第86話:【外科】天才医師プリシラの覚醒、エリーの指先
大地を移動する旅団 アークが停止して、すでに5時間が経過していた。
本来、この移動要塞が巡航速度で走り抜けていれば、砂漠の捕食者であるナノ・ウルフの群れに追いつかれることなどあり得ない。だが今、リディアの命を繋ぐためにアークは大地に根を張るように沈黙し、群がる銀の牙を正面から受け止めるしかなかった。
「……出力、安定。魔法回路、完全遮断。オペ室内のマナ濃度、ゼロを維持していますわ」
キャラバン9号車と10号車を連結して作られた簡易手術室。
不気味な青い殺菌光の下、末っ子のピッコ――いや、管理者直属医師プリシラが、一点を見据えて告げた。
「母様、ここからが正念場ですわ防護服越しに、物理的な冷却ガスのボンベを構えた。
シルバー・エッジは、魔法に反応して増殖する。だからこの手術は、一切の奇跡に頼らない、純粋な「物理」での切除でなければならない。
「リュウガ、視界を!」
「了解した。……Admin視界、網膜投影。患部の神経系を6000倍に拡大表示する」
リュウガがリディアの術部へ手をかざすと、彼のAdmin権限によって解析された「不可視の病巣」が、精密なホログラム照明となって執刀部を照らし出した。
プリシラの指先が、目にも止まらぬ速さで動き続ける。
あとで訊いたら、彼女の脳裏には、2000年前の記憶がフラッシュバックしていたんだそうだ。かつて、まだ幼かったリュウガの肉体を、アリスと共にメンテナンスしていた頃の感覚。神経の一本一本、細胞のひとつひとつを「修理」する、あの冷徹で完璧な指先。
「……四番、神経の癒着を剥離。九番、血圧維持。……死なせませんわ。私に治せないバグなど、この世界に存在してはならないのですから! エリーも気を抜かないで!!」
四女ルーテがピンセットで神経を固定し、九女ハープが膨大なバイタルデータを読み上げる。私は、震える指先を必死に抑えながら、プリシラの指示に合わせて冷却ガスを噴射し続けた。銀の侵食が熱を持って増殖しようとするたびに、私の放つ冷気がそれを物理的に凍りつかせ、プリシラのメスがそれをミクロン単位で切り離していく。
魔法の自然治癒なんて悠長なものは待たない。物理的な『凍結』と『切除』の連続が、銀の侵食をミリ単位で食い止めていく。
それは、一家が総力を挙げて一人の命を繋ぎ止める、あまりにも泥臭く、しかし神聖な儀式だった。
――ガギィィィン!!
アークの外壁に、巨大な衝撃が走る。
防衛網を突破したナノ・ウルフの巨体が、手術室の隔壁を狙って体当たりを繰り返していた。
『母様、父様! 第3防衛ラインが決壊したお! ヴォルフの武器も限界に近いお!』
私の肩で、ファーファの目が赤く点滅し、外の凄惨な光景を投影する。
『ヴォルフの左側、狼のリーダー格が飛びかかろうとしてるお! ヴォルフ、危ないお!』
モニター越しに見えるヴォルフは、愛用の斧を支えに辛うじて立っていた。度重なる激突で防護服は裂け、腕からは血が流れている。リーダー格の巨狼がその隙を見逃さず、喉元を狙って跳躍した。
「ヴォルフ!!」
私が思わず叫んだその瞬間、銀の閃光が狼を横から薙ぎ払った。
『……下がっていろ、エンジニア。ここは、私が引き受けるから』
そこに立っていたのは、セフィラだった。
彼女とて無傷ではない。白と水色のラインが光る戦闘スーツはボロボロに引き裂かれ、美しい銀の肌には幾つもの噛み跡と火花が散る傷が刻まれている。背中に背負った複数の刀は折れ、それでも彼女は、両手に構えた長刀でヴォルフの前に立ちはだかった。
「……セフィラ。すまない、助かった」
