「ちょ、待って、待ちなさいよアテナ! まだレスバは終わってないわよぉ!」
苫小牧の夜は、八月のそれとは思えないほどに鋭く冷えていた。
ビジネスホテルの三階、薄暗い廊下の突き当たりにある自販機コーナー。
蛍光灯の青白い光が、リノリウムの床に心細い影を落としている。
千鶴はジャージのポケットに両手を突っ込んだまま、アクリル越しに照らされた見本缶を眺めていた。
『無糖珈琲』の文字。
指先でボタンを押し込むと、ガコン、と重苦しい金属音が静寂を噛み砕く。
取り出し口から拾い上げた缶は、心地よい熱を帯びていた。
手のひらに伝わる温もりだけが、決戦を明日に控えて爆ぜそうな心臓を、辛うじて宥めてくれる。
「あら、元神園の《神盾》さん。緊張で眠れないのかしら? かっわいー」
背後からかけられた声は、鈴の音のように軽薄で、どこか芝居がかっていた。
千鶴は振り返らない。
缶のプルタブを静かに引き絞る。プシュ、と短い排気音が響いた。
その音を合図に、二つの足音が青白い光の中に踏み込んでくる。
「明日の決勝戦を前に、手札の少なさに絶望して夜更かしですの? でも、肝心の元ファンタジスタさんは、どこかしら? 試合には出ないで観光でも楽しんでるのかしらね?」
ふふん、と鼻を鳴らして胸を張るのは、剣崎英子――いや、アリス。
桐子が去った後の神園学園で十番を背負う、自称・神園の『主役』。
その小柄な身体から放たれるのは、獲物の喉笛をいつでも引き千切ろうとする若き猛獣の飢餓感と、隠しきれないコンプレックスだった。
千鶴がアリスの背後に佇む大柄な人影――現《神盾》原アテナへと視線を走らせた、その時。
「当人のいないところで陰口とは、英子、お主も悪よのぅ」
薄暗い廊下の奥から、呆れたような、しかしどこか楽しげな声が響いた。
「っ……!」
アリスの身体が、弾かれたように硬直した。
ゆっくりと歩み出てきたのは、肩に八々花のジャージを羽織った桐子だった。
故障を抱えているとは思えないほどに凛とした立ち姿。
その伝説のファンタジスタの登場に、これまで無言を貫いていた原アテナの瞳が、初めて微かに細められた。
「桐子!? お前、ここは冷える。早く部屋に戻って休め」
千鶴は思わず一歩前に出ながら、鋭い声を上げた。明日の決戦、たった5分しかピッチに立てない親友の身体を思えば、当然の焦りだった。だが、桐子はそんな守護神の心配を軽やかに受け流す。
「あら? こんな熱い盤外戦、どこが冷えてるっての? アタシも混ぜてよ」
桐子は不敵に唇の端を吊り上げ、アリスの正面へと歩み寄る。新旧の十番が、至近距離で視線を交錯させた。
アリスは顔を真っ赤に染め、今にも噛み付きそうな勢いで声を荒らげる。
「キ、キリコ……! 私はアリスよ! 私が神園の『主役』として世界を美しく規律して、明日は貴女たちをワンターンキルして差し上げるわ!」
必死に威厳を保とうと声を張り上げるアリス。
だが、その安っぽい煽りを完全に切り捨てて、千鶴は珈琲缶を片手に冷徹な声を落とした。
「盤外戦まで仕掛けないといけないとは、神園もよほど余裕がないと見えるな」
「私たちは追う側だ。失うものなど何もない。だが、お前たちは違う。神園の看板、連覇の重圧、そして……かつて神園を捨てた私たちが、決勝の舞台まで這い上がってきたという事実。怯えているのは、どちらだ?」
最高に不敵な10割カウンターが、アリスの胸元へ容赦なく突き刺さる。
アリスは「な、なによぉー! 明日は絶対に目にもの見せて――」と顔をクシャッと歪めて言い返そうとしたが、それを遮るように、す、と原アテナの手がその肩に置かれた。
それだけで、アリスの動きがピタリと凍りつく。
「……アテナ」
アテナはアリスを下がらせるように一歩前へ出ると、千鶴と、そして桐子の正面に立った。
一言も発しない。
神園学園のフロントジッパーを上まで閉めたアテナの彫刻のような佇まいは、アリスの騒がしい煽りなど一瞬で無に帰すほどの、本物の《神盾》のオーラを放っていた。
その深く澄んだ双眸が、八々花の守護神とファンタジスタを同時に射抜き、値踏みするように据えられる。
ジー、と蛍光灯の唸りだけが響く空間。
新旧の《神盾》、傷を持つ元エースと現10番。彼女たちの放つ眼光が、空気そのものを爆縮させるかのように極限までせめぎ合う。
見えない火花が散った、次の瞬間。
原アテナは、ふっと張り詰めた頬を緩め、静かに視線を逸らした。
「明日はお互い、悔いのない試合にしましょう、ね」
それだけを言い残し、アテナは流れるような動作で踵を返した。張り詰めていた絶対防壁のオーラが、嘘のように柔らかな夜の空気に溶けていく。
