を、血の味がするほど強く噛みしめる。リップはとうに取れていた。


 彼から贈られたガラス細工を、壊れそうなほど強く握りしめる。

 祈るように胸へと押し当てれば、冷たい硝子のエッジが、熱を持った肌に鋭く食い込んだ。


 ──好きな人には、どうしても手が届かない場所に、愛し抜いた人がいる。


 エナがどれほど彼を想って、どれほど言葉を尽くしても。クローディアとの美しい思い出に、一生かかっても勝てないのだ。


 自分では決して、その記憶を上書きすることさえ許されないと、思い知らされる恋なんて。


(…………惨めだ)


 胸の中を渦巻く、やり場のない熱を逃がしたくて。思い通りにならない感情を、胸の上からぎゅっと、引きちぎるように押しつけた。


 押さえても、押さえても。それでも、心臓の軋むような音は止まってくれない。


(胸が、張り裂けそう)


 こんなに胸をかき乱されるだけの感情なんて、知りたくなかった。


 溢れ出した涙が、耳の裏まで流れていく。声を押し殺して泣いて、鼻水でぐちゃぐちゃになって、出口のない泥濘の中で、もがくように身をよじる。


 熱を帯びたまま、形を成したばかりの恋心が、ゆっくりと死んでいく。


 シーツが冷たく涙を吸い込んでいくのと引き換えに、窒息しそうだった胸の苦しさが、ほんの少しだけ──溶け出していった。

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