「当日はわたくし、三芳野があやめさんをお迎えに、京都まで参ります」
「お引き取りください、菊鞠さん。これ以上、我が家の玄関先で騒がれるようでしたら、警察を呼ばざるを得ません」
耳の奥で、あの冷徹な氷のような声がリフレインする。
伝統の重圧を纏い、家の中に一歩も入れさせないという無慈悲な門前払い。警察、という大人の社会の言葉を前に、菊鞠は悔しげに拳を握りしめ、八々花イレブンの誰もが言葉を失っていた。
高校生たちの熱意だけでは、この大人の絶対防壁の前に、重厚な扉一枚すら突破できない。
圧倒的な敗色濃厚。張り詰めた『完全な静寂』が支配する八橋家の庭園に、重苦しい諦念が白く染み渡ろうとした、まさにその時だった。
「──あら、随分とクラシカルで融通の利かないディフェンスラインを敷いていらっしゃること。八橋家ほどの格式あるお方が、玄関先で警察などと、それこそご近所の評判に関わりますわよ?」
カツン──。
ただ一音。されど、世界を支配していた静寂を強制終了させるには、それで十分だった。
八橋家の張り詰めた空気をヒビ割らせながら、小気味よいローファーの硬い音が、新風のごとく吹き抜ける。
「牡丹さん!?」
菊鞠が驚愕に目を見張る。
黒塗りの門をくぐり、庭の飛び石を優雅に渡ってきたのは、高級ブランドの気品をこれでもかと纏った縦ロールのお嬢様──蝶名林牡丹。
だが、イレブンをさらに驚愕させたのは、その隣に立つ影だった。
いつもなら「置いてかないでぇ〜!」と泣きついているはずの、あのポンコツ教師。それがどうだ。今はスーツの襟をビシッと正し、漆黒の瞳に冷徹な『大人の貌』を宿した顧問・三芳野咲桜里が、そこに凛と並び立っていた。
絶体絶命のピッチに遅れて現れた、ぶっつけ本番の「臨時急造・インテリゲームメイカーコンビ」。
牡丹は燕の前に立つと、流れるような動作で小笠原流礼法に則った美しい立礼を捧げた。
上体の傾きに吸い込まれるように、指先がすっと膝へと滑る。
息を吸いながら倒れ、一瞬の残心を残して吸い上げる──お箏の家元である燕の土俵で、非の打ち所がない『和の所作』を完璧にトレースしてみせたのだ。
「突然の非礼をお許しください、八橋様。蝶名林が娘、牡丹にございます。あまりに急な家庭訪問でしたので、こちらで『大人の盤面』を綺麗に調律してから参りましたの。……本校の公式な顧問も同行しております。まさか、蝶名林の人間と学校の責任者を、このまま玄関先であしらうような無作法はなさいませんわよね?」
「……っ、蝶名林のお嬢様……」
燕の細い眉が、初めて屈辱そうにピクリと跳ねた。
いくら厳格な家元とはいえ、あの高級化粧品大手「Papillon et Pivoine」の社長令嬢が、非の打ち所がない『武家礼法』という絶対の正論を引っ提げて王手をかけてきたのだ。
さらにその背後には学校公式の部活責任者。
これを無慈悲に切り捨てれば、それこそ『伝統の八橋家が無作法を働いた』という致命的な汚名を背負うことになる。
大人の面子。
財界の格。
そして、完璧な作法──。
全てが幾重にも噛み合い、燕の絶対防壁に、鋭い亀裂が走った。
燕は忌々しげにかすかに目を細めると、静かに横へ一歩退いた。
「……なるほど。良い策士をお持ちのようですわね、菊鞠さん。──どうぞ、奥の和室へ。お茶くらいは淹れさせましょう」
大人のカードによって、ついにこじ開けられた絶対防壁。
通された凛とした和室──。
張り詰めた空気の中、燕が美しく正座したその刹那、牡丹がスッと三芳野の背中をエスコートした。
「さあ先生、ここからは教育者としての貴女のオンステージですわ」
「ふぇ!? ──あ、ううん! ──ゴホン!」
一瞬だけいつものポンコツが顔を覗かせる。
だが、新任教師は力強く拳を握りしめると、自らの弱気を完全に置き去りにして、正面から燕を見据えた。
「失礼いたします、八橋様。本校サッカー同好会顧問、三芳野咲桜里です。本日は顧問として──大人の理屈でお話しに参りました」
三芳野は深く、ひとつ呼吸を置く。
伝統の重圧がのしかかる静寂の中、懐から、カスミが執念で練り上げた──『分刻みの弾丸北海道移動計画書』を取り出し、すっと畳の上へ滑らせた。
無音の畳を滑り、燕の眼前へと鋭く突き刺さる白い書面。
「八橋様。今あやめさんが直面しているのは、単なる『お稽古事と部活動のスケジュール調整』などという生易しいものではございません」
三芳野の瞳から、いつもの気弱さが完全に消え去っていた。
