「おう。現代文はフィールドのド真ん中に落ちてる球(こたえ)を拾って押し込むだけの、ごっつぁんゴール」
部室のベンチに腰掛けた猪目萩子の目は、完全に据わっていた。いつもなら試合前に「っしゃあ、ぶち抜くぞ!」と咆哮しているときの野生の輝きが、今はなぜか、世界史と保健体育の教科書への宣戦布告に変えられている。
「じゃあ萩子さん、最終チェックいきます、ね」
センターバックの幕ノ内桜が、あまりの哀れさに目頭を熱くしながら、世界史のプリントをパシィンと叩いた。
「古代ローマ。カルタゴの将軍ハンニバルが、ローマの堅牢な包囲網を奇策で突破するためにアルプス山脈を越えた、あの歴史的遠征の名称は?」
「アルプス越え」
萩子は瞬きもせず、完全に魂の抜けた目で虚空を見つめたまま、文字通りの直球を即答した。
「ハンニバルの狙いは?」
「敵ディフェンスの裏のスペースへのロングフィード。要するに、カウンターからの縦ポン」
「……まあ、奇襲という意味では合ってる……のかな? ねえあやめちゃん、これギリギリセーフ……でいいよね?」
桜が引きつった笑みを浮かべ、隣にいるボランチの八橋あやめに視線で助けを求める。紀元前の超絶戦術すら、この野生児の脳細胞にかかればすべて脳筋サッカー用語へと強引にハッキング(強制書き換え)されてしまうのだ。
あやめは深いため息をつき、今度は保健体育の教科書を開いた。
「じゃあ次、保体いきますね。……『全力の疾走やジャンプなど、短時間に強い力を発揮する運動において、酸素を消費せずに筋肉内のグリコーゲンなどを分解してエネルギーを生み出す代謝経路』は?」
「無酸素運動。別名、アタイの左サイドのオーバーラップ」
「萩子さん、それだとテスト用紙に書いた瞬間、一発レ――じゃなくて! 部分点すら貰えずに即バツだからね。じゃあ、その無酸素運動を続けた結果、筋肉に蓄積して疲労の原因になると『昔は言われていた』物質は?」
「乳酸。溜まったら根性で散らす」
「根性は点数にならないよぅ……」
あやめの魂の抜けたツッコミが部室に虚しく響く。
学問のすべてを肉体とピッチの記憶だけで強引に書き換えていく萩子の脳内は、すでに勉強会ではなく、知性と野生が激突するサイバー戦術レースと化していた。
「時間ですね。猪目さん、現代文の必勝法――『地の文からの心情強制スクレイピング』だけは頭に叩き込んでおいてください」
生真面目さの化身である薄満月が、腕時計の文字盤を冷徹にタップしながら、勝利へのラストピースを指示する。
「おう。現代文はフィールドのド真ん中に落ちてる球を拾って押し込むだけの、ごっつぁんゴール」
「……ええ。言語道断な表現ですが、本質は合っています。最後まで集中を切らさず(マークを外さず)、ピッチ(教室)へ向かってください」
満月の理知的な(しかしどこか諦めたような)ゴーサインを受け、萩子は地響きを立てるかのようにのっそりと立ち上がった。
世界史の超高速カウンター、保体の限界突破オーバーラップ、現代文のルーズボール回収。
すべての脳内ハッキングを完了したフィジカルモンスターは、ギラリと凶悪に微笑み、運命のドアノブへと手をかける。
「アタイ、完全無敵になって戻ってくるぜ……!」
振り返ることなく、背中でバシッと力強いサムズアップを突き立て、フィジカルモンスターは教室の戦場(追試)へと出撃していった。
バタン、と静かに閉まるドア。
嵐の去った部室で、見送ったイレブンたちの間に静寂が戻る。
その重苦しい沈黙を破り、誰からともなくぽつりと呟いた。
「これ、応用問題が出たらどうしよう」
「……神に祈るしかないだろうねぇ」
桜やあやめたちの深い、深いため息がシンクロする。
あの脳筋暗記ハッキングが通用するのは、丸暗記した基本問題のルーズボールを押し込むときだけ。
少しでも応用という名の鋭いスライディングを食らった瞬間、萩子の前線離脱が確定し、鳳桐子が80分間フルスタメンという強制連行の刑に処される。
部室に漂うのは、もはや神への祈りすら無力化しかねない、リアルな絶望のカウントダウンだった。
◇
「見たかお前ら! これがアタイの高速カウンターだ!」
ドヤ顔で突きつけられた答案用紙。そこに刻まれた赤ペンの数字は、涙ぐましい『31点』。
この科目の赤点ラインは30点――まさに首の皮一枚、アディショナルタイムの猛攻を耐え抜いたウノゼロ(1-0)の完全勝利だった。
