28.帰らせて頂きます
日の当たる窓際、二脚の椅子の片方に座るベラドナは、この世の全てが面白くなさそうな顔で自分の爪を見ていた。
その近くに立ち尽くすグレンは、床を見て、ベラドナの顔を見て、また床を見てを繰り返す。まるで今から叱られる子供のような動きをする彼は、意を決してベラドナへと話しかけた。
「…………ベラドナ様?お向かい、座っても良いですか?」
「だめよ、私の侍女が座るところなの」
「そうですか……」
撃沈。少しだけ離れたグレンの横を、爪の手入れセットを持ってきたベラドナの侍女がすり抜ける。
机の上に用意するとベラドナの対面へと座り、手を差し出した。
「お待たせ致しましたお嬢様、爪の手入れを始めさせていただきます」
「ええ、任せるわ」
当然の如く侍女へと手を差し出すベラドナ、その様子を顔色を悪くして伺い見るグレン。二人の前で一ミリたりとも眉を動かさず、柔らかな微笑みのまま爪の手入れを始めるベラドナの侍女。
心底面白くなさげに細い指先についた桜貝色の爪を手入れされる様子を見ていたベラドナの口が開く。
「ねぇ貴女、私、結婚していますのよね?」
「はい、ご結婚されておりますお嬢様」
「私の旦那様って本当に居るのかしら」
「存在しておりますよお嬢様」
「旦那様が夜、寝室に帰って来ずもう何ヶ月経った?」
「三ヶ月経過しておりますお嬢様」
「そんなに商会の仕事が忙しいのかしら?」
「はい、お嬢様の旦那様はお仕事により睡眠時間を削られ、従業員用の仮眠室で夜を過ごされております」
「本当は私の他に、従業員の中にでも浮気相手が居るのではなくて?」
「居ません!うちの従業員達は皆」
「貴方には聞いておりませんの、黙っていてくださる?」
お前は口を挟むなと言わんばかりに冷たい声でそう言ったベラドナ。一瞥すらくれずに、興味など微塵もないと言わんばかりに、学生時代にグレンが遠くから見た紫電の舞姫に不敬を働いた者への声色に白狐商会長の足が震えた。
愛しの夫が怯える様すら興味が無いのか、反対の手を差し出したベラドナは自分に仕える侍女に対して言葉を続ける。
「……浮気相手といえば、私が二心を抱いたという話があるそうですわね」
「はい、あくまで噂として耳に入れたことがございます」
「誰が言い出したのかしらね、私、確かに地味な服装で外には出たけれど、猫としか会っていないのに」
「はい、正直わたくし共としてはどこを通ってきたかも分からない猫を撫でに行くのをおやめになっていただきたいのですが」
「いや」
「失礼いたしました」
不遜な態度を取った侍女にそれだけ返し、爪を磨かれ続けるベラドナ。次はネイルオイルが丁寧に塗られ、優しく拭き取られ始める。
ベラドナの視線が窓の外へ向けられた。雲ひとつない快晴、澄み渡った空色は出掛けるには良い日と人間達に思わせる綺麗さ。今から身一つで外に出たとしても雨一粒とて降らないだろう。
「はぁ、新婚だというのに旅行の一つも、蜜月のひとつもないだなんて、私、本当に旦那様に大事にされているのかしら?」
「わたくしにも分かりかねます」
「もういいわ、下がって頂戴な」
「畏まりましたお嬢様、それでは、失礼致します」
侍女へとひらりと片手を振ったベラドナの指先は桜の花弁を乗せたように美しく、毎日よく手入れされ、手仕事などした事がないようなシミひとつない肌。
その手に嵌められた結婚指輪から視線を外したグレンは、小さく呻くようにベラドナへと話しかけた。
「………………………ぁの、ベラドナ様」
「何かしら旦那様」
「何か、欲しい物など、ございますでしょうか」
「貴方からの愛」
グレンの喉が詰まり、ベラドナの視線が彼に向く。
「かの有名な白狐商会でも取り揃えられない品があるのね、残念、私他に欲しい物なんて無いの」
「……新しい指輪」
「要らないわ」
「宝石」
「ただの石ころじゃないの」
「食べ物」
「体型を変えたく無いの、遠慮しますわ」
「手紙」
「お口で話してくださらないのね、御手紙の主の方は、恥ずかしがり屋なのかしら」
「…………ベラドナ先輩」
「なに、グレン」
「すみませんでした」
「中身の無い謝罪も私、要らなくてよ」
グレンの手が拳を作ったことを視界にとらえたベラドナは、一度だけ彼の顔を見て、気怠そうに机へと片肘をついた。
髪が溢れ落ち、陽の光にあたって煌めく。挑発的な視線と怒りを孕んだ視線が絡み、片方が緩んだ、心底面白いと思っている表情。グレンは思った、心底面倒臭い女だと。
「……………………面倒臭い女、と、思っている顔」
「いいえまったくそんなこと」
「貴方、学生の頃から顔に出す癖が変わっていないのね、致命傷にならない事をお祈りします」
「先輩」
「私のこと、好き?嫌い?それとも、関心が無い?」
ベラドナの指先が伸ばされグレンの頬に当てられる、先程まで怒りと面倒臭いと喚いていた視線が、ベラドナの前で焦りに、不安に、動揺に変わる。
頬から顎、顎から首、喉元によく手入れされた爪が突きつけられ、グレンの喉仏は大きく上下に動く。