「これは、学校教育という公のシステム。そして、八橋様が何よりも重んじる社会的信用──その双方を成立させるための『契約』のお話です」
「契約……? 随分と大層な言葉を使われますのね、先生」
燕は手元の書面に一瞥もくれず、ただ冷徹に、新任教師の『器』を測るように視線を据えた。
燕が微かに眉をひそめる。
三芳野はすっと背筋を伸ばし、スーツの襟元にそっと手をやって端正に正すと、淡々と、しかし容赦のない楔を打ち込んだ。
「あやめさんは、本校の『特別功労生徒』であり、高体連という巨大な組織に登録された公式な代表選手です。もし、あやめさんが『私的な都合』で全国大会のピッチに遅延、または欠場したとなれば、どうなるか」
「……何が言いたいのですか?」
「メディアや他校の目も集まる大舞台において、主軸が個人の事情で穴をあける。それは、本校の管理責任だけに留まる話ではない、ということです」
それは、伝統を重んじる八橋家にとって、最も恐るべき『大人のルール』の提示だった。
もし公の約束を軽んじたとなれば、八橋あやめという個人だけではない。
彼女の背負うお箏の流派そのものの『社会的信用』に、致命的な汚点が記録される。
相手が何よりも大切にしている看板を、逆手に取って人質に取る──。
気弱だったはずの新任教師は、どこまでも冷静に、燕の眼前へ最後の一手を突きつけた。
「伝統あるお立場だからこそ、その評判は致命傷になりかねませんが……その点への『データ分析』はお済みでしょうか?」
「っ……!」
燕の瞳が、初めて鋭く揺れた。
大人の信用や伝統の重みを誰よりも重んじる燕だからこそ、逆に「公の信用問題」という巨大な大人の理屈で、外堀を完璧に埋められたのだ。
動揺する家元を見据え、三芳野は畳の上の書面を指先でトントン、と叩いた。
「さらに、その計画書をご覧ください。発表会当日の13時ちょうどに京都を出発すれば、18時30分のナイターキックオフには完全に合法で間に合います」
「当日はわたくし三芳野が、京都の会場まであやめさんをお迎えに参ります。そこから苫小牧のスタジアムまで、責任を持ってマンツーマンで引率を務めさせていただきます」
それは、データが導き出した絶対的な勝利のルート。
「移動中の安全管理、および苫小牧スタジアムへの定刻通りの身柄確保は、引率責任者であるこの三芳野咲桜里が、学校のプライドに懸けて完全保証いたします」
三芳野はすっと上体を前に傾け、燕の冷徹な視線を正面から受け止めた。
「──これでもまだ、教育機関としての私どもを、信用していただけませんか?」
静寂が、八橋家の和室を支配した。
正論をさらに巨大な公の正論で殴り返され、信用を公的な信用で上書きされた燕。
彼女はやがて小さく、本当に小さくため息をついた。
「……そこまで学校側が責任を負うとおっしゃるなら、私がこれ以上拘束するのは『教育への不当な介入』になってしまいますわね」
燕は顔を上げ、あやめをじっと見つめた。
「あやめ。13時1分の遅れも認めません。箏曲の発表会で最高の旋律を響かせたその足で、北の大地へ飛びなさい。……ふふ、本当に三芳野先生、それに蝶名林様。貴方達といると、私の調べ(データ)が狂わされますわ」
「は、はい……! ありがとうございます、お母様!」
八々花の誇る最高の中盤の要が、ついに全国のピッチへ向けて完全に解き放たれた瞬間だった──。
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。
ひまりやイレブンたちの熱意に燕が心を打たれる──という、王道のジュブナイル的な展開も当初は考えました。
ですが、伝統と格式の絶対防壁をブチ破るには、やはり「大人の理屈」や「デュー・プロセス(適正手続き)」に則ったやり方のほうがスマートなのでは?と思い至り、今回は三芳野先生に矢面に立っていただきました。
普段はポンコツな先生が見せた、一人の教育者としての魂のゲームメイク。楽しんでいただけていれば幸いです。
先生には後で「獺祭」でも「磯自慢」でも、極上の銘酒を浴びるほど奢りますので、無茶振りしたことは許してください。
え? ロマネコンティがいい?
……てめー調子こくな?(笑)
中盤の要であるあやめを完全奪還し、次はいよいよ──北の大地、北海道でのインターハイ全国大会が開幕します!
次回の第129話も、どうぞお楽しみに!
「おう、どうした三芳野先生?」
「なにか変なもの食べた?」
「(結婚しよ)」
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