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【15】一夜の道標〈3〉

 メインストリートへ一歩足を踏み入れた瞬間、焦がしたバターの芳醇な甘さと、鼻腔をくすぐるシナモンの香りが、温かな熱気となって押し寄せてきた。匂いだけでも、すごく美味しそうだ。


「ねえねえ、見てあれ! あのお肉が焼ける匂い、反則じゃない?」


 エナは屋台の列に目を輝かせながら、ルシアンの袖をぐいぐいと引いた。ランプのオレンジ色の光に照らされた石畳を、香ばしい匂いの尾を追いかけるように進んでいく。


 最初に足を止めたのは、無数に並ぶスパイスの小瓶が目を引く串焼きの屋台だった。ルシアンが、不意にその香ばしい匂いに視線を留めたのを、エナは見逃さなかった。


 滴る肉汁が真っ赤な炭火に落ち、じゅわっと弾けるたびに、香ばしい煙が舞い上がる。その音と匂いに、夕食を抜いてきた腹の虫がぎゅるると切実な声を上げた。


「まいど!」


 手渡された熱々の串を一口齧れば、口いっぱいに広がる肉の旨味を、ジンジャーの鋭い刺激が追いかけていく。


「おいひい……! ルシアンもたへてみて」

「ああ」


 差し出した串を、ルシアンは躊躇うことなく受け取った。一口齧り、ゆっくりと咀嚼して、喉を鳴らすのをエナはじっと見守る。


「……悪くないな」


「あはは! でしょ?」


 お世辞にも饒舌とは言えない感想なのに、ルシアンが気に入ったことが伝わってきて、エナは自分のことのように嬉しくなった。ルシアンは串を持ったまま、もう一口、今度は先ほどより大きな口で肉を頬張った。


 無心で食事を楽しむその顔に、やっぱりルシアンも育ち盛りの男の子なんだな、なんて当たり前のことを思って胸が温かくなる。


 エナはその横顔をこっそり盗み見てから、また前を向いた。


 二人の足は、止まらない。

 サクサクのチュロスに、肉汁溢れるソーセージ。スパイスをたっぷりと効かせたレープクーヘン。気がつけば、エナの両手は買い込んだ品々で塞がっていた。


「ルシー、このホットチョコレート、すっっごくいい匂いがする!」


 弾む声に、ルシアンが「欲張りすぎだ」と呆れたような笑みを零す。彼は自然な動作でエナの手から荷物の半分を奪い取ると、自分の方へと持ち替えてくれた。

 エナは御礼代わりに、買ったばかりの紙コップをルシアンの鼻先へ掲げる。立ち上る濃厚なカカオの香りが、二人の間に甘い幸せを振りまいた。


 屋台の喧騒と、鼻をくすぐる混ざり合った匂い。その光景を見ていると、ふと、高校生の頃に背伸びをして訪れたクリスマスマーケットの記憶が鮮やかに蘇ってきた。


(なんだか、懐かしいな)


 大人の女性になったら、素敵な彼氏と一緒に来たいと夢見ていた場所。今の自分は、大人の憧れた姿でもなければ、隣にいる彼も厳密には彼氏ではない。けれど、大好きな人を隣に連れて歩くこの時間の愛おしさは、あの頃の夢を何倍も上回っていた。


 感慨に浸りながら歩いていると、ひときわ抗いがたい香ばしさが漂ってきた。視線の先には、焼き立てのミートパイが山積みにされた店がある。


「ねえ、これ食べよ……」


 誘おうとして隣を振り返った瞬間、エナの心臓が冷たく跳ねた。

 あるはずの高い背中がない。さっきまで体温を感じる距離にいたルシアンが、溢れかえる人波に呑まれ、どこにも見当たらないのだ。


「あれ、ルシー……? ルシー!」


(はぐれちゃった? どうしよう、こんなところで──)


 急激な心細さが喉元までせり上がった、その時。背後からぐい、と強い力で腕を引き寄せられた。


「うおっとぉ……」


 思わず漏れた声は、自分でも呆れるほど間抜けだった。


「……はぐれるなと言っただろう」


 呆れたような低い声が、すぐ耳元で響いた。


(あれ、私の方がはぐれた側?)


 気づけば、エナの手はルシアンの腕をしっかりと抱え込むような形で固定されていた。分厚いコート越しに、じんわりとした体温が伝わってくる。


「これなら、はぐれる心配もないだろう」


 少し不遜に言い放つ彼の顔が、いつもよりずっと近くにある。屋台の喧騒や食べ物の匂いを塗りつぶすように、ルシアンが纏うホワイトムスクの清潔な香りが鼻腔をくすぐった。


(待って……これって、エスコートなのでは……?)


 コート越しとはいえ、腕が触れている。肩の高さの違いも、歩調を合わせる振動も、すべてが痛いくらいにリアルだ。エナの心臓は、祭りの太鼓よりも激しい早鐘を打ち始めていた。


 動揺を悟られまいと、手元のホットチョコレートに視線を落とす。湯気が白く立ち上り、夜風にさらわれては消えていく。


 沈黙を破ったのは、頭上から降ってきたぶっきらぼうな問いかけだった。


「……ミートパイ、食べたかったんじゃないのか」


 見上げると、ルシアンはあえてエナを見ず、視線だけを店の方へ向けていた。耳朶がわずかに赤く見えるのは、夜風のせいか、それとも。


「──うん!」


 繋がった腕を離さないよう、さらに少しだけ力を込める。

 エナはこっそりと深呼吸をして、冷えた空気とともにホワイトムスクの残り香を肺の奥まで吸い込んだ。

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