「っ……! うん……! あやめちゃんが調律するピッチなら、私、どこまででも高くボールを繋げるよ!」
あやめはピッチの中央で、まだ硬さの残る真新しいスパイクの感触を確かめるように、その場でトントンと軽く足踏みをした。
朝、衣装袋の底にそっと忍ばせてきた、自分の隠しきれない憧憬の象徴。
それが今、春の青空の下で濃緑の芝生をしっかりと噛んでいる。
後半戦中盤のリスタートを告げるべく、新主審のカスミが口元にホイッスルを構え、両チームの配置を確認している。
その再開直前の、グラウンドを包み込む短い静寂を縫うようにして、中盤の底から弾むような足取りで駆け寄ってくる影があった。
「あやめちゃん!」
そう言って親しげに声をかけてきたのは、幼馴染の菊鞠だった。
かつてサッカーをあれほど毛嫌いし、伝統的な蹴鞠の世界に頑なにこもっていたはずの彼女が、今は自分と全く同じ『黒と赤の重ね衿』のユニフォームに身を包み、緑のピッチの上で隣り合って立っている。
その運命の悪戯のような巡り合わせが、なんだか無性におかしくもあり、同時に胸の奥が甘酸っぱくくすぐったくもあった。
「――ふふっ」
「え、どうしたの? あやめちゃん!?」
思わず声を漏らして笑ったあやめの顔を、菊鞠が不思議そうに覗き込んでくる。
「ううん、なんでもないよ。菊鞠ちゃんこそ、どうしたの?」
「……お琴の発表会、本当に大丈夫なの?」
菊鞠の瞳に、朝からずっと燻っていた心配の色が再び過る。
あやめが母親の言いつけを破り、すべてをなげうつ覚悟でこの戦場へ飛び込んできてしまったことへの、親友としての小さくて痛い罪悪感。
「あはは、そうだね。ちょっと大丈夫じゃない、かも」
あやめはタイトに結んだポニーテールを小さく揺らし、おっとりとした、だけど1ミリの迷いもない澄んだ瞳で微笑み返した。
「――でも、プログラムの進行上、私の正式な出番が回ってくるまでは、まだ少しだけ時間の猶予が残されているわ。だから、あの酷い雑音を綺麗に消し去ったら、大急ぎで戻るね」
「雑音って、もしかして――」
菊鞠が、センターサークルの向こう側へ視線を向ける。
そこには、さっきまで腰をくねくね曲げて妙ちくりんな煽りダンスを踊り狂っていた、一文字学園のツグミがいた。
ツグミはこちらの視線に気づいた瞬間、さっき自分が服を引っ張って萩子を鼻血退場に追い込んだことなど完全に忘れたドヤ顔のまま、「なによ!」と鋭く睨みつけてくる。
そんなツグミの視線を、あやめは再びサラリと受け流した。
その代わりに、あやめは菊鞠の目をじっと見つめ、その手にそっと触れた。
「それにね、菊鞠ちゃん。……このピッチの調律の要は、菊鞠ちゃんだと思うの」
「え……? 私、私が……要?」
驚いて目を丸くする菊鞠に、あやめは胸元の『黒と赤の重ね衿』を翻し、これ以上ないほど綺麗で、信頼に満ちた笑顔を向けた。
「相手の一竹すずめさんは、私たちの地上戦のデータを完璧に研究(ビデオ対策)して網を張っているわ。でもね、彼女の『鳥籠』には、空中のデータ(楽譜)が一切無いのよ。……だから、菊鞠ちゃん。私を信じて、すべてを委ねるね!」
「っ……! うん……! あやめちゃんが調律するピッチなら、私、どこまででも高くボールを繋げるよ!」
あやめが新調したスパイクで一歩、緑の芝生を進む。
1人少なく、逆転され、一文字の圧倒的な壁を前にして完全に恐慌状態に陥っていた八々花のピッチ。
パスラインはズタズタに引き裂かれ、選手たちの距離感は狂い、バラバラの不協和音を奏でていた。
――だが、あやめが中盤の底の位置へと足を踏み入れた瞬間、その空気が一変する。
「時鳥さん、あと二歩後ろへ下がってください。鴬塚さんは右のライン際まで開いて、道風さんがいつでも飛び立てるスペース(道)を空けてあげてください」
「……っ、了解や。小梅、開くで!」
藤乃が鋭い返声を返し、小梅のアホ毛がピキィン!と鋭く反応してライン際へとスライドする。あやめは視線を前線へと向け、息を整える桐子へと優しく言葉を紡いだ。
あやめは声を荒らげることなく、まるでお琴の絃の緩みを一本ずつ確かめるように、静かに、だけど絶対的な確信を持って仲間に位置の指示を飛ばし始めた。
「鳳さん……その位置だと、身体の負担が大きすぎます。一文字のディフェンスの視線を引きつける役は私と蝶名林さんでやりますから、鳳さんは中央の死角で牙を研いでいてください」
「っ……! ああ、分かったわ、八橋さん。中盤のタクトは、全てあなたに預けるわ」
