「さすがひまりっち、ウチらに出来ない事を平然とやってのけるッ。そこにシビれる、憧れるゥ」
前半戦終了のホイッスルと同時に、スタジアムの喧騒から逃れるようにして滑り込んだロッカールーム。
外気の涼しさとは裏腹に、熱気が籠もる部屋の中で、選手たちは一様に荒い息を吐きながらベンチへと崩れ落ちていた。
開始わずか45分。
しかし、コンマ数秒単位の予測で襲いかかってくる梅原商業の絶対カウンターと、それに即座に仕様変更してくる組織的なプレッシングの防波堤となり続けたディフェンス陣の肉体と脳への負荷は、すでに限界値を叩き出そうとしていた。
「皆、よく耐えたわね。──でも、向こうの学習はここまでよ」
カチリ、と硬質な音を立てて、天堂監督が不敵な笑みを浮かべながらホワイトボードを叩いた。
前半の終盤に梅原商業が仕掛けてきた、影の着地点を狙う守備陣形のデータを冷徹に映し出す。
「後半は、空中庭園の高度を極限まで下げるわよ」
「高度を下げる、ですか……?」
汗を拭いながら、牡丹が不思議そうに首を傾げた。
ボールを地面に落とさないからこそ、地上のコンマ数秒の予測を無力化できる。
それが『空中庭園』の大前提だったはずだ。
高度を下げてしまえば、それは梅原商業の最も得意とする地上の迎撃網の中に、自ら飛び込むことになりはしないか。
「向こうの梅原監督は、私たちがボールを高く浮かせてくる前提で、地上の影の着地点を潰しにきているわ。彼女たちの予測の網は、すでに上空へと完全に釣り上がっている。──だったら、その網の目を、地表スレスレでくぐり抜けるのよ。神酒盃」
「はい」
最奥の席で、菊鞠が凛とした佇まいのまま静かに顔を上げた。
「バウンドなんて器用な真似、あなたにはできないんでしょうから。グラウンダーまがいの、超低空ロブパスを見せてみなさい」
監督の、しかし絶対の信頼がこもった指示だった。
それを聞いた瞬間、菊鞠の隣に座っていた藤乃が、ユニフォームの襟元を掴んだまま勢いよく立ち上がった。
「ちょい待ちぃや監督! 不器用な人間にそんな曲芸みたいな真似できるわけないやろ!!」
常識的なセオリーから外れすぎた作戦に、藤乃の魂のツッコミがロッカールームに響き渡る。
地表数センチを、ノーバウンドのダイレクトパスで繋ぎ続ける。
そんなものは、ただでさえ繊細な浮き球のコントロールを、実戦の極限のスピードの中で正確に制御しろと言っているに等しい。
狂気の沙汰だ。
だが、ツッコミを浴びた当の本人は、表情ひとつ変えず、至極当たり前の事実を口にするように淡々と言ってのけた。
「……? バウンドさせるよりも、そっちのほうが簡単で楽ですが」
「──えっ? ……えぇ……?」
あまりにも迷いのない、曇りなき菊鞠の返答。
藤乃は突き上げた右手をぶらりと降ろし、両手で自身の頭を抱えながら、困惑に目を泳がせた。
(嘘やろ……? 地面で跳ねるボールをコントロールする方が絶対に楽なはずやん。何が簡単って……え、待って、自分のサッカーの常識、もしかして最初から間違っとったんやろか……!?)
蹴鞠の世界に生きる天才と、近代サッカーのセオリーで生きてきた常識人の決定的な断絶。
本気で脳内がバグり始め、混乱の極みに達してぶつぶつと独り言を呟き始める藤乃の不憫で愛らしい姿に、ロッカールームの重苦しい緊迫感が一気に八々花らしい日常の温度へと調律されていく。
「決まりね」
天堂監督の唇が、不敵な勝負師の弧を描く。
「後半、梅原のデータが上空へ完全に釣り上がったその瞬間を狙って、地表数センチの空中庭園でハメ返すわよ。──戦闘服の汗を拭いなさい。私たちのターンを始めるわよ」
知将の仕掛けた、予測の裏の裏をかく真の戦術。
常識を書き換えられた八々花の闘志は、ハーフタイムの冷気の中で、再び静かに、しかし凄まじい熱量で点火されようとしていた。
◇
──ピッ、ピーーーーーーッ!!
