【16】一夜の道標〈4〉
焼きたてのミートパイを手に、賑わう人波を縫うように歩く。メインストリートの中ほどにある広場へ出た瞬間、視界は一面、温かな黄金色に染まった。そこには屋台通りよりも多くのランプが掲げられ、まるで地上に夕焼けを留めておいたかのような光景が広がっている。
(……前に来た時も、こんな感じだったな)
レオンハルトとクローディア、並んで歩く二人の背中を少し後ろから眺めていた夜。あの時の橙色の光は、ルシアンにとって孤独を際立たせるだけの、ひどく寒々しい色だった。
だが、その感傷を払い落とすように、鮮やかな声が響く。
「ルシー!」
少し目を離した一瞬で、空いたベンチを確保してぶんぶんと手招きをするエナ。その屈託のない姿を見た瞬間、胸の奥がどくんと大きく跳ねた。
ルシー。
世界でただ一人、クローディアだけ呼んでいたルシアンの愛称。それをあの石橋で、エナは驚くほど無邪気な笑みを浮かべて呼んでみせた。彼女はきっと、何も知らなかったのだろう。四ヶ月前の自分なら、汚されたような不快感を覚えてもおかしくないはずだった。
(それなのに……)
不思議と、呼ばれるのが心地よいと思っている自分に愕然とする。内側からじわりと温かな熱を持って溶け出していくような、得体の知れない感覚。自分でも気づかないうちに、彼女という存在にどうしようもなく心を許してしまっているのだと突きつけられる。
「……ほら、“戦利品”だ」
彼女が使っていた言葉をそっと口の中で転がしてから、ルシアンは隣に腰を下ろした。
「わぁ、持っててくれてありがとう! 寒いよね? はい、これ」
エナが袖を伸ばした手で、ほかほかのミートパイを持ち上げてルシアンの膝元に置いた。
「あっ、これも。熱いから、気をつけてね」
手渡されたホットワインのカップからは、シナモンと果実の甘い香りが、白く柔らかい湯気と共に立ち昇る。
「……ありがとう」
冷え切った指先をカップの熱で温めながら、ルシアンは隣を盗み見た。
エナはちょうど、ミートパイを頬張っているところだった。熱いパイにハフハフと息を吹きかけ、美味しそうに目を細めている。
サクサクの生地から溢れ出す肉汁が夜気に混じり、食欲をそそる匂いが漂った。
(かわいいな)
視線が、止まった。
不意に浮かんだ直球すぎる感想は、ストンと胸の奥に落ちてきた。エナの無防備な仕草を目にしていると、そんな言葉しか浮かばなくなってしまう。
「口角についているぞ」
無意識に手が伸びていた。指先で、エナの口元に付いた白い砂糖の欠片をそっと拭う。その拍子に、ふに、と柔らかい感触が指を掠めた。
ルシアンは指先を浮かせたまま、凍りついたように動きを止める。
「……っ」
指先に残る吸い付くような弾力が、頭の中で何度も、しつこいほどにリフレインする。
「ん……ルシー?」
エナが不思議そうに首を傾げ、至近距離から覗き込んでくる。そのルビーのような瞳と視線がぶつかった瞬間、ルシアンは弾かれたように顔を背けた。
(女性の唇に触れてしまった。しかも……素手で)
せめて、手袋はしておくべきだっただろうに。
自分の顔に、急速に血が集まっていくのがわかる。鏡を見なくても、今、自分の顔がどんな色をしているか容易に想像がついた。
「──すまない」
絞り出した言葉の続きは、どうしても出てこなかった。
ルシアンがおそるおそるエナの様子を窺えば、彼女の口元から零れた吐息が白く揺れ、ヴェールのように視界を遮っては夜気に溶けていくところだった。その白霧が晴れるのを待つ間、ルシアンはごくりと、喉を鳴らして息を呑む。
だが、ようやく露わになった彼女の顔は、わけがわからないと言わんばかりにきょとんとしていた。頭の上に疑問符を浮かべているような顔で、ぱちぱちと瞬きを繰り返している。
「何のことか、さっぱりわからないけど……取ってくれてありがとうね?」
ルシアンは、何も言えなかった。謝罪すら通じていなかった。それどころか、彼女には触れられたこと自体の意味すら伝わっていない。
(気づかれていないなら、それでいい)
それでいいはずだった。なのに、喉の奥に妙な苦さが残る。
「……ミートパイ、すごく美味しいんだよ。ね、ルシーも食べてみて!」
エナが弾んだ声で促し、食べかけのパイを自分の口に運んだ。
「……ああ」
咄嗟に返した声は自分でも驚くほど低く、ひどく落ち着かなかった。
冬も間近に控えた秋の夜は、空気がひんやりと澄み渡っている。祭りの喧騒を少し離れたこのベンチの周りだけ、時間が止まってしまったかのように静かだ。
エナが、またぼんやりと空を見上げていた。
手元のミートパイを口に運ぶ。なぜか、味がわからなかった。
ルシアンは膝の上で、先ほどエナの唇に触れた方の指先を、痛いくらいに強く握り込んだ。
どうしようもなく、妙な気持ちだった。




