――燕雀(えんじゃく)安(いず)くんぞ鴻鵠(こうこく)の志を知らんや。
「あーりやー、ありっ!」
その瞬間、グラウンドの真ん中に響き渡ったのは、凛として心地よい菊鞠の「請い声」だった。
一竹すずめの地上データの網(上空)を越えたボールの落下地点へ、菊鞠が音もなく滑り込む。
「よう。」
――ぽん。
背筋を美しくピンと伸ばした神聖な姿勢のまま、菊鞠は右足の甲で、落ちてくるボールを優しく空中へと蹴り上げた。
「おうっ」
――ぱしっ、ぽん。
伝統芸能の蹴鞠がごとく、右足のインステップのミリ単位の角度調整だけで、空中へと正確にボールを弾み、キープし続ける。
「な、何よあの動き……!? 右足一本だけで空中のパスラインを支配している……!?」
地上戦を専門とするすずめの《鳥籠》が、上空で優雅に舞い踊るボールを前にして完全にフリーズした。
一文字学園ディフェンス陣の意識が、完全に空中(上空)へと釘付けになった、まさにその刹那――。
「――今です、薄さん!!」
あやめの鋭い声に呼応するように、それまで右サイドの深い位置でじっと息を潜めていた元・神園の『五光』――薄満月が、獰猛な牙を剥いて爆発的なスプリントを開始した。
「ずっとサイドの深い位置で焦らされていたお返しです、一文字の一軍の顔面に、最高の一撃をお見舞いして差し上げましょう……!」
右の暗がりに隠れていた『満月』が一気に輝きを放つように、あやめの狙うデータの裏のスペースへと、斜め(ダイアゴナルラン)に鋭くブチ抜いていく。
満月は一文字の意識の死角となっていた位置から一気に加速し、相手のディフェンスラインの裏(中央のスペース)へと完全に侵入した。
「ありっ」
――ぽーーーーんっ。
すずめの頭上でボールを躍らせていた菊鞠が、右足の甲で優雅な放物線を描き、走り込む満月の足元へと、寸分の狂いもない極上の空中パスを送り届けた。
パスを完璧に受け止めた満月は、慌ててカバーに戻ろうとする一文字のバックラインを引きつけ、中央の空白へと視線を走らせる。
そこへ、誰よりも鋭く、風を切り裂いて滑空する「もう一つの影」が飛び込んでくるのを、満月の鋭い戦術眼(目)はしっかりと捉えていた。
「柳さん! お願いっ!!」
満月が右足から放ったのは、一文字のディフェンスを嘲笑うように中央の空白へと転がる、完璧なお膳立てのラストパス。
そこに走り込んできたのは、元・神園の誇る《飛燕》――道風柳であった。
「――んっ!!」
(……八橋さんが、みつさんが、柳のために、一番綺麗な音を繋いでくれた……!)
後半開始早々、切り札《燕返し》を一竹すずめに完全看破され、芝生に崩れ落ちた屈辱。
傷癒えぬ桐子のために全力を尽くしたいという熱い想い。
その全てを爆発的なスプリントへと変えて、柳はマークを引きちぎり、転がるボールへと猛然と肉迫する。
今度は、フェイントなんて挟まない。
満月が完璧なタイミングで調律してくれたボールへ、柳は燕の飛翔がごとく滑り込みながら、その右足を一閃――渾身のダイレクトボレーを叩き込んだ。
シュバッッ!
風を切り裂くような、鋭く、凄まじい衝撃音がピッチに響き渡る。
完璧なポジショニングを取っていた一文字のキーパーが反応して手を伸ばすよりも圧倒的に速く、柳の放った執念の一撃は、一文字のゴールネットを文字通り「ぶち抜く」ように激しく突き刺さった。
――ゴォォォール!!!
3対3。
あやめがピッチに入ってから、わずか1分足らず。
八々花同好会が全員の旋律を合わせ、執念でもぎ取った奇跡の同点弾だった。
八々花女子サッカー同好会に追いつかれ、苦渋の表情で再びセンターサークルへと戻ってきた一文字学園の面々。
「――まさか、八橋ひとりが追加されただけで、こうも番狂わせが起きるとはね」
ジャージの袖を揺らす一竹すずめの表情には、この試合で初めて、明確な焦りの色が浮かんでいた。
地上のデータを支配する己の《無慈悲な鳥籠》が、あやめの『調律』と菊鞠の『空中戦』によって完璧に無力化されたのだ。一軍アンカーとしてのプライドに、確かな戦慄が走る。
「――あの、えっと、一竹せん……ぱい?」
さっきまでくねくねと踊り狂っていたツグミが、すずめの見たこともない険しい顔色を窺うように、おそるおそる、怯えた声で尋ねた。
「ああ、悪いわね。少し予定が狂っただけよ。すぐに再調整するわ」
すずめは冷徹に思考を切り替えると、キックオフのキッカーをツグミに任せ、自らは前線、八々花のゴールへ向けて力強く走り出した。
「一竹先輩っ!」
ツグミがすずめの走る進路へ向けて、前線へ大きく、高いボールを蹴り上げた。
――だが。
「貴女がたの戦術、さすがにもう見飽きましたわ」
凛とした、最高に冷ややかなお嬢様の声がピッチに響き渡ったのは、そのボールがすずめのもとへと届くよりも、遥か手前のことだった。
漆黒と鮮紅の美しい『重ね衿』を翻し、ディフェンスラインから蝶のごとくヒラリとピッチに舞い出でたのは、牡丹だ。
一軍のすずめさえ走らせればなんとかなる――そんなツグミたちのワンパターンな「すずめ依存」のパスルートは、元一文字の蝶名林にとって、蹴った瞬間に軌道が透けて見えるほどに退屈な代物だった。
――ヒラリ。
蝶名林は美しいジャンプ一番、空中での華麗なパスカットを決めてみせ、一文字のプライドをその爪先で無慈悲に払い落としたのだった。
