富貴在天、俎上之肉 1
ながい、ゆめを、みている。
† † † † † † † †
今年に入って初の雪が降り始めていた。
見れば山の方は随分と前から降っていたらしい。鬱蒼とした樹海は元より、遠望できる霊山も白く染まっている。
文明の灯火が失われた、自然に満ちた原始の世界だ。静謐とした風で揺蕩う草木の気配とも合わさり、何も知らない人間が目にすると、さぞかし神秘的な景観に見えるのかもしれない。
だが降り積もる大粒の雪は、美しくはあっても儚さとは無縁の貪欲さを秘めている。空から落下してくる氷の結晶は光を吸い、昼間にも関わらず辺りは薄暗くなっているのだ。
これは触手なのだろう、とアーサーは思う。この雪は霊峰の長い腕なのだ。弱い生命の精気を吸い取り、自分のものにしている。名前も知らない大山を見上げればそれがよく分かった。
雪は、雲から降っているのではない。空は晴れている。この光を吸っている雪は、霊山から絶え間なく、鱗粉のように飛んできているのだ。
夥しいほどに生気へ満ちた自然は、あの山脈の一部で。そこに属さない弱い命はより大きな自然に活力を吸われてしまう。近辺に住む人々が病的に無気力なのも、それが原因の一つだと見て間違いない。もしかするとアーサーの無気力さも、あの霊山が元凶なのかもしれなかった。
弱者を淘汰する為にあるような自然現象には、冷淡な性格となったアーサーも流石に閉口してしまう。どこまでも不条理な世界だ、と。弱い人間に生きる価値などないと言っているように思えてしまうのだ。
行き先がなく、逃げ場もない人々に対して惨すぎる墓場である。せめてほそぼそとした暮らしの中に生じる、ささやかな幸福だけでも赦してやればいいものを。ここまで容赦がないと、実在したというカミ様とやらの性格は、よほど破綻しているのではないかと思えてくる。
「終わった。ケン、持ってけ」
何をするでもなく待っていると、後ろから声を掛けられる。アーサーは振り向かない。
常人類唯一の生存圏にある鍛冶屋。その主人は常人類ではなかった。
小人族。ドワーフだ。つまり真人類である。
彼が何故ここに流れてきたのかは知らない。興味がないし、詮索する気もない。ただアーサーがこの地に住み着くより先にいたが、彼は常人類に疎まれている。アーサーは何故か例外となっているが、常人類は基本的に自分達以外の人類に対して敏感で、殊更に恐怖する傾向にあった。ドワーフの彼に対してもそうで、常日頃から消えてしまえと念じられているのだ。
だが鈍感なのだろう、彼は全く気にした素振りもなく山に寄り添い生きている。その対価なのかは定かでないが、長くこの地に住んでいたため他者と言葉を交わす機会もなく、いつしか彼は上手く喋れなくなっていた。
滑舌が悪いのである。外見は人間の子供ほどで筋骨隆々。髪と髭が地面につくほど長く、愛想の欠片もない仏頂面の奥には、落ち窪んだ眼窩に虚無的な眼差しがあった。これではどう足掻いても、名前のない人々はおろか外界の者達にも馴染めまい。
だが、仕事の腕は確かだ。
主に獣を狩りその肉を糧として過ごしてきたアーサーは、それなりの頻度で大剣や短槍の手入れを任せている。その縁で互いの名すら知らないながらも、最も頻繁に顔を合わせる関係になっている。
ドワーフの男が大剣を放り投げてくる。それを後ろ手に掴み、身に着けた鎧の背部にある留め具に大剣を差し挟むと、礼も言わずにさっさと歩き出した。
「ニク、寄越せ」
「私の住処に行け。好きなだけ持っていくがいいさ」
