【18】星降る夜に、願うものは〈1〉
「わぁ、ここ、全っ然人いない!」
石畳の上を、エナが弾むような足取りで進んでいく。祭りの喧騒が遠ざかるにつれ、代わって聞こえてきたのは、寄せては返す穏やかな潮騒の音だけだった。
「よくこんな穴場、知ってたね?」
はらりとフードが脱げ、エナの銀色の髪が靡く。
「……去年、友人から教えてもらったんだ」
何気ない風を装って、ルシアンは呟いた。もし深く追及されたらどうしようという懸念は杞憂に終わり、エナは疑う様子もなく、あっさりと納得して笑った。
ルシアンは深く息を吐き、凝り固まった肩の力をそっと抜いた。
街中のランプが次々と消えていく中、行き場を失った人々で大通りはごった返していた。人波に押され、夜空を仰ぐ余裕さえないエナの様子を見かねて、ルシアンが咄嗟に連れ出したのは、石橋からほど近い海浜公園だった。
二人は並んでベンチに腰を下ろすと、頭上に広がる、銀の砂を散らしたような星空を仰いだ。そこには、思わず呼吸を忘れるほどの絶景が広がっている。
正直に言えば、今日ここに来るつもりはなかった。けれど、はぐれないようにとその腕を引いているうちに、足は無意識にこの思い出の場所を選んでいた。
(ここも変わらないな……)
周囲からの過度な期待と、誰も傷つけたくないという不安。家を継ぐことの父からの重圧。それらに押し潰されそうになり、息苦しさに足掻いていた頃。クローディアが「お気に入りの場所があるの」と、強引に学園から彼を連れ出してくれたのが、この公園だった。
あの時も、今日と同じように波の音が響いていた。当時の閉塞感を救ってくれた彼女の真っ直ぐな優しさを思い出し、ルシアンの唇からは自然と柔らかな笑みが零れた。
「……わあ」
隣で、エナの吐息のような感嘆が漏れた。それにつられるように、ルシアンも再び空へと視線を戻す。
夜を切り裂くように、幾筋もの銀光が尾を引いて流れていく。ひとつ、またひとつと始まったそれは、やがて降り注ぐような無数の光の矢へと変わった。
圧巻の光景がひとしきり幕を閉じると、あとは余韻を楽しむかのように、点在する星々がぽつり、ぽつりと静かに流れ落ちていった。
ひんやりとした夜風が吹き抜ける。そろそろ夜も深まってきた。寮に戻った方がいいのだろう。それでも、この穏やかな時間に終止符を打つのが、どうしようもなく惜しい気がして。ルシアンは隣に座ったまま、席を立つきっかけを見失っていた。
ふと、隣でエナが思い出したように顔を綻ばせる。
「そういえばさぁ。前に飾ったラベンダーのドライフラワー、まだいい匂いするよね」
「ああ。研究室に入るといつも香る」
「だよね。なんでだろう? 何ヶ月も匂いって持つのかな」
「……あれは、保存の魔法をかけておいたんだ」
「えっ! その魔法をかけておくと、匂いが持続するってこと!?」
「いや、正確には少し違う。魔法をかけた時点の状態を、そのまま固定しているんだ」
「へえ……そうなんだ。ってことは、ルシアンもあのラベンダー気に入ってくれてたんだね」
嬉しいなぁ、とエナが笑みを零す。
そんな他愛もない会話が、夜の静寂を優しく埋めていった。けれど、言葉を交わすたびに少しずつ熱は引いていき、いつしか心地よい沈黙が訪れた。打ち寄せる波の音が引いては返す、その単調な繰り返しだけが、二人の間に満ちていく。
かつての思い出が詰まったこの場所で、今、別の誰かと隣り合っている。その事実に、ルシアンは不思議と嫌な気はしなかった。
「私……」
エナが、ぽつりと口を開いた。
「今日、すごく楽しかったよ」
隣を向くと、エナは今にも溶け出してしまいそうなほど、柔らかく無防備な笑顔を浮かべていた。そのあまりに混じり気のない表情に、ルシアンは一瞬、返す言葉を失う。
エナは再び、吸い込まれるような瞳で夜空へ視線を戻すと、何かを懐かしむように小さく息を吐いた。
「──あのね。実はエナちゃんは、別の世界から来たんですけれども」
ふふっ、と自分を笑うように。けれどどこか遠くを見つめたまま、彼女は続けた。
「流れ星が消えるまでに、心の中で三回願い事を唱えると、その願い事が叶う。っていう言い伝えがあるんだ」
冗談めかしておどけて見せる彼女の意図を汲み、ルシアンはその空気に乗っかった。
「流星が消えるまでの一瞬で、三回も言い切るなんて。……叶える気がまるでないな」
「あはは、確かに!」
笑い声を上げたエナだったが、やがて目を細めて空を仰いだ。
「叶わないから、願い事なんだろうね」
ふいにもれた声があまりに寂しげで、ルシアン胸の端を掠めた。だが、彼女はすぐにその影を振り払うように、夜空へ向かって声を弾ませる。
「でも、これだけたくさん流れているんだもん。きっと、何だって叶うよ」
それは、自分に言い聞かせているような、祈るような響きを含んでいた。
何かあったのかと、喉元まで問いが突き上げる。自分にできることはないのか、と。けれど、今の距離感でそこまで踏み込むのは、きっと傲慢な気がした。
ルシアンは自分を律するように言葉を飲み込むと、ふっと息を吐くように笑った。
「ああ……そうだな」
ルシアンは隣で空を見上げるエナの横顔を、静かに見つめた。星明かりに照らされた赤い瞳は、今はただ、遠く、手の届かない場所を求めているように見えた。
(願い事、か……)
かつての自分なら、何を願うかなど考えるまでもなかった。けれど今の自分は、神頼みで何かが手に入るほど世界は甘くないと知っている。自らの力で手に入れ、守るべき責任がある次期侯爵として、叶いもしない奇跡を望むのはもうやめたのだ。
ふと隣を見れば、エナは深く目を閉じ、組んだ手を胸に押し当てていた。その姿は祈るというより、縋るような危うい雰囲気をはらんでいた。今にも決壊しそうな感情を、必死にその指先で押し留めているように見える。
(また、そんな顔をしている……)
何度か、エナのこういった表情を見たことがあった。祭りの喧騒で見せていた明るい振る舞いとは、あまりに違う。今にも折れてしまいそうな、痛々しいほどに脆い横顔だった。
震える唇が微かに動き、声にならない言葉を紡いでいる。
(叶わないと言っていたのに、何をそんなに必死に祈るのだろうか)
踏み込むべきではないと、わかっていても。叶わないと言いながら、なぜそれほどまでに必死に祈るのか。その吐息のような震えが何を求めているのか、ルシアンにはわからなかった。
躊躇いながら、口を開く。
「君は、何を願ったんだ?」
「……え?」
ルシアンの問いに、エナはぴしりと固まった。
「うーん、そうだなぁ……」
明らかに逡巡し、泳いだ視線を彷徨わせた後、あははと取り繕うように笑う。
「ルシアン様の光魔法が見れますように! ってお願いした……かな」
明らかにその場でひねり出した嘘だった。あんなに震える唇で願っていたものが、そんな他愛もないものであるはずがない。
けれど、別にいいかと思った。彼女が隠そうとするのなら、今は暴くべきではない。ただ、この場に漂う言いようのない寂しさを、ほんの少しでも拭ってやりたい。
柄にもなく──今はただ、目の前の彼女に優しくありたい気分だった。




