「私は――このピッチへ、帰ってきた!!」
防音設備の甘い市民ホールの控室にまで、窓の外から耳鼻をつんざくような軽薄な声が漏れ聞こえてくる。
――ビンッ。
「あっ――」
その雑音に心を乱された瞬間、絃を弾いていたあやめの指先が、わずかに弾くべき音を外した。
張り詰めた静寂の中に、濁った不協和音が痛々しく響き渡る。
「――そこまで。あやめ、貴女。まだ心に『雑念(雑音)』が混ざっているようね」
あやめの母にして八橋流箏曲の師範でもある燕が、氷のように冷ややかなため息混じりにそう言い捨てた。
『結成2週間の同好会(泥船)のくせに、前半ちょっと調子に乗ったからって勘違いしないでよねー! ほらほら、どうしたのよぉー! 泣いて謝るならいまのうちなんだからー!』
キーキーと窓の向こうから届き続ける醜い罵声に、控室にいた弟子の多くが不快そうに眉をひそめる。
「それにしても、なんて野蛮で卑しい声。……やはり貴女から、サッカーなどという俗なものを取り上げさせて正解だったのかもしれませんわね」
師範である燕のその言葉に、周りの弟子たちも「本当に」「お琴の気品を汚すだけですわ」と賛同するように深く頷き合った。
「――っ!」
お母様にそう言い捨てられ、周囲のお弟子さんたちがサッカーを「野蛮」とバカにした瞬間、あやめの中で、ずっとお琴の音色の裏で燻っていた本物の情熱が完全に覚醒した。
ガタッと鋭い音を立てて立ち上がるあやめ。
「雑音を――」
「――え?」
見据えた母の視線を、あやめは一切の迷いの消えた、射抜くような「戦士の瞳」で真っ直ぐに見返し、凛とした声を響かせた。
「お母様、ごめんなさい。――私、自分の心に嘘をついたまま、お琴の前に座り続けるのはもうやめます。あのピッチで、私の『本当の音(情熱)』をすべて解き放ってきます」
突如あやめが立ち上がったことで、母も弟子たちも面食らったような顔をする。
呆気にとられる一同の前で、あやめは用意されていた美しい本番用の着物の衣装袋から、綺麗に畳まれたもう一着の衣類を引っ張り出した。
――ハッと、周囲のお弟子さんたちが息を呑む。
お琴の衣装の底に大切に隠されていたのは、緑の芝生を駆けるための戦闘服。
朝、牡丹が指先を傷だらけにしてホールまで届けてくれた、首元に重ね衿を思わせる黒と赤のラインが走る八々花女子のユニフォームだった。
あやめは上品なお稽古着をその場でためらいなく脱ぎ捨てると、深緑と若葉色のユニフォームをその身に晒した。髪を実戦用のタイトなポニーテールに結び直し、スパイクを引っ掴む。
「あやめさん、あなた……! 何て破廉恥な!」
お弟子さんたちが非難の声を上げる中、母・燕だけは、娘の今までにないほど迷いの消えた鋭い瞳を見て、言葉を失い、その圧倒的なオーラに気圧されていた。
自分の心の中の、そして愛する仲間たちのピッチを乱す全ての「雑音」を完全に消し去るために。
あやめは楽屋の扉を蹴破るような勢いで飛び出し、泥まみれのグラウンドへと猛ダッシュを開始した。
新調したばかりのスパイクが、まだ馴染まない硬さのまま、春の冷たい芝生をザクッ、ザクッと激しく踏み締める。
一文字学園の女生徒のけたたましい笑い声をかき分けるように、あやめは自分が着るユニフォームと同じ、深緑の戦闘服の集うベンチへと向かう。
「駄目よ猪目さん!まだ血は完全に止まっていないわ!顧問として、今あなたをピッチに出すわけにはいかないの!」
「行かせてくれよ、みよ先生!アタイが行かなきゃ、一人足りねぇじゃんか!!」
そこには、鼻血を止めようと応急手当をしながらも、今すぐにでも飛び出していきそうな萩子を制止する三芳野先生がいた。
「三芳野先生。選手交代をお願いします。――猪目さんに代わり、私が出ます!」
「え……? や、八橋さんっ……!?」
三芳野先生が驚愕に目を見開き、鼻血を押さえた萩子が「八橋……! お前、お琴の発表会は……っ!」と声を詰まらせる。