ドワーフは頷く。やはり、アーサーは視線も向けない。
ざり、と積もった雪を踏み締めて、青年は樹海の中に消えていった。
† † † † † † † †
――何を以て尊しとするのだ。
五十年に一度だけ、豊葦原国の国内にのみ転生する祈祷の巫女を連れた侍は、内心忸怩たる思いを抱えて自問する。
白衣に緋袴を纏い、その上に千早を羽織った巫女装束の女。濡れ羽色の髪を後ろで一本に結わえ垂髪にした彼女は、その双眸を覆うために呪符を織り込んだ赤い帯を巻かれていた。
彼女は、鍵だ。それも使い捨ての。
今日この時、この日のために生まれ、育てられ。過去一度も成功した試しのない儀式に命を捧げる役を負っている。
哀れだった。祖国にて己の才と剣腕を買われた事には誇らしさを感じもするが、祈祷の巫女の死出の旅路に同行させられると、どうにも良心の呵責を覚えてしまう。
如何に〈神王の遺産〉を手にするためだとはいえ、女らしい楽しみの一つも知らず、幽閉されてろくに言葉も教えられずに育った巫女が哀れに過ぎた。
大義をこそ尊しとするのなら、まさにこれこそ尊い犠牲というものなのだろう。しかしそれでも呑み込めない蟠りを懐く己は、度し難い愚か者なのだろうか?
小袖と袴、羽織りを纏い、大小の刀を提げた中肉中背の男、伊勢守朝孝は自らへ問う。果たして彼女を犠牲に捧げるのが正しい事なのか、と。そこに正義はあるのか、と。
「惑うな、伊勢守」
煩悶する朝孝を見咎めて、巫女の身辺警護の任を負っている鬼柳千景が冷たく諌めた。
「貴殿の欠点だ。情に厚く女に甘い……非情に徹しろ。巫女の挺身の価値は、貴殿次第で屑にも黄金にも変わる」
「……心得ている。事此処に到っては、迷ってもよい資格が儂には無いのだ」
そう、資格はない。
既に自分達はここ、冠座の聖地へとやって来てしまったのだから。
反対の意見を述べる事も、下達されたお役目を辞退しようとする事もなかった己に、迷う資格などあるはずがないと承知している。
元より御国からの命令だ、逆らえる道理など無い。朝孝はしかめっ面の中に迷いを押し込んだ。
――彼らは豊葦原之千秋長五百秋之水穂国に仕える武士である。
歴代の国主の側近を勤めてきた、伊勢守家の嫡男である朝孝は剣術に秀でる天才の誉れ高き男だ。此度の儀における必須項目である人格、才覚、実力を備えた剣士である。
対して千景は国主を警衛する国主直属の近衛兵、鬼柳家の長女だ。豊葦原国最大の剣術流派、嗣木神道流を修め、同時に主君の甥が夭逝してしまうまで剣術指南を仰せつかっていた才女であった。
「む……」
朝孝は不意に、霊峰に響くざわめきを感じ取り眉を顰める。
どうしたと視線で問い掛けてくる千景に、朝孝は一旦立ち止まって耳を澄ませた。
彼の停止に伴い、千景もまた足を止める。
「……鬼柳、貴殿は感じぬか?」
「何?」
「どうにも慌ただしい……否。戦の気配か、これは?」
「戦だと」
朝孝の言に、千景は張り詰めた緊張感を漂わせる。無意識だろう、腰帯に差した太刀の柄に手を添えた。
二人してジッと耳を澄ませる。暫くすると確かに聞こえ、感じた。山頂に近しい場にいる朝孝らの肌を、微かに打つ地響きの波動と獣の雄叫びを。
「……冠座の地は、静謐なものであると聞く。儂には斯様な事が起こり得るのか判じかねるな」
「獣だろう、この氣は。いずれにせよ、捨て置けるかは斬って試せばいい」
千景は腰に帯びた太刀を鞘ごと抜き取り、拝むようにして眼前に掲げる。そうして目を閉じ、意を飛ばし気配の源を捉えた。
