「鞠を落とさない型(お作法)は、もう千年以上も前から完成していますから」
ホワイトボードに叩きつけられる、吸盤付きの赤いマグネット。
乾いたプラスチックの音が、夜のミーティングルームに重く響いた。
「──結論から言うわ。次の相手、梅原商業の基本戦術は『完全なる時間と空間の支配』よ」
天堂監督の冷徹な声が、プロジェクターのファンの風音を切り裂く。
スクリーンに映し出されているのは、準決勝の対戦相手である梅原商業高校の、過去数試合におよぶ詳細なトラッキングデータだった。
走行距離やパス成功率といった生ぬるい指標ではない。
画面を埋め尽くしているのは、選手たちの「ボディシェイプの角度」と「コンタクト時における重心の優位性」をコンマ数秒単位で数値化した、狂気的なまでの解析結果である。
「コンマ数秒の、単位……?」
最前列でノートを広げていた萩子が、早くも眉間に深いシワを刻んで呻いた。
シャーペンを握る手の指先が、その数字の暴力にわずかに震えている。
「……やっべぇ、ナニ言ってんのか、さっぱりわかんねぇ!」
「正確、というよりは最適化なんよ」
その隣で、口元に固定されたチャッパチュプスの棒を小さく転がしながら、カスミがノートパソコンの画面から目を離さずに言った。
「彼女たちの守備には、一切の『迷い(ラグ)』がない。相手が右足を踏み込んだ瞬間、その軸足の角度から次のキックフェイントを完全に予測して、最短のステップでコースを塞いでくる」
カスミは手元のキーボードを叩き、プロジェクターの画面を次のシーケンスへと進めた。カチリ、と硬い無機質な音が響く。
「──まるで、こちらの意図をすべて先読みして動いているような不気味さがあるんよ」
「意図、というよりは視線や筋肉の収縮の予測、ですけどね」
桜は腕を組み、脳内で激しくデータを処理していた。
脳内を過るのは、甘美な勝利の絵図面──ではなく、むしろその真逆。
一歩でも間合いを誤れば、一瞬で奈落まで叩き落とされる極限のひりつきだ。
(待って、これ要するに『全対応のハメ殺し』!? 隙を突いた瞬間に軸足を崩されて確定反撃喰らうやつじゃん……! ──はい、桜の死亡が確定いたしました)
「特に警戒すべきは、前線の春乃うららを起点とした、縦への超最速カウンター。彼女たちの時間管理が完璧に噛み合った時、こちらの守備陣形は完全に無力化され、確実にゴールを奪いに来るわ」
──完全に無力化。
すなわち、発動した時点で失点が約束される、無慈悲な即死コンボの確定演出。
天堂監督の淡々とした宣告の重みに、ミーティングルームの空気が完全に氷結する。
だが。
しんと静まり返る部屋の中で、選手たちの瞳に、絶望の色は一切なかった。
それどころか、彼女たちの網膜の奥には、今まさに監督が説明した「脅威」の正体が、鮮烈な残像となってフラッシュバックしていたのだ。
(──コンタクトの瞬間の、重心の優位性)
桐子は、隣に座る千鶴と視線を交わし、小さく息を吐いた。
脳裏に蘇るのは、ほんの数時間前。
夕暮れに染まる宿舎の裏庭。
白と黒の硬質なサッカーボールを挟んで対峙した、あの縦ロールの少女の肉体だ。
即興で始まったパスゲーム。
金王美輪のボールコントロールと位置取り(ポジショニング)は、上品なお嬢様という外見からは想像もつかないほど、硬質で、あるいは理不尽だった。
決して、ガツガツとボールを奪いにくるような野蛮な真似はしない。
ただの美しいパスの出し合い。
それなのに、桐子がキックモーションに入るその最初のコンマ数秒──右膝がわずかに上がった瞬間には、すでに美輪の身体は、桐子が最もパスを出しやすい、そして美輪自身が次へのリターンを最小の動作で行える完璧なスペースへと、移動を完了させていたのだ。
