31.わからない
ベラドナに手ずから治療を施されたグレンは、自分の手に巻かれた包帯を見ながら、後頭部の氷嚢を片手で押さえ続ける。
その姿を見つめるベラドナと、グレンの視線はまだあってはいない。侍女が持ってきた治療に必要な道具の乗ったおぼんに視線を落とすベラドナ、一瞬遅れ、グレンの目が彼女へと向いた。
「…………もう痛みは無い?」
「はい、大丈夫ですありがとうございます」
「……もう私とは目もあわせたくない?」
「それは無いです、けど」
けど?ベラドナが顔を上げたが、今度はグレンが視線を逸らす。噛み合わない会話と、探るような、つい突き刺してしまうような言葉。
気まずげに氷嚢をずらしたグレンから再度目を逸らしたベラドナは、つい、また責めるような言葉を吐いてしまう。細い指が強く握られるのを、グレンはただ見つめているだけ。
「……三日、ここに気付くのに三日かしら、随分とかかったのね」
「いいえ、初日の昼には場所はここだと確定していました」
「その割には、付近にうちの馬車は見えなかったけれど」
「居るのを確認した時は他所の馬車を借りたので」
「…どうりで……三日間、グレンが何をしていたのか聞いても良いかしら?」
「…………………の、ことを…………」
「なんて?」
「ベラドナ様の、ことを、色々な方から、聞いてまわっていました……」
「……それはまたどうして」
「貴女のことを、僕は何も知らないからです」
グレンのハッキリとした言葉に再度顔を上げたベラドナ、彼女の表情は怒りも悲しみもなく、少しだけグレンは言葉を続けるのを躊躇った。
躊躇ったのだが、彼の唇は止まりはしなかった。
「聞いて回ったんです、皆さんに、貴女の幼少期から今の今まで、全て」
「……どうでした?私の話は」
「何も分かりませんでした」
ベラドナの目の端が弛む、諦めなのか安堵なのか、グレンにはまだ判断がつかない。まだ彼は目の前の彼女のことを何も理解出来ていない。
反対に、グレンの目は苦しげに細まっていた。ベラドナは彼がこの表情をする時は大変困っている時だと理解していた、学生時代、何度も見たから。
「幼少期に家出が一回、紫電の舞姫として国で一番の踊り手として表彰された事、それ以外、貴女のことが何も分からない」
グレンの視線が下に落ち、ベラドナは彼の見慣れた表情を懐かしむように見続ける。
「僕の一つ上の先輩で、僕が耳飾りを渡して、その時の踊りで表彰された、それ以外本当に、ベラドナ・シェードのことがなにもわからない」
膝の上で彼の手は強く握られ、反対に彼女の手は力が抜けたように解けた。
困惑と諦観、二つの視線がかち合う。
「好きな食べ物は無い、好きな音楽も無い、好きな色も、物も、趣味も、動物も、全部貴女のお兄さんも御両親も、なにも、知らなかった」
「……続けて?」
「嫌いな物も誰も知らない、食べ物は好き嫌い無いし、音楽も音が大きすぎない限りは何を流しても機嫌を悪くしない、虫も平気蛇も愛でる、魚も鳥も軟体生物だって平気だと、蜘蛛だって手のひらに乗せて外へ逃がせるとお聞きしました」
「そうね、それで?」
グレンの後頭部を押さえていた手が離れ、氷嚢が音を立てて床に落ちる。
しかし二人ともそれを気にすることなくお互いの顔を見続け、睨み合い、会話と呼ぶには殺伐としたやり取りが続く。
「唯一、ゆいいつ貴女の事で皆が口を揃えて知っていると言うのは、紫電の舞姫、それだけ」
「他人からつけられた評価だもの、当たり前よ」
「貴女のことを知っている人は口を揃えてそう言うだけで、他には……」
「他には、私に何があった?」
ベラドナの問いにグレンは息を呑んだ。黙り込み、片手を口元に当て、それでも自分の妻となった彼女からは決して視線を離さなかった。