一文字の自慢のパスラインを完璧に遮断した蝶名林は、着地と同時に、中盤の底で構えるあやめへと正確にボールを繋ぐ。
あやめはトラップの勢いのまま、前線へと走る菊鞠に向けて、琴の絃を弾くように、精密なパスを配給した。
「おうっ!」
「あ、菊鞠ちゃ――」
――とーん。
菊鞠の右足から放たれた、優しい“おもてなし”の音。
高く蹴り上げられたボールは、中空で美しい放物線を描きながら、再び柳のもとへと向かう──と、誰もが確信した。
「二度目はないっ!」
ボールを完全奪取しようと、獰猛にスプリントを仕かける一竹すずめ――《無慈悲な鳥籠》。
そしてそれを阻止しようと、残された全ての体力を振り絞ってボールに食らいつこうとする道風柳。
――地上のデータを支配するすずめ(雀)と、鋭く風を切って走る柳(燕)。
二人の天才が中空の球目がけて、空中でバチバチに肉迫した、まさにその瞬間だった。
。
ボールは中空で、急に意思を持ったかのように「ふわり」と不自然にその軌道を変えた。
完全に回転の死んだその球は、空気の気流を受けて風に舞う木の葉の如く不規則に左右上下へと激しくブレながら、重力に引かれて真下へと急降下する。
すずめのデータの網を完全に置き去りにしてすり抜け、誰もいない一文字のバックラインの裏へと流れていく。
菊鞠がこのサッカー同好会を始めてから、チームのために新しく取得した未知の妙足──。
その名も――《木の葉落とし》。
「――計算、不能……っ!? 回転が、……止まっているというの……っ!?」
脳内ノートPCのハッキング画面(データの網)が真っ赤なエラーログで埋め尽くされ、一竹すずめは初めてその冷徹な顔を戦慄に歪めた。
そのデータの死角(バックラインの裏)へと、影のように息を潜めていた八々花の少女たちが一斉に突撃を仕かける――!
「させるかっ!」
驚愕に翼のような髪を揺らしながらも、すぐさま反転して動き出す一軍アンカーの驚異的な反応速度。
しかし──そのデータの網の、さらに遥か上空をゆく『大鳥』がいた。
(アタシの心臓……いま、この一瞬に、五分間の全てを懸けるっ!!)
胸の奥を走る、心臓が粉々にひび割れるような鋭い激痛。
鳳桐子は、拍動のたびに自分の体力をごっそりとそぎ落としていくその恐ろしい感覚を精神力だけでねじ伏せ、大地を爆発させるように激しく蹴り上げた。
空を羽ばたくように、中空へと高く、高く舞い上がる。
――燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや。
地上のすずめ(雀)も、鋭く走る柳(燕)も、その天高く舞い上がった桐子(鳳)の領域には遠く及ばない。
大鳥がその首をもたげるように、空中であり得ない角度まで背筋を反転させた桐子は、美しい宙がえりの軌道のまま、空中で完璧にボールを捉えてみせた。
ドガァッ――!!!!!
ジャージのすずめの眼前で放たれた、神速のオーバーヘッドキック。
――バシュウッ!!!
グラウンドを引き裂くような凄まじい衝撃音と共に、ボールは一文字のゴールネットを文字通り「ぶち抜く」ように激しく突き刺さったのだった。
劇的な逆転弾――。
「やったぁぁぁ! 4点目だああああっ!」
八々花のベンチが最高の歓声に沸き返る。
誰もが逆転勝利を確信し、狂喜乱舞した――しかし。
ピピッ、ピーーーーッ。
グラウンドに響いたのは、その大歓声を切り裂くような、どこか震える、だけど明確な主審の笛の音だった。
ゴールマウスを指差すはずの主審――カスミの右手は、静かに、一文字側の陣地へと真っ直ぐに上げられている。
「う、うちの目、誤魔化せへんのよ……。……鳳パイセン、神酒盃ちゃんがボールを放った瞬間、ほんのわずかだけ、相手の最終ラインより前に出てたんよ……」
カスミは泣き出しそうな、今にも崩れ落ちそうなほど悲しそうな顔で、それでもルールに対してどこまでも誠実に、毅然と告げた。
「オフサイド……なんよ。――ゴールは、認められないんよ」
一瞬にして、静まり返るグラウンド。
「ぷっ…、ぶふふっ……! なによそれぇ! 敵の審判だからひいきしてもらえると思ったのに、身内に足を引っ張られて同点のままなんて、とんだピエロ(泥船)ね!」
ツグミがホッとしつつも不満げに呟くが、ジャージ姿の一竹すずめは、そんな小物の声など耳に入らない様子で、ただ呆然と自陣のゴールネットを見つめていた。
すずめの額からは、たらりと冷や汗が流れ落ちている。
(……負けていた。もしあの主審が身内びいきの不正をしていれば、私は……一文字の一軍は、完全に敗北していた……!)
ピッ、ピッ、ピーーーーッ!
直後に、激闘の終わり(3ー3同点終了)を告げる長いホイッスルが、夕暮れのグラウンドに鳴り響いたのだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
次回予告――
逆転弾となるはずだった桐子の渾身のシュートはオフサイド。
試合は同点のままノーサイド。
そしてあやめは――。
次回、
【「――ミ゜。」】
どうぞお楽しみに!
――
「桐子のオーバーヘッドキックかっけぇ」
「オフサイドとか作者空気よめ」
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