(あれは、天性の勘じゃない。こちらの視線や体の向きから、次に放たれるパスの軌道をコンマ数秒単位で予測し、自分が『最も有利な体勢』でトラップできる位置をあらかじめ占拠している。だから、彼女を経由したパス回しは、すべてのテンポが梅原商業の時間に強制同期させられる──)
奪い合いではない。ただのパス交換。
それだけで、こちらの「次の一歩」まで完全にコントロールされているかのような、底知れない支配力。その極限まで低い重心と、ミリ単位でブレない優雅な佇まいを思い出し、桐子の背中にゾクゾクとした心地よい悪寒が走る。
「うららさんのステップも、データ通りだったんよ」
カスミがぽつりと言った。
昼間、ハスカップジャムで口元をベタベタにしながら笑っていた、あの天真爛漫な野生児。
裏庭の芝生の上で、彼女が最初の一歩を踏み出した瞬間、その場にいた全員の時間が止まった。
通常の選手であれば必ず存在するはずの、予備動作としての「沈み込み」や「予備ステップ」が、春乃うららには文字通り、一瞬たりとも存在しなかった。
トップスピードへの移行が完全に「0秒」。まるで空間をワープしたかのような錯覚を覚えるほどの、野生の爆発力。
「あの一歩は、理屈じゃないね」
椛が、麗しい前髪を指先で払いながら、優雅な笑みを唇に浮かべる。
セカンドトップとしての本能が、紙の上のデータではなく、裏庭で体感した「本物の怪物」の気配に歓喜していた。
「データは冷徹だけど、私たちの体はもっと直感的に、あの強さを覚えている。──ねえ、菊鞠ちゃん?」
あやめに名前を呼ばれ、最奥の席に座っていた菊鞠は、ゆっくりと自身の右足を見つめた。
世界の雑音を寄せ付けない、凛とした静寂が彼女の周りにだけ満ちている。
「どれほど時間を細かく刻まれても、やるべきことは変わりません」
菊鞠は静かに顔を上げ、天堂監督を真っ直ぐに見据えた。
「鞠を落とさない型(お作法)は、もう千年以上も前から完成していますから」
その瞳には、すでに敵のすべての動きを脳内でシミュレートし、それを「いなす」ためのイメージが完璧に確立されている。
「お見事。言うようになったじゃない」
天堂監督の唇が、不敵な弧を描いた。
カチリ。
リモコンのボタンが押され、プロジェクターの画面が切り替わる。
映し出されたのは、梅原商業の守備陣形を完全に無力化するための、あまりにも歪で、あまりにも八々花らしい「奇策」の陣形図だった。
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。
夕方のパスゲームシーンをあえて描写せず、夜のミーティングへと物語を移しました。
あの贅沢な時間の答え合わせが、監督の冷徹なデータによって紐解かれるゾクゾク感を楽しんでいただけていれば幸いです。
春乃うららちゃん、前話ではハスカップジャムをベタベタにつけていた天真爛漫な野生児ですが、よくよく考えると彼女のルーツはあの「世界一有名な最強の中国人格闘娘」でもあります。
ピッチ上では、まるで百裂脚のような超高速の連続ステップや、回転的鶴脚蹴を彷彿とさせるアクロバティックなボレーシュートなんかをブチ込んでくるんですかね……?
対する金王美輪さんも、気高きお嬢様でありながら、あの「ムエタイを操る男装の麗人」の如き、ミラージュダンスのような幻惑のステップや、強烈なスライディング(トラップショット)を繰り出してくるのか。
八々花女子が挑む、格ゲの神が作り出した「ミリ秒の要塞」。
次話から、いよいよ準決勝の火蓋が切って落とされます。
伝統の型が勝つか、科学のハメ手が勝つか。ぜひお楽しみに!
「そういえば、格ゲーチームだったっけな。馬チームかと勘違いしかけてたわw」
「え、スピニングバードキック、やんの?」
「金王美輪、めちゃくちゃサッカーに合いそうだ」
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