振り返った彼女たちの目に飛び込んできたのは、お琴の衣装(着物)をかなぐり捨て、胸元に黒と赤の美しい『重ね衿』を翻した緑のユニフォーム姿のあやめだった。
「主審! メンバーチェンジお願いします!!」
あやめはそのままピッチの入り口へと走り込み、ホイッスルを咥えたカスミへと高らかに選手交代を告げた。
「あやめちゃん……!」とカスミの顔に希望の光が宿る横で、前線にいたツグミが「はあぁ!?」と顔を真っ赤にして声を裏返した。
「ちょっと主審! メンバーリストにない選手の途中交代なんて、ルール上認められないわよ! 1人足りないからって、今更そこら辺の有象無象を引っ張ってきてピッチに入れるなんて、そんな泥船ルールが通るわけないじゃない!」
遅れてグラウンドに到着したツグミは、あやめがかつてジュニアユースで名を馳せた《中盤の調絃師》であることなど知る由もない。ただの数合わせの素人だと決めつけ、ルールを盾にキャンキャンと吠え立てるツグミの雑音。
しかし――そんなツグミの言葉を遮るように、センターサークルに佇む一竹すずめの冷徹な声がピッチに響き渡った。
「――見苦しいわよ、ツグミ。すでに公式戦でもないこの練習試合に、ジャージ姿の私が独断で途中からピッチに入っているのよ。……その私がここにいる以上、相手の交代に対して今更そんな規律を盾にした理屈が通ると思っているの?」
「え、あ、すずめ先輩……っ!?」
身内であるはずの一軍アンカーから公然と正論で叩き潰され、ツグミは鳩が豆鉄砲を食ったような顔で言葉を失った。
すずめはツグミを一瞥すらすることなく、あやめがピッチに入ってきたその瞬間から、微動だにせずあやめだけを凝視していた。頭の両側の翼のような髪が、緊張感でピリピリと張り詰める。
「――随分と久しぶりね、八橋あやめ。てっきり、もう戻ってこないと思ってたわ」
その一言に、ツグミだけでなく、一文字二軍の選手たち全員が息を呑んでフリーズした。
あの絶対的な一軍アンカーが、名無しの同好会メンバーに対して、最大級の警戒とリスペクトを込めて名前を呼んだのだ。
「お琴を弾くのに飽きたのなら、歓迎するわ。……さあ、かつて《中盤の調絃師》と恐れられたあなたのタクトで、この歪んだピッチを調律してみせなさいな」
あやめは新調したばかりの硬いスパイクで芝生をぐっと踏み締め、すずめの視線を正面から真っ直ぐに見返し、静かに言い放った。
「ええ、お待たせ、一竹すずめさん。――隣にいても、あまりにも雑音が酷いから。それを消しに来ただけよ」
ツグミが「ざ、雑音ってまさかあたしのことぉ!?」と顔を真っ赤にして声を裏返すが、あやめはもうその声すら聴いていなかった。
(――そう。消しに来たのよ、ずっと私の頭の中で鳴り止まなかった、あの音を)
お琴の前に座っていても、サッカーへの愛をどうしても諦めきれずに、体がピッチを求めて叫んでいた、燻る情熱という名の「心の雑音」。
その自分自身の未練に決着をつけ、もう自分の心に嘘をつかないために、私はすべてをなげうって、もう一度この場所に――。
あやめは泥まみれの仲間たち、そして宿敵である一竹すずめを真っ直ぐに見据え、天才ゲームメイカーの風格をその身に宿して、魂の帰還を宣言した。
「私は――このピッチへ、帰ってきた!!」
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
次回予告――
ピッチに入ったあやめは、瞬く間にチームのゆがみを修正していく。
そして未だ活躍を見せなかった菊鞠に、声をかける。
次回、
【「っ……! うん……! あやめちゃんが調律するピッチなら、私、どこまででも高くボールを繋げるよ!」】
どうぞお楽しみに!
――
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