ハーフタイムの終了を告げるホイッスル。
再び足を踏み入れたピッチには、真夏の北海道ならではの、どこかひんやりとした夜の涼風が心地よく吹き抜けていた。
北の大地の冷気が、激戦を経た選手たちの火照った肉体を心地よく引き締め、その瞳の奥にある闘志をさらに鮮烈に浮かび上がらせる。
後半戦は、梅原商業のキックオフ。
主審の合図と同時に、前線の春乃うららと八代舞海が滑らかにボールを動かす。
梅原商業の陣形は、前半の終盤に仕様変更した「浮かせてくる浮き球の影を完璧に無力化する」ための鉄壁の布陣。
彼女たちの予測の網は、すでに上空へと完全に釣り上がった状態で圧をかけてきた。
だが、その強固な包囲網の隙を突き、中盤の底で鋭く動いたのはボランチのあやめだった。
あやめが正確な戦術眼で梅原商業の縦パスを鮮やかにインターセプトし、すぐさま隣に佇む菊鞠へとボールが渡る。
その瞬間、梅原商業のディフェンス陣が一斉に菊鞠へと殺到した。
有楠姉妹も誉田明日香も、前半のデータから「菊鞠は必ず高く美しいロブパスを放ってくる」と確信し、その滞空時間をコンマ数秒単位で逆算して、予測守備の迎撃体勢を完璧に整えていた。
梅原商業の予測が、完全に上空へと釣り上がった、まさにその極限の刹那。
「ありっ」
菊鞠の右足が、淡々と振り抜かれた。
しかし、その足の甲から放たれたのは、夜空へ舞い上がる美しい放物線などでは断じてなかった。
ひんやりとした夜の空気を切り裂いたのは、地面からわずか数センチ、芝生の先端をかすめるような、グラウンダーまがいの超低空ロブパス。
白黒の球体は、ピッチの床に一度としてバウンド(接触)することなく、文字通り地表スレスレの空中を、弾丸のような速度で一直線に突き抜けたのだ。
「──っ、何という低さ(フレーム)ですの……っ!?」
完璧な『絶対対空』のポジショニングをとっていた守護神の金王美輪の網膜が、驚愕に引き裂かれる。高く釣り上がっていた梅原の予測の網の「真下」を、その超低空パスが完璧にハメ殺す形で、綺麗にくぐり抜けていく。
バウンドさせるよりも、そっちの方が簡単で楽。
菊鞠がロッカールームで言い放った異次元のお作法が、一切の嘘偽りなくピッチ上で完全に可視化された瞬間だった。
「さすがひまりっち、ウチらに出来ない事を平然とやってのけるッ。そこにシビれる、憧れるゥ」
中盤の連携をベンチで管理しながら、その変態的な弾道を目の当たりにしたマネージャーの種村カスミが、口元のチャッパチュプスを揺らしながらオタク特有の限界突破したリスペクトを絶叫する。
データ予測の裏の裏をかかれ、完全に硬直させられた梅原商業のディフェンスライン。
その釣り上がった網の真下をノーバウンドで突き抜けた超低空パスの先には、すでに爆速のスプリントを開始していた椛の足元が、寸分の狂いもなく待ち構えていた。
「──反撃、開始だ」
椛がその麗しい肉体でボールをノーバウンドのまま受け止め、深紅のゴールマウスへと突進する。
地表数センチの『空中庭園』が梅原商業の要塞を完全に破壊し、濃緑の逆襲の咆哮が、スタジアムの大歓声を一瞬にして置き去りにしていった
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。
さて、この第154話では、菊鞠が初めて超低空のロブパスという技を見せます。
バウンドするボールを厭って高く上げるプレイばかりをしてきた彼女ですが、「バウンドさせない」という前提のために、超低空ロブパスという離れ業です。
そりゃ、藤乃も頭抱えますし、カスミもシビれて憧れるってものですよねぇ旦那!
データ予測のさらに裏の裏をかかれ、お嬢様守護神・美輪さんの『絶対対空』の真下を完璧にくぐり抜けた八々花の『空中庭園』。
超低空パスをノーバウンドで受け止めた椛さんが、ついに深紅のゴールマウスへと反撃の牙を剥きます。
「ボールは上がってナンボ!藤乃よ泣くなw」
「カスミ、ズキュウウウウウウン!!」
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