(――ありがとう。みんながそこにいてくれるなら、私、もう何も迷わない)
――バタンッ!!
市民ホールの楽屋口の扉を蹴破るようにして、泥まみれの3人が薄暗い通路へと滑り込んだ。
あやめの本番の出番まで、もう残り数分もない。まさに秒刻みの戦場だった。
「――できましたわ、八橋さん。これでもう大丈夫ですわ!」
あやめの背後に回り、限界以上の神速の指さばきで帯を締め上げた牡丹が、ふんぞり返って満足げに頷いた。
見れば、あやめの背中には、牡丹の鮮やかな手仕事によって、まるで大空へ飛び立つかのような、華やかで美しい『蝶の羽』の形をした帯が綺麗に広がっている。
「ちょっと蝶名林さん! これだと『文庫結び』ではありませんか!」
あやめの泥をハンカチで拭っていた菊鞠が、その背中を見るなり即座に鋭いダメ出しを飛ばした。
「? なにか問題でもありますの?」
自分の最高のリメイク作をケチつけられたとばかりに、牡丹ははて? と小首をかしげて見せる。
「大ありです! お正月や成人式の振袖ならともかく、こうした格式高いお琴の発表会ですよ? 舞台の格式はもちろん、演奏の邪魔にならないためにも、お太鼓にするのが常識です!」
「なっ……! お、お太鼓ですって……!? 舞台映えを考えれば、わたくしの結んだ蝶の羽の方が何倍もエレガントですわ!」
「舞台のルールを無視したらお母様に一発でバレて怒られちゃいます! ほらどいて、私がちゃっちゃと『お太鼓』に結び直すから、蝶名林さんはあやめちゃんの髪型を、帯に当たらないよう下の方でお団子に――いえ、シニヨンに結び直してっ!」
大遅刻寸前の楽屋裏。和のプロフェッショナルである二人が、今度は「どちらが正しく、美しくあやめを調律できるか」でバチバチに火花を散らしながら、嵐のような手際であやめの体を囲んで衣服を躍らせていくのだった。
ピロン♪
すずめとの気高い誓いを交わし、試合後の心地よい余韻と熱気が静かに漂うグラウンド。
そこへ、ぽつんと置かれていた椛のスマートフォンの通知音が小気味よく鳴り響いた。
「――ん? 牡丹くんからだ」
画面へと目線を落とした椛は、そこに並んだ文字を見て、ふっと穏やかな笑みをこぼした。
「なんて書いてあるんよ?」
「『皆さん、今すぐ市民ホールまでお越しくださいまし』だってさ」
顔を上げた椛が、汗を拭いながら集まってきた八々花のメンバーたちへその内容を伝える。」
「なんだろ?」
「八橋さんの発表会、だよね?」
「ええっ、でも自分ら、こんなドロドロのジャージ姿だし汗くさいけどかまへんのやろか……? お上品なお琴の発表会やろ?」
藤乃や小梅が、自分の汚れた服装を見下ろしておそるおそる顔を見合わせた。格式高い和の世界へ、この戦闘服のまま踏み込むことへの素朴な戸惑い。
「ふふっ、あの礼儀作法に厳しい牡丹くんがわざわざ『OK(お越しください)』を出しているんだから、問題ないとは思うよ。お母様に見つかって邪魔にならない程度に、客席の隅のほうで静かに見守っていればいいんじゃないかな?」
椛のその言葉に、桐子も痛む右膝をさすりながら「ええ、アタシたちの最高のゲームメイカーの音色、特等席で聴かせてもらいましょう」と優しく微笑んだ。
「よし、じゃあみんなで大急ぎで移動だー!」
汗まみれ、泥まみれのジャージを翻し、今度は仲間たちのほうが、あやめの待つ伝統のお琴の世界へと、嬉しそうに駆け出していくのだった。
まばゆいスポットライトが降り注ぐ、市民ホールの荘厳なステージの上。
あやめはぽつんと一人、十三本の絃を湛えた箏の前で静かに指を構えた。
客席の最前列からは、母・燕の鋭い視線と、品定めをするようなお弟子さんたちの重苦しい沈黙が、波のように彼女の体を包み込んでいくのが感じ取れる。
――キィ。
ホールの最果てから届いたのは、演者たちの誰も気にも留めないような、極めて控えめな、扉の開く音。
だが、誰よりも繊細にピッチの不協和音を見抜いてきたあやめの鋭い耳は、その小さな音を正確に捉えていた。
ふと視線を泳がせた目の端。ホールの最後方の扉から、お互いの服の泥を気にしながら、そろりそろりと客席の隅へ忍び込んでくる緑のジャージ姿の少女たち――大好きな戦友たちの姿が、確かにそこにあった。
(――ありがとう。みんながそこにいてくれるなら、私、もう何も迷わない)
胸の奥に灯った温かい熱が、ついさっきまで駆けていた緑の芝生の匂いと、仲間たちの美しい旋律を指先へと呼び覚ましていく。
あやめは象牙の爪をはめ、凛とした笑顔を唇に浮かべると、おもむろに最初の一絃を強く弾いた。
――てーぇん!