「…………沈黙は金というけれど、愚者の金に成らぬよう用心しなさいな」
読めない。グレンは目の前にいる女の感情がどうにも分からなかった、次に何をしてくるかも、次の瞬間何に怒り、悲しみ、失望するかも、何も分からない。
だからこの先輩は苦手なんだ。媚びるように笑顔を作り、自分の喉を触るベラドナの手首を取る、細い、しかしこの手には勝てない。ナイフでも突きつけられたような緊張感に彼の喉は引き攣り始める。
「な…何をしたら、許してくれますか」
「…………貴方の怯えた顔、久しぶりに見たわ、耳飾りを譲って頂いた翌日みたい、懐かしい……」
「なんでもします、なんでもしますから、どうか、離縁だけは」
「グレンが一番恐れていることは、私との離縁では無いでしょう?私の興味が無くなることでも、私の愛がすり減り切る事でも、ない」
「そんなことは」
「貴方が一番怖いことは白狐の毛皮を剥がされること、それ以外に無いでしょう」
商会に手を出すのか。グレンの目が一瞬怒りだけをベラドナに向け、瞬時に悪手だと判断し、自己嫌悪を始める。
その感情の機微すら気に入らないのか、椅子から立ち上がったベラドナは自分の手首からグレンの手を外し、両手で彼の頬を包み込む。
「……たかを括っていましたわ、私、己がこの国で一番の舞姫だと持て囃されて、貴方だって結局は男、側に居れば気も変わると思っておりました」
「………………………ぁ」
「髪も、顔も、身体も、見目はあの娘よりもずっと上と、他の男からの嫉妬に羨望、他の女からの所望と歓声、貴方とて一人の人間、容易く心も身体も溶かすと思っていた」
「べ、らどな、さま」
微かに花の香りがするネイルオイル、つけられた十の爪が頬から耳、後頭部、頸と動き、細く柔らかな指が十本、首へと絡む。
眼前には感情すら抜け落ちた紫電の舞姫の顔。銀の鈴を転がすような声だけが恨むようにグレンの鼓膜を叩き、引っ掻き、忘れさせまいとこびりつく。
「けれど違った、貴方は全くこちらを見ない、貴方は全く私を見ない、何がいけないのかしらね、精霊の夢がまだ終わっていないから?まだあの娘に気がある?」
「ァ」
「いっそ」
軽く首を絞められた。それだけで心臓が動きを止めてしまったような感覚にグレンは陥り、膝から力が抜けその場に蹲る。
その姿を無感情に見下ろしていたベラドナは自分の両手から逃げたグレンの体温を確かめるように手を握り、自分の視線よりも随分と下に降りてしまった彼の頭を、結婚指輪のついた手で優しく撫でた。
「いっそ、貴方の愛が貰えないなら剥いだ白い毛皮を纏って、貴方の一生をかけて憎む相手になろうと…なんども……」
ひゅぅひゅぅと苦しげに息を吸うグレンの頭から手を退け、窓の外を見るベラドナ。
外では元から顔見知りだった者を含めた白狐商会の従業員達が搬入作業のため忙しなく動いているのが見えた。
ベラドナは窓から視線を外し、自分の兄であるヴォード・シェードが礼としてグレンに贈った書類棚を見つめる。高名な職人が作ったことを知りながらも容赦無く使われるそれは、大変良い関係を築けていることにほかならない。
「…………でも、私のお兄様には、あなた、優しいのね」
「……違うんです」
「私にだけなのね、興味が無いのは」
「ベラドナ様、それは違います」
「侍従も、皆、貴方を優しい方だと言うわ、私、知っていてよ、貴方がとっても優しくて、とっても自分勝手で、とっても損な役回りを引くこと」
「違いますよ、僕がヴォード様の婚約相手を選んだのは」
「私を寝室に一人にして、ね」
「ちがうんです……」
「…………彼女のは、青春の一幕として終えるような、蝋燭にも満たない恋だったのでしょう、きっと」
呻くグレンがベラドナの服を掴んだ、が、それは彼女が軽く羽織ったもので、するりと音もなく脱げ落ちてしまう。
「…軽く吹き消せるのが恋なら、私のこれは、いったいなんと呼べば良いのかしら」
脱げた上着もそのままに、床に座り込むグレンを置いて扉へと向かうベラドナ。腰が抜けたのかその場から動けず、彼女の背中に声だけをかけるグレン。
「暫く帰りません、頭を冷やして参ります」
「どこに、行くんですか」
「興味が無い女の行き先など覚えてなんになって?」
先程ベラドナの爪を手入れしていた侍女によって開かれた扉から出ていった彼女は、待っていた複数の侍従達に指示を出し、白狐商会本店から出ていった。
なんとか立ち上がれるようになったグレンが窓の外を見ると、用意していたのかシェード家の馬車が一台門を抜けるところが見える。
頭を振り額に手を当て、廊下に出たグレンはベラドナの爪の手入れをしていた侍女を見つけた。他の侍女に何かしら指示を出しているところに寄ると、困ったように会釈される。
「…………あの」
「流石に解雇はされたくありませんので、申し訳ありませんリーヴズ様」
「……そうですよね………すみません」
深々と頭を下げたその侍女は廊下を進み、曲がり角で裾を翻してグレンの前から消えた。
その場に取り残されたグレンはしばらく侍女が消えた方向を見つめていたが、少し肩を落とし、床を眺め始めた。