心臓過負荷のエコモードをすぐに見抜かれた桐子が、驚きつつも絶対の信頼を込めて頷き、中央の影へと身を潜める。
あやめはそこで言葉を一度区切ると、右サイドハーフの位置で、前半から虎視眈々と牙を研いでいた元・神園の『五光』――薄満月へと、絶対的な確信に満ちた視線を向けた。
「薄さん。一竹さんはあなたの右サイドからの突破を最も警戒して、中央の網を右寄りに張っています。……だから、あえてその『データの裏』を突きます」
「裏……? 八橋さん、私に何をさせる気ですか?」
満月が元・神園の五光としての鋭い笑みを浮かべ、ユニフォームの『黒と赤の重ね衿』を翻す。
そのクソ真面目な瞳の奥に宿るアスリートの闘志を見据え、あやめは絶対的な確信に満ちた声を響かせる。
「すずめさんの視線(鳥籠)を、私と菊鞠ちゃんが空中の調律で完全にフリーズさせる。その一瞬の空白、一文字のディフェンスの意識が完全に空中(上空)へ向いたその刹那に――薄さん、右の暗がりに隠れた『満月』が一気に輝くように、中央の裏のスペースへ斜め(ダイアゴナルラン)にブチ抜いて!」
「――なるほど、理解しました。 ずっとサイドの深い位置で焦らされていたお返し、一文字の一軍の顔面に、最高の一撃をお見舞いして差し上げることにしましょう」
あやめが数言、言葉を紡いだだけ。
それだけで、さっきまで崩壊していた八々花の陣形が、まるで目に見えない美しい糸で結び直されたかのように、完璧な黄金比率の調和(旋律)を取り戻していく。
これには、ジャージ姿の一竹すずめも、驚愕にその翼のような髪をピンと張り詰めさせた。
(……ただピッチに入っただけじゃない。彼女がそこに立っただけで、狂っていた八々花のリズムが完璧に調律されていく……!)
バラバラだった仲間たちの音が、あやめという1本の『音叉』によって、一瞬にして一つの恐ろしい反撃のうねりへと収束していくのだ。
一文字学園一軍アンカーとしての鋭い戦術眼が、目の前の美しきゲームメイカーへの最大級の警戒を告げていた。
完璧に舞台を整えたあやめは、トントンと軽く足踏みをしてスパイクを馴染ませると、すぐ横に立つ幼馴染の菊鞠へと、一切の迷いのない力強い目を向けた。
「菊鞠ちゃん。菊鞠ちゃんの請い声が、反撃の合図だよ」
「――! わかった!」
八々花のすべての『絃』が、一ミリの狂いもなく美しく調律し終えた、まさにその刹那──。
――ピッ!!!!
新主審となったカスミの、1ミリの不正もない鋭いホイッスルがグラウンドに鳴り響く。
2対3。八々花のキックオフ。
前線から下げられた最初のパスを、八々花の中盤の底――ボランチの位置へ入ったあやめが受け止めた。
「――無駄よ」
ジャージ姿の一竹すずめが、破壊的なプレスで突進してきた。
あやめがボールに触れたその一瞬、彼女の「体の向き」と「骨盤の角度」というリアルタイムの視覚情報だけで、どこへパスが放たれるかをその天才的な脳細胞で瞬時に完全計算(予測)してみせたのだ。
それは、かつてビデオデータのなかで何度も見た、小学生時代の八橋あやめの最も美しいパスフォーム(癖)と、寸分違わず完璧にリンクしていた。
一瞬にして中盤のすべてを窒息させる、一文字学園一軍アンカーの《無慈悲な鳥籠》。
だが、あやめは不敵に微笑んだ。
突っ込んでくるすずめの凶悪なプレッシャーを、あえて骨が軋むような紙一重の間合いまで引きつけると、右足の爪先でボールの底を綺麗にすくい上げる。
――フワリ。
すずめの予測(地上データ)の、遥か頭上を超える、美しい放物線を描いたロブパス。
地を這う一文字の網をあざ笑うかのように、春の青空へと高く舞い上がるボール。
その落下地点、ピッチの真ん中にスッと陣取った影が、神聖なる空間へ向けて、その小さな喉を美しく震わせた。
「あーりやー、ありっ」
今まで誰も聴いたことのない、だけどどこか凛として心地よい、伝統の『請い声』。
その神聖な反撃のファンファーレが、歪んだグラウンドの全域へと、高らかに響き渡るのだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
次回予告――
菊鞠の請い声を合図に、試合の天秤は再び八々花へと傾き始める。
柳による同点弾、そして――。
次回、
【――燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや。】
どうぞお楽しみに!
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