最初の一音が格式高い和の静寂を切り裂き、魂の乗った圧巻の調べがホール全体を震撼させた。
さあ。――私たちの、キックオフだ。
あやめが指先を滑らせるたび、ホールを支配する空気の密度が目に見えて変わっていく。
客席の母・燕の、そしてお弟子さんたちの目が驚愕に見開かれた。そこに響いているのは、かつてのあやめのような、母の顔色を窺う「迷いの混ざった音(雑音)」では決してない。
1ミリの濁りもない、どこまでも透き通った、だけどあまりにも力強い本物の音色(音叉)。
――とん、しゃん。
第二段、第三段と曲が進むにつれ、八橋流の祖が遺した伝統の旋律は、ゆっくりと、だけど確実にそのテンポを上げ始める。
あやめの脳裏に、あの緑の芝生の残像が鮮やかに蘇る。
お琴の前に座っていても、サッカーへの愛を諦めきれずに、体がピッチを求めて叫んでいたあの燻る情熱。自分の本音に嘘をつくのをやめ、すべてをなげうってピッチへ帰還したあの瞬間の衝動。
曲が四段、五段へと突入し、伝統的な『序破急』の速度変化に合わせてテンポが激しく加速していく。
あやめの指先から溢れ出したのは、もはや上品なお箏曲の枠を完全に超えた、獰猛なまでの『躍動感』そのものだった。
右へ、左へ、十三本の絃の上を激しく跳ね踊る指先のステップ。それは、中盤の底からすずめの《鳥籠》の歪みを一瞬でブチ抜いた、あのミリ単位の精密な調律パスの軌道。
――ころん、りん。
中空で優雅に弾むような唱歌の響き。それは、データの網の遥か頭上をふわりと優しく渡っていった、菊鞠の《木の葉落とし》の美しい放物線。
そして――いよいよ最高潮を迎える最終の第六段。
あやめは胸元の『重ね衿』を翻すように、残された全ての情熱を右手の爪へと込め、一絃の奥深くへと叩きつけた。
ぱしぃぃぃぃんっ!!!!
絃が震え、ホールの鼓膜を震わせたその破壊的な衝撃音は。
鳳桐子が怪我の右膝の制約をすべてかなぐり捨てて天高く舞い上がり、一文字のゴールネットを文字通りブチ抜いた、あの伝説の【鴻鵠の志オーバーヘッドキック】の衝撃そのものだった。
ピッチで解き放ったサッカーへの憧憬と情熱が、八橋流の伝統の気品と奇跡の融合(調和)を果たし、ホールの空気を爆発的なエネルギーで支配し、弾け飛ぶ。
最後の長い余韻を美しく響かせ、あやめがそっと絃から指を離した瞬間――。
一拍の、息を呑むような圧倒的な静寂のあと。
ホール全体を激しく揺らすような、割れんばかりの万雷の拍手が沸き起こったのだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
次回予告――
サッカーの試合を終え、そしてお琴の発表会も成功したあやめ。
そんなあやめに、母である燕は――。
次回、
【「――はい、お母様! 生涯を懸けて、必ず証明してみせます!」】
どうぞお楽しみに!
――
「あやめの演奏シーン、鳥肌たった」
「これは、母親も納得だろ」
と思っていただけましたら、ぜひページ最下部にある【☆☆☆☆☆(星ボタン)】や【ブックマーク】で応援していただけると、執筆の大きな励みになります!
よろしくお願いいたします!