「うわ、本当にギリギリ……! よく耐えきったな、アタイたちのディフェンスライン(赤点回避)!」
キャプテンの鹿戸椛が我がことのように用紙を引っつかんで凝視し、ふと現代文の記述問題でその目を完全に釘付けにされた。
答案用紙の枠線からはみ出さんばかりの、爆発的な筆圧でこう書き殴られていたのだ。
【問四:下線部『私はただ、唇を噛み締めていた』とあるが、この時の私の心情を説明せよ】
【萩子の解答:相手の執拗なマーク(地の文の『彼は私を監視し続けていた』という記述)に対し、これ以上は自由にさせまいとカウンターのチャンスを伺い、闘志を内に秘めている状態。】
その奇妙なサッカー解説もどきの文章の横に、先生の赤ペンで『……部分点+1点。文脈(地の文)は掴めています』と困惑の注釈が添えられていた。
「満月……! お前の言った通り、落ちてる球を拾って、とにかくゴールに押し込んだ――アタイ、ごっつぁんゴールを決めたぞ……!」
感動に目を潤ませる萩子を見て、満月は微妙に頬を引きつらせ、ぎこちなく微笑んだ。
「……部分点がなければ完全に終戦でしたね。まさに泥臭く不格好なごっつぁんゴールですが、スコアボードの上では美しいシュートと同じ1点です。今回はその執念、褒めて差し上げます」
その壊滅的に逞しすぎる生存本能(執念)によって、萩子の全国遠征登録抹消という致命的なバグだけは、完全合法(奇跡の部分点)によって回避されたのだ。
「本当によかったぁ……! 桐さん、マジで命拾いしたよ……!」
「ええ……。三途の川の向こう岸で、お祖父ちゃんが手招きしてるビジョン(光景)が脳裏をよぎってたわ……」
「それ、完全に一線超えかけてるから!」
死んだ目で虚空を見つめて呟く桐子に、部室中がどっと引きつった大爆笑に包まれる。
登録抹消のバグを泥臭く完封し、これでようやく全員で全国へ行ける――そんな、これ以上ないほど温かくて愛おしい歓喜の喧騒。
だが。その熱狂の檻(外側)で、あやめだけが、青白く光るスマートフォンを静かに握りしめたまま、凍りついた声をぽつりと零した。
「……ごめんなさい、みんな。私は……やっぱり、全国のピッチには戻れない」
萩子が勝ち取った勝利の余韻は吹き飛び、部室の空気は一瞬で絶対零度へと氷結した。
驚愕に目を見開く菊鞠たちの前で、あやめが提示したのは、母親という名の最高権力者が突きつけてきた真の『戦術封鎖』の画面だった。
京都の門下生、大御所たちとの会合、連日のお茶会。
分刻みで詰め込まれたそのタイムラインは、あやめという駒をピッチから完全に隔離するための、一分の隙もない超組織的守備そのものだった。
「お母さんは、最初から分かってたの……。何かと理由を付けて私を京都に幽閉(連れ回)して……全国大会が完全に終わるまで、私をこっちに戻さないつもりなんだわ」
それは、学業と芸事の両立という綺麗事を隠れ蓑にした、実質的な『強制引退(幽閉)』の宣告だった。
全員で血の滲むような日々を積み上げてきた日常の記憶も、その果てに掴み取った全国出場の歓喜(余韻)も、自然と笑顔を浮かべ合っていたさっきまでの部室の温度すら、一瞬にして遠い世界の出来事のように冷えていく。
「私、もうみんなの元へは――」
涙を浮かべるあやめの震える言葉が、静まり返った部室の空気に、重たく、残酷な不戦敗のホイッスルとして突き刺さっていた。
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。
前回の後書きで、「現代文の攻略法は、地の文にある云々」と書きましたが、萩子はそれを「こぼれ球を押し込むだけのごっつぁんゴール」と翻訳しやがりましたよこのサッカー脳筋猪娘。
すべての設問に対し、サッカー脳で回答していく様子と、それに戸惑いを隠せないイレブンとの対比は書いていてとても楽しかったです。
そして、本当にギリッギリで赤点回避。
この辺はお約束ですよね。
よかったね桐子。
でも、ホントは試合、出たかったんだろ?
出たかったんだろ(ゲス顔)
そして、一難去ってまた一難、です。
一試合だけ出場できなければいいと思っていたあやめですが、まさかの!
さて、どうなるのやら。
作者すらも、どうなるのか不安ですよ!!
「萩子の答えの覚え方w」
「おいおい、あやめのほうもヤヴァいことになってんじゃねぇか!」
「はいはい、テンプレテンプレ」
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