変わらないものと、変わっていくもの
それは、ある夕飯時。
いつものように、二人と一匹は話に花を咲かせながら、箸を進めていた。
「それでね、誠。蘭のお兄様が、お見合いなさるんですって!お相手は隣村の方だそうよ」
にこにこと笑みを浮かべた伽耶が、湯呑みに口をつける。
「そうでしたか。上手くいくとよいですね」
誠もまた、同じように湯呑みを手に取った。
穏やかな声音。
いつもと変わらない、その横顔を眺めていたときだった。
「……ねえ、誠」
ふと、伽耶が声をかける。
「誠はしたことあるの?お見合い」
その問いを口にしながら、伽耶の胸には、ほとんど反射のようにひとつの答えが浮かんでいた。
(誠は……きっと、ないわよね)
だが。
誠の手が、湯呑みを傾けたまま、ぴたりと止まる。
(え?)
「……」
わずかな沈黙。
伽耶もまた、湯呑みを持つ手を止めた。
足元で、おこめが不思議そうに顔を上げる。
誠は、ゆっくりと湯呑みを卓に置いた。
「実は」
その声は、いつもと変わらず落ち着いていたが、
「あります。……一度だけ」
その言葉は、確かに場の空気を変えた。
それは、何年も前、二人がまだお城にいた時のこと。
元々、姫付きの教育係として優秀だと人目を引きやすい立場にあった誠のもとには、縁談が舞い込むことも少なくなかった。
やがて、若き軍師として名が知られ始めると、その数はさらに増えていった。
誠自身は、多忙を理由に、そのすべてを断り続けていた。
だが、一度だけ。
軍の上層部に頭を下げられ、気分を良くした祖父に
"見合いをしないならば家から追い出す"
そう言い渡され、無理矢理押し切られたことがあったのだ。
(幸いにも)
誠は、当時を思い出すように、ほんのわずかに視線を落とす。
(お相手の方が、こちらの事情を理解してくださる方で……)
最初から受けるつもりのない縁談。
それは、相手に対しても誠実とは言えず、ひどく気を揉んだ記憶だけが残っている。
「……と、いうわけなのです」
話し終え、誠は再び湯呑みを置いた。
ちらりと視線を上げると、伽耶は眉を寄せ、真剣な顔で何かを考え込んでいるようだった。
(隠していたわけではありませんが……他の女性との話など、良い気分はされないかもしれませんね)
小さく息を吸い、誠は口を開く。
「あの、伽耶。……わたしは――」
「誠」
遮るように名前を呼ばれ、誠は思わず背筋を伸ばした。
「……わたしだけ、なのね。したことがないの」
「……何を、でしょうか」
「お見合い」
顔を上げた伽耶は真顔だった。
怒っても、拗ねてもいない。
ただ、純粋に「初めて知った世界」を前にして、少し戸惑っている顔。
「わたし、自分が世間ずれしているのは気づいているの。まさか、こんなところまでなんて……」
(そっち……!?)
想定していなかった方向からの言葉に、誠の中で何かが音もなく崩れていく。
だが、伽耶はそんな誠の様子を気にも留めず、真っ直ぐに見つめてきた。
「わたし」
一拍、間を置いて。
「してもいいかしら。お見合い」
夕餉の片付けも終わり、いつもはくつろぐ居間で、誠と伽耶は机を挟んで向かい合っていた。
机の上にはとっておきのお菓子とお茶。
伽耶の髪には、先程までなかった髪飾りがついている。
少し緊張したような、それでいて悪戯をする前のような、わくわくとした気配を隠しきれず、きちんと正座していた。
誠もまた、背筋をいつもよりさらに伸ばし、同じように正座している。
おこめが伽耶の横でしっぽをぱたぱたと振る音が響いていた。
(わたしはなにをしているのでしょうね……)
そう思いながらも、誠は咳払いをひとつした。
「本日は、このような席を設けていただき、ありがとうございます。
陸誠と申します。よろしくお願いいたします」
深く頭を下げると、伽耶はくすりと笑い、にこりと微笑む。
「陸伽耶です。……こちらこそ、光栄です」
誠の胸が、きゅっと鳴る。
(可愛い……いえ、これはお見合い……)
誠はもう一度咳払いをした。
「ええと……ご趣味は、なんですか?」
誠の問い。
「物語の本を読むこと、かしら。最近は月を見るのも好きよ」
「……素敵ですね」
誠の声が、思わず柔らぐ。
「あなたは?」
「わたしは……野菜の育て方に凝っています。それから……」
誠はふっと笑みを浮かべる。
「最近は星空を見上げることも好みます。……妻の、影響で」
伽耶は照れたように、けれど嬉しさを隠せないようにくすっと笑った。
「……じゃあ、次は好きな色は……紺でしょう?」
「よくご存知ですね」
「当然だわ、誠は紺の服が多いもの」
「伽耶は桜色、でしょうか」
「正解よ」
二人は目を合わせ、どちらからともなく、笑みが溢れる。
「わたしたち、もうずっと一緒にいるから、今更聞くことってそうないのかもしれないわね」
伽耶は柔らかく笑い、誠も頷く。
「ねえ誠?」
ふと伽耶が身を乗り出す。
「お見合いって、どうなったら終わるの?」
「そうですね……お互い気が合いそうであれば、またお会いして、でしょうか?」
「ふうん……」
伽耶は少し考えて、それからにこりと微笑んだ。
「じゃあ」
誠を見る。
まっすぐに。
「また会いたいです。陸誠さん」
その瞬間。
誠の心臓が、どくんと強く鼓動を打った。
「わたしと、会ってくれますか?」
にこにこと微笑む妻の顔。
(この人には、かないませんね……)
誠は、頬が熱くなるのを感じながら、静かに、けれど確かに頷いた。
伽耶は湯呑みを片付けながら、思い出したように口を開く。
「それにしてもわたしって、お姫様だったというのにお見合いしたことがないなんて。余程魅力がないのね」
どこか冗談めかして、肩をすくめる。
「なんだか……恥ずかしいわ」
その言葉に、誠は一瞬だけ湯呑みを洗う手をとめた。
(あなたは、ご存知ないでしょう)
誠はそっと目を伏せる。
(わたしが、あなたに押し寄せる縁談を徹底的に吟味し、そのひとつひとつを総雅様にご報告し、その結果として、縁談に至らなかったことなど)
もちろん、それを口にするつもりなどない。
誠は湯呑みを置くと、伽耶の方へ顔を向けた。
柔らかな笑みをたたえて。
「魅力的ですよ」
あまりにも自然な声だった。
伽耶が、きょとんと目を瞬かせる。
「……え?」
誠は、視線を逸らさずに続けた。
「あなたは。昔から、ずっと」
飾りも、勢いもない。
ただ、事実を述べるように。
一瞬、伽耶の言葉が止まる。
それから、ゆっくりと頬が赤く染まり、ふいと目を泳がせ、静かに誠を見上げた。
誠は、その髪を優しく撫でた。
昔は知らなかった、距離感で。




