【14】一夜の道標〈2〉
石橋を抜け、通りをいくつも通り過ぎるうちに、街の熱気が肌に伝わるほど濃くなってきた。
掴んでいた手首をそっと離し、歩きながら乱れた息を整える。
「あはは、もうあっつい」
我慢できずにフードを脱ぎ捨てると、冷たい夜風が火照った頬に心地よく触れた。隣を歩くルシアンは、あれだけ走ったというのに全く息を切らしていない。
「……君は、本当に予測がつかないな」
ふいに隣から聞こえた声に顔を上げると、ルシアンが目尻を下げて、小さく笑っていた。
並んで歩いていた足が、知らないうちに止まっていた。
(……笑ってる。ルシアンが、あんなに楽しそうに)
ぽかんとしたまま、エナは前を向けなかった。
(…………超可愛い!)
必死に網膜に焼き付けていると、意地悪な夜風がふわりと髪をひと房さらって、唇に張り付かせた。うるちゅるに仕上げたリップに、髪ががっつりと付着してしまう。
(これ取ろうとして顔を触ったら、ファンデーションが擦れちゃうやつじゃん……!)
せっかく丁寧に施した化粧を、是が非でも崩したくなかった。
必死に顔に触れないよう指を迷わせていると、不意に視界が塞がれた。
「じっとしていろ」
低い声が耳元で響く。
耳の後ろに回された大きな手に、ぐいと上を向かされた。
至近距離に、ルシアンの端正な顔がある。睫毛の一本一本まで見えるほどの距離。肌に触れる彼の熱い吐息に、心臓がうるさく警鐘を鳴らした。
(うわぁぁぁ……邪な心を無に! 無にしろ私ぃぃ!)
真剣な眼差しで見つめてくるルシアンは、あまりにも目の毒だ。
近すぎる顔に、自分の吐息がかかってしまうのが恥ずかしくて、慌てて口をぎゅっと引き結ぶ。
現実逃避に睫毛の本数を数えていると、ルシアンはそっと、リップを汚さないよう繊細な手つきで髪を取り除いてくれた。
「あ、ありがとう……ございます」
「……ん」
お礼を言うと、ルシアンの手はぎこちなく離れていった。かと思えば、その手はエナの頭に伸びて、隠すように乱暴にフードを被せてきた。
エナは、被せられたフードの縁を、そっと指先で触れた。
「…………」
「…………」
どちらからともなく、再び並んで歩き出す。メインストリートに近づくにつれ、夜の静寂は遠ざかり、賑やかな笑い声と楽器の音が波のように押し寄せてきた。
◾︎◾︎◾︎
(──眩しい)
通りに足を踏み入れた瞬間、エナは思わず立ち止まった。
道を挟むように多くの屋台が並び、至るところに置かれたランプが、石畳を暖かなオレンジ色に染め上げている。人々の影が長く伸びて、夜とは思えないほど街が活気で満ちていた。
(なるほど。だから、こんなに眩しく見えるんだ)
きょろきょろと見渡してから、エナはゆっくりと空を見上げた。
溢れんばかりの灯火に、瞳の裏がチカチカと焼ける。地上を照らす光に押し出されるように、夜空の星たちが少しだけ遠くに感じられた。
(あまり星は綺麗に見えなさそうだ)
そう思ったのが顔に出ていたのか、隣に立つルシアンが、小さく口角を上げて笑った。
「あと二時間もしないうちに、祭りの明かりは消える。早く切り上げるから、祭りが始まるのも早いんだ」
ルシアンの視線の先には、既に完売して手際よく店を畳み始めている店主の姿があった。
「という訳で、星降祭はあっという間に終わる」
ルシアンは芝居がかった動作で紳士の礼を取り、艶やかに微笑んでみせた。
「──楽しもうか、レディ?」
突然のレディ呼び。そして至近距離で、意図的に放たれた無敵の美貌。ルシアンの纏う空気が、がらりと変わったのがわかる。
「ど、どうしたの。急に……」
祭りの空気にあてられたのだろうか。普段のルシアンからは想像もつかない姿に、エナは目を見開いたまま、思わず一歩後ずさった。
「君に散々振り回されたままでいるのは、癪だからな。……少しは“お返し”になったか?」
ルシアンは端正な顔をわずかに傾け、愉快そうに目を細めた。紫色の瞳が、街の灯りを反射して怪しく光る。
さっきの我が君への意趣返しだろうか。それとも、急に手を取って走り出したことだろうか。
ルシアンは悪戯が成功した子供のような顔をして、楽しそうに目を細めている。
(ていうか、レディって……。それなら、私はミスターでよかったのか。さっきのネーミングの苦労はなんだったの……)
エナは納得いかないという風に、不満げに小さく唇を突き出した。それなら今度はこっちがミスターと呼び返してやろうと、勢いよく口を開いたその瞬間。ルシアンの低く艶を帯びた声が、すぐそばで鼓膜を震わせた。
「ルシー……だろう? 君がそう言い出したんだ。最後まで貫くべきだとは思わないか?」
有無を言わせぬ正論だった。完璧に先手を打たれて、封じられてしまった。
(まあ、ルシーって呼べるなら、それでいいか)
結局のところ、エナはルシアンという男に甘いのだ。最推しの魅力がすべてに優先してしまうのは、オタクの性である。
誰にも見られないようにフードのファーをぎゅっと握りしめ、顔の火照りを隠すように賑やかな喧騒へと踏み出した。
少し先からくるりと振り返り、最推しへ満面の笑みを向ける。
「早く来ないと置いてっちゃうよ、ルシー!」
一瞬、ルシアンは虚を突かれたように目を見開いた。
夜風がファーを揺らして、火照った頬を撫でていった。




