「――ごめんあそばせ」
ピッチ中央、菊鞠の凛とした「請い声」が再び響き渡る。
「よう――おう、あり」
完璧な静謐を保つ左足を軸に、ただ一本の右足だけで千変万化の空中戦を支配するその姿は、スタジアムの観客を魅了するには十分すぎるほど優美だ。
最強のフィジカルを誇る神田瑠衣(クラブのK)が地響きを立てて突っ込んできても、菊鞠はステップ一つでその圧殺プレスを軽やかにいなしてみせる。
「……あら、これが噂の『蹴鞠』ね」
だが、神園学園のトップ下に君臨するハートのキング――《微笑みの調律師》こと茉優・シャロンは、その異次元のキープ力を目の当たりにしても、泰然とした笑みを崩さない。
ほんの1タッチ、わずか数秒のコンタクト。
しかし、シャロンの天才的な戦術眼は、菊鞠が奏でる請い声のリズムから、その優美なステップが内包する『絶対の法則』をすでに正確に感じ取っていた。
どれほど激しいプレッシャーに晒されようとも、軸足である左脚がピッチの芝生に吸い付いたかのように固定されているからこそ、右脚の千変万化のコントロールが可能になるのだと。
驚愕などそこにはない。
ただ、上質なオーケストラの演奏を品評するかのような、冷徹なまでの余裕がその双眸に湛えられていた。
「伝統芸能の美しき様式美。確かに一人で中盤のプレスを無力化するだけのキープ力はあるわ。……けれど、神酒盃菊鞠」
シャロンは、まるで楽譜のミスを指摘する指揮者のように、酷く上品に、無慈悲にその唇を震わせた。
「完璧にパターン化された美しいリズム(旋律)ほど、その次の『音』がどこへ落ちるのか、予測するのなんて容易い(たやすい)のよ」
シャロンの視線の先、神園のディフェンスラインの頭脳である海沙悠理(ダイヤのK)が、カクテル光線の下で微かに指先を動かし、周囲の絵札イレブンへと無言のサインを送っていた。
八々花の「絶対にボールを地面に落とさない」空中戦、あるいは菊鞠の固有戦術は、王国のデータ要塞によってすでに完全に解析されていた。
(神酒盃菊鞠。彼女はボールをキープし、パスを配給する際、敵味方を問わず『周囲の選手の右脚』にわざと球体を衝突させ、その跳ね返りを制御して次の旋律を紡ぐ――)
――要するに、かつて我が神園学園が『過去の遺物』としてとっくの昔に切り捨てた、初心者のコントロールを乱すための古典的なハメ技の変形に過ぎない。
手の内が開示されている以上、そのバウンドの規律はすべて私たちの支配下よ。
神田瑠衣のプレスの背後から、さらにクラブのQを背負う有路寧々が、その尽きることのない無尽蔵の体力を優雅なステップに秘め、影のように音もなく菊鞠へと距離を詰める。
菊鞠は泰然と笑みを湛えたまま、次の請い声を喉から発した。
「ありっ」
突っ込んできた有路寧々の身体。
その右脚の角度を見切り、菊鞠は空間でボールの軌道をミリ単位でコントロールした。
有路寧々の右脚のインサイドに球体を当て、心地よいバウンドで味方のあやめへと繋ぐ――そのための、精緻に計算された様式美。
だが。
「――そこよ、寧々」
最後方から海沙悠理の冷徹な声が響いた、その刹那。
「――ごめんあそばせ」
有路寧々は、不敵に唇の端を吊り上げ、驚くほど滑らかなモーションで動いた。
菊鞠の狙い通りに差し出されるはずだった自身の『右脚』の前に、クラブの女王の名を戴くにふさわしい無機質な美しさをもって、軸足になるべきはずの『左脚』を猛然と滑り込ませ、完全に入れ替えたのだ。
鋭く研ぎ澄まされたポイントがピッチの青黒い芝生を容赦なく抉り、夜気に鋭い摩擦音を撒き散らす。それこそが、王国のデータが弾き出した、異端のステップを封殺するための絶対の『迎撃角』だった。
「えっ……!?」
菊鞠の瞳が、驚愕で大きく見開かれる。
本来ならば、有路の右脚のインサイドに正確に衝突して手前に弾むはずだったボール。
しかし、そのバウンドの直前、目の前に割り込んできたのは、想定外の角度で美しく固定された有路の「左脚の甲」だった。
――バチィィッ!!!
カクテル光線の下、歪な衝突音が夜のピッチに炸裂した。
それは、これまで誰にも触れさせず、誰よりも優雅に中盤を支配してきた菊鞠の『旋律』が、彼女のすぐ目の前で力尽くで引きちぎられた瞬間だった。
完璧にコントロールされていたはずの球体が、非情な壁に叩き落とされる。
衝突面の角度、そしてボールに加わるスピンのベクターが、物理演算の如く強制的に書き換えられる。
菊鞠が紡いできた空中戦の旋律は、神園の気高き女王の肉体システムによって完全に「逆ハック」され、ボールは八々花の誰もいない不気味なスペースへと、無慈悲に弾き出された。
「うそ、ガチ……!? ひまりっちの、あのステップが……っ」
八々花のベンチ裏、まつりがスマホを構えたまま、息が止まったように絶句する。
その隣で、カスミがカタカタとノートPCのキーボードを叩く指を完全に止め、血の気が引いた顔でピッチの光景を凝視していた。
「これが、《絶対王者》神園学園の実力ってことなん……」
ベンチ裏に走る、言い知れぬ戦慄。
「手札が開示されている以上、そのバウンドの規律はすべて私たちの支配下よ」
弾き出されたルーズボールの落下点。
そこへ滑り込んできたのは、ハートのK――茉優・シャロンだった。
シャロンは極上のトラップで空中からボールを地上へと引きずり下ろすと、八々花の陣形の歪みを嘲笑うかのような酷く優美な笑みを、中盤のあやめや牡丹へと向けた。
「さあ、私たちの美しい覇道の続きを始めましょうか」
神園学園の二次攻撃。
完璧に解析されたデータを前に、八々花の中盤が王国の底知れぬ「規律」に侵食されていく。
スタジアムの時計が前半の5分を回ろうとする中、カクテル光線の下で、再び不穏な死神の残響が八々花のゴールマウスへと迫ろうとしていた――。
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。
さて、菊鞠が「第三の脚」として、味方や対戦相手の右脚をハックしてバウンドさせるテクニック。
それに対して、一文字学園や神園学園がこれを打ち破るなら……と思って描いていた、攻略パターンの一つでした。
これは、菊鞠がこのテクニックを思いついて練習に組み込む段階から、何パターンか考えていたものですが、ようやくそれを使うことが出来て感無量です。
さて、彼女の決め技が封じられたいま。
八々花女子高校サッカー部は、未曾有のピンチに陥ります。
どうなってしまうのでしょうか――!?
「シャロン様の指揮者としての圧倒的強者感、最凶すぎて鳥肌立った」
「『第三の脚』を肉体の規律だけで逆ハックする神園のシステム精度エグい」
「この絶望からどうやって巻き返すんだ!? 次回が待ちきれない!」
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