「……勘違いするな。私はマスターの命令に従い、お前という『資産』を守っただけだ。……それに、お前がいなくなれば、リディアが悲しむ」
その声音はどこまでもそっけない。
だが、かつて完全な無機質だった彼女の瞳には、シスターズたちと触れ合う中で芽生え始めた「情」の片鱗が、微かな光となって宿っていた。自分を作ったエンジニアと、彼が大切に想う女性。二人の幸せを願うその「バグ」のような感情を、彼女自身もまだ定義できずにいた。
「……お礼は、手術を終わらせた後にして。……戦いに集中して」
満身創痍の守護者と、死に体の技術屋。
外では二人が背中を合わせ、絶望的な数に抗い続けていた。
十数時間に及ぶ、執念の「修理」。
最後の一片である銀の結晶がプリシラのメスによって摘出され、リディアの右手に赤みが戻ったその瞬間。
「……終了ですわ。……縫合開始」
プリシラの声から、管理者(Admin)の冷徹さが消え、いつものピッコの幼い響きが戻った。
手術完了の合図と同時に、外の喧騒も終わりを迎えた。
最後の一頭を仕留めたセフィラがその場に膝をつき、ヴォルフもまた崩れ落ちるように座り込んだ。
アークのハッチが開き、私がラボから飛び出すと、そこには泥と油と返り血にまみれた家族たちがいた。
長女チェロは計算機能の過負荷で意識を失いかけ、十女ボーンは黒とピンクの戦闘スーツを砂埃で汚し、自慢の巨大な突撃ランスを杖にして荒い息を吐いている。シスターズ全員が、生まれて初めて経験する「死への恐怖」と「肉体の限界」にボロボロになっていた。
けれど、誰の瞳も死んではいなかった。
「……リディアは?」
ヴォルフが掠れた声で尋ねる。
「……成功よ。リディアは、助かったわ」
私の言葉を聞いた瞬間、凍りついていた空気が一気に溶けた。
シスターズたちが、カイル隊の衛兵たちが、そしてリュウガが、大きな安堵に包まれた。
数分後。
リディアの瞳から銀の光が消え、人間らしい潤いが戻った。
ピッコは疲れ果てて座り込み、小さな手で額の汗を拭った。
「……プリシラなんて名前、もういりませんわ。私は一家の『ピッコ』で十分ですわ」
そう言って微笑んだ末っ子を、私は抱きしめて号泣した。
ベッドの上で目を覚ましたリディアが、周囲に集まったボロボロの面々を見て、掠れた声で笑った。
「……何よ、みんな……。そんな酷い顔して。……せっかく私が、綺麗に直ったのに」
「あったりまえでしょ! あんたを直す時間を稼ぐために、こっちも命がけだったんだから!」
私は彼女の手を握り、そして周囲にいる全員を見渡した。
「……みんな。見てなさい。こんなカオスゾーンなんて、私たちの絆で全部修理してやるんだから。……約束よ。誰一人欠けることなく、絶対に、みんなでアステリアに帰るわよ!」
「「「おおおおおっ!!」」」
疲弊しきった身体から、それでも絞り出すような歓声が上がる。
魔法という奇跡を使わず、不器用な「愛」だけで運命を書き換えた。それは、この世界のシステムに対する、私たちの完全な勝利宣言だった。
『……観測。全員が泣き、笑い、そして再び誓い合う。……てぇてぇなんて言葉じゃ、もう足りませんわ。……私も、絶対に、帰りますわ。母様たちと一緒に』
七女クララが、銃を置いて、顔をぐしゃぐしゃにして泣きながら記録を綴っていた。
夜明けのタクラマカン砂漠。
アークは再び、力強い轍を描きながら動き始めた。
ボロボロの体を引きずりながらも、そのエンジン音は昨日よりもずっと力強く、明日へと響いていた。
『ファーファ、全データ・永久ロック完了だお! 「死のバグを超えた家族の絆、不完全なボクたちは、絶対の約束を胸に西へ進む!」……これにて一件落着だおー!』