グレンのその表情にベラドナは肩をすくめる、もう答えは分かりきっているとばかりに、それでも自分が夫にと望んだ彼から決して視線は外さない。
「…………僕のことが、好き、と」
「……ええ、ベラドナ・シェードは貴方のことが好きなの、家にいる人間が彼女のことはよく知っていると、必ず口に出すぐらいには」
椅子から立ち上がったベラドナは、汚れた衣服の裾を直し、乱れた自分の髪を手櫛で直しながら、グレンへと近づく。
彼女の動きを目で追うグレンは、ベラドナの表情が学生時代によく見たモノだと思い出すが、彼女がこの顔をする時に何を考えているのか分からない。商談よりも緊迫した空気に唾を飲み込んだ。
「私にはね、踊りと、貴方、それ以外何も無いのよ」
「そんなことありません」
「貴方よりも、自身を支える物が無いの、その二本が崩れたら私は"ベラドナ・シェード"ではいられなくなる」
「ベラドナ先輩は、学生の頃から素敵で、踊りがうまくて、皆から憧れられていて」
「でしょう?私には踊りしかないの、貴方を好きなことしか無いの、だから否定しないで」
グレンの隣に座ったベラドナは、彼が自分から逃げることを知っていた。突然隣に座った彼女から距離を取るよう逃げたグレンは、彼女が何故自分に近づいてくるのか分からない。
ベラドナは自分で手当した彼の手を取ると、警戒する犬を落ち着かせるように、優しく、丁寧に指先で撫でる。
「私を作りあげている物を、否定しないで」
想定よりも優しく触れられた手にグレンの視線が落ち、眉根を寄せ、全くと言って意味が分からないという表情を浮かべる。
ベラドナの指が絡められ、彼女の指に嵌められた、愛を誓った木製の結婚指輪が包帯の上を滑り擦る。
「商会しか無いと思っている貴方が好きよ、他にも沢山、素敵なところがあるのに、自分には何も無いと思っているグレン・リーヴズのことが好き」
「貴女には素晴らしい御友人も、求婚者も、沢山」
「私が国一の舞手だから作れた友人、国一の舞手だからされた求婚、グレン以外無いの、私には」
そんなことは。否定を孕んだ吐息だけがグレンの口から飛び出し、眼前で嬉しげに弛むベラドナの瞳に音を止められた。
絡んだ指が握られ、ベラドナの指の婚約指輪が、包帯の下のグレンの結婚指輪とぶつかり合う。
「…………やっとこっちを見てくれた」
やけに嬉しげな彼女の言葉に息を詰まらせたグレンは、握られた手を振り払うことも、近いと彼女の身体を押し退けることも出来ず、ただ茫然とベラドナの顔を見つめるだけだった。
ベラドナは彼の手を引き、自分の頬に寄せて包帯の巻かれた手に擦り寄る。髪が乱れるのも化粧が落ちるのも構わず、ただ目の前の彼を愛しげに見つめ微笑んだ。
「本日はお泊まりになりますか、旦那様、ここにはずっと前から貴方の部屋を用意していますの」
ベラドナの眼前に、グレンの手当てされていない方の手のひらが出された。
全くもって意味が分からず笑顔のまま固まるベラドナに、全くもって意味が分からないのでと真顔のままグレンが言い放つ。
「いいえ、一度情報を整理するためにこの場は持ち帰らせて頂きます」
「貴方ね、ほんとそういう所よ、そんなこと言うなら貴方の馬車に乗って私も帰りますからね、今すぐに帰る用意をなさい!!」
最善なのか最悪なのか分からない選択をしたグレン、あまりの呆れと怒りに文字通り絶叫するベラドナ。
扉の向こうで様子を伺っていた使用人達は老いも若きも全員が、それぞれのマジクソこれだからやってらんねーハイハイ撤収撤収おつかれっしたージェスチャーをしながら解散したのだった。