僅かに柄を浮かし、刃を露出させる。そしてチン、と鞘に刃を収め鍔を鳴らした。
転瞬。苦悶からか気配が大きく揺れた。
遠くに在りながらにして斬ったのだ。千景はその手応えに形のいい太眉を顰める。
「硬いな。両断はおろか、首の皮膚を斬っただけだ」
「ふむ。鬼柳の斬氣を受けて死なぬか……が、皮膚の一枚でも斬れたのなら、相対してしまっても問題はない」
「そうだな。直に対峙すれば、一太刀で事足りるだろう」
極東の武士達は、獣の脅威度を正確に把握し、放置する事を選んだ。
侮ったのではない。単なる事実だ。氣を飛ばしただけの斬撃で、皮一枚とはいえ傷つけられたのだ。ならば獣が目の前にいれば、剣氣を飛ばすだけでも殺められる。
千景は太刀を腰に差し、朝孝を促して先を目指し歩き出す。目指すのは霊峰の深奥、〈勇士の祭壇〉――朝孝の後について歩む巫女の歩みに、剣豪の男は物憂げに目を眇めて。
待ち受ける祭事の儀が、見事に成される事を神々の王へ祈った。
† † † † † † † †
まだ人のカテゴリが一つであった頃。
全ての神々が神王の下で、人を愛してくれていた黄金期。
仲睦まじかった神王と後の魔神は冠座の地を憩いの場とした。
後に神々の結束が割れ、人は正真と最新を称する人類に別れたが、神王と魔神は敵対するに到っても、この冠座の地に人が立ち入る事を固く禁じたという。
綺麗な記憶が詰まった思い出の場所だったからだ。
故に冠座へ神のシモベは立ち入らず、暗黙の了解として聖地を戦場に選ぶ事だけは絶対に避ける。
だが真人類の極一部は、その限りではない。神王直系の、三人の御子だけは冠座に立ち入る事を赦されていた。
特に〈鏃の御子〉や〈鉾の御子〉とは異なり、〈瞳の御子〉だけは明確に特別扱いを受けている。供を二人まで赦されているのだ。
〈瞳の御子〉が有する権能は、主に魔眼の類い全般。過去視、未来視、千里を見渡す遠視をはじめとしてその力は多岐に渡る。なんとなれば視る事に限る機能ならば、自らの意思一つで新たに創り出す事すら叶う。
だがそれらの力はおまけに過ぎない。もう一つの権能こそが、真人類にとっては何より重大なものだった。
すなわち、死して概念位階の礎となった神王の遺志、これとの謁見を可能とする祭祀の権能である。
失われた神王の佩剣である〈聖剣コールブランド〉――〈神王の遺産〉である二つの片割れを、神王へ謁見する事で拝領を願う。これにより真人類は勇者を生み出し、来たる決戦の切り札にしようと企てていた。
だがこれまで、歴代の〈瞳の御子〉が命を差し出し謁見を成しても、誰一人として神王の残留思念は聖剣を下賜しなかった。そなたではない、と。相手にもされなかったのだ。
故に豊葦原国は、神王が好む魂の強き者、才と力を兼ね備えた者を幾人も送り出した。しかし結果は変わらない。何度も謁見を成し、聖剣の下賜を願ってきても、返ってくる答えは変わらないのである。
今代の〈瞳の御子〉である、祈祷の巫女もまたその祭祀に挑む。
若手で随一の剣腕を誇り、高潔な人格者である伊勢守朝孝を勇者の候補として、豊葦原国の霊山、富士の山にある霊洞よりこの聖地に転移したのだ。
「――ん、なんだ?」
黒い獣ブルドが大袈裟に仰け反って首を庇ったのに、アーサーは呑気に首を傾げた。
富貴在天
人が富める者になり貴人の位を手に入れたりするのは、全て天命であり個人の力ではどうにもできないものという意味。
俎上之肉
相手の思うまま、なされるがままになっていること。そうした運命。料理に出されるため、まな板に載せられた肉という意味。