置いてきぼりを食らったのはアリスだった。カチコチに固まっていた身体を弾かれたように震わせ、大慌てでその背中を追いかける。
「ちょ、待って、待ちなさいよアテナ! まだレスバは終わってないわよぉ!」
「何か言い返せば勝ち、なんてのは、レスバでは必敗よ、アリスちゃん。明日の試合では勝ちましょうね」
「レスバでも負けてないわよぉ!」
バタバタと騒がしい足音が、薄暗い廊下のカーペットに吸い込まれて遠ざかっていく。
王者の風格を見せつけた現守護神と、どこまでも空回りし続ける新10番の背中を見送りながら、千鶴は小さく息を吐き、手の中の珈琲を最後の一口まで飲み干した。
「……嵐みたいな奴らだったな」
「あはは、相変わらずで安心したよ。特に英子は、アタシの幻影を追いかけて勝手に自滅してくれそうだ」
クスクスと喉を鳴らす桐子に、千鶴は空き缶をクズ入れに放り込みながら、再び厳しい視線を向ける。
「笑い事じゃない。英子の言葉通り、神園は最初から殺す気で来るぞ。お前のその足で、本当に大丈夫なんだろうな」
千鶴の低い声に含まれた、痛いほどの過保護。
桐子は一瞬だけ自分の右膝を見下ろし、それから悪戯っぽく、しかし最高に不敵な笑みを千鶴に返した。
「大丈夫に決まってるでしょ。アタシがピッチに立てる『最高の5分』を、千鶴たちが繋いでくれるんだから」
その絶対的な信頼に、千鶴はフッと鼻を鳴らす。もうそれ以上、無粋な心配を口にするような真似はしなかった。
「……早く寝ろ。身体を冷やすなよ」
「はーい、お母さん。明日、絶対にあの盾をブチ壊そう」
その言葉に、千鶴はふいと視線を逸らし、小さく息を吐いた。
「俺はお前のお母さんじゃない。……心配させるな、まったく」
「あはは、ごめんごめん。……でも、本当に。明日、絶対にあの盾をブチ壊そうね」
「ああ。俺たちのサッカーで、日本一になる」
二人は小さく拳を合わせ、それぞれの部屋へと歩き出した。
残された自販機コーナーには、再び静寂が戻ってくる。
だが、肌を刺す苫小牧の冷たい夜気は、すでに明日の爆発的な熱戦の予感にじっとりと震えていた。
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。
決勝戦前夜のインターミッションということで、既に作中で何度かやり合っている鳳桐子と剣崎英子、そして松明千鶴と原アテナが、ピッチ外でバチバチに火花を散らすシーンをお届けしました!
ちなみに、神園学園の選手陣の設定を見直していたら、とんでもないミスに気付きました!
神崎英子ではなく、剣崎英子でした!!
インターハイの全国大会が始まってから、名前が入れ替わっていることに気付かないまま書いてました!
前のページの部分はしれっとステルス修正していますが、ここで改めて、謝罪します。
本当は決勝前の盤外戦ということで、他のキャラクターも色々と絡めて目新しさを出したかったのですけれどね、なかなか全員に見せ場を作るのは難しいもので……脳内シミュレーションを繰り返した結果、今回はこの新旧の因縁コンビに全力でスポットライトを浴びせる形になりました。
さて、読者の皆様も気になっているであろう鳳桐子ですが、実は全国大会に入ってからまだ一度もピッチに立てていません(未出場状態です)。
「5分間の奇跡」というあまりにも重い制約に加え、一度使ってしまえばその後の試合でも必ずしもピッチに立てる保証はないという爆弾を抱えている状態。
天堂監督も「ここぞという最高の一瞬」のために温存している真っ最中ですが……それ以上に、作者である僕自身が彼女をどこで投入すべきか、最高のカタルシスを求めて一番出しあぐねいています(笑)。
そして、「あれ? そういえば一年生の萩原赤音ちゃんや菖蒲田青衣ちゃんはどうしたの?」と思われた画面の前の皆様。……大変申し訳ありません、これは完全に僕のキャラクターコントロールの力量不足です! 決勝戦という大舞台の熱量に僕の筆が引っ張られ、なかなか新世代の彼女たちを割り込ませる隙間が見つけられずにおります。彼女たちの活躍を期待してくださっている方、いましばらくお待ちいただけますと幸いです……!
「アリス、レスバ弱そうで草」
「アリスちゃんって転がしてる原アテナの圧倒的強者感、最高!」
「ぶっきらぼうだけど桐子のお母さん(過保護)やってる千鶴、好き」
と思っていただけましたら、ぜひページ最下部にある【☆☆☆☆☆(星ボタン)】や【ブックマーク】をポチッと押して応援していただけると、いよいよ幕を開ける決勝戦(第158話〜)への執筆の大きな大きな励みになります!どうぞよろしくお願いいたします!




