第85話:【侵食】リディアのナノマシン暴走
カオスゾーンに突入して、どれほどの月日が流れただろうか。
バイコヌールを抜けたアークは、かつての中央アジア圏、死の砂漠と呼ばれるタクラマカンへと足を踏み入れていた。
「……熱い、わね。アステリアの夏が懐かしいわ」
後部座席で、リディアが不自然なほど青白い顔で力なく笑った。
その異変に気づいたのは、四女ルーテだった。
「リディア様。……右手の反応が、消失しています」
「え? ……あ、あはは。少し痺れてるだけよ。ほら、私のフェアリ・オプションの調整で徹夜したから……」
リディアが隠そうとした右手の袖が、不意にめくれ上がった。
そこにあったのは、人間の肌ではない。鈍く、冷たく光る「銀色の金属」へと変質した無機質な肢体だった。
「……シルバー・エッジ!?」
助手席から振り返ったリュウガの顔が、かつてないほどに強張った。
シルバー・エッジ。
2000年前、人類がナノマシンによる肉体強化に失敗した際、ごく稀に発生した最悪の拒絶反応。体内のナノマシンが変質し、宿主の神経系や臓器を「無機質な回路」へと強制的に書き換えていく、アリスの救済から漏れた「死のバグ」だ、そうだ。
「嘘……そんな。リディア、どうして!?」
私が駆け寄ろうとした瞬間、リディアが激痛に顔を歪め、その場に崩れ落ちた。銀の侵食は、すでに肘のあたりまで達している。
「来ないで、エリー! ……嫌よ、私が、機械に……冷たいバグに飲み込まれるなんて……!」
誇り高き王都技術院のエリートが、子供のように震えていた。
「ハープ、治癒魔法を!」
私が叫ぶが、リュウガがそれを制した。
「無駄だ! 魔法治癒はナノマシンの活性化を促す。今の彼女に魔法を使えば、侵食速度を爆発的に早めるだけだ!」
「じゃあ、どうすればいいのよ!? ここには外科手術の設備も、専門の医者もいないのに!」
絶望がアークを包もうとした、その時だった。
後部座席に静かに座っていた末っ子、ピッコのバイザーが、激しく、不気味なほどに明滅し始めた。
『――管理者直属医師(メディカル・Admin)、プロトコル覚醒。……全システム、オーバーライド。外科医プリシラの演算領域を解放しますわ』
ピッコの声が変わった。
幼い少女のそれではない。かつて2000年前に何千人もの命を救い、アリスの側近として君臨した伝説の医師のトーン。
「母様。……いえ、猿真似の創造主。今すぐ9号車と10号車を連結・密閉しなさい。あそこを簡易手術室に作り変えます。……魔法なんていう不確かな奇跡は使いません。私の『物理』の手術で、この女を繋ぎ止めてみせますわ」
私は、ピッコ……プリシラが立ち上がるのを見て、ゴクリと唾を呑んだ。
そうだ、この子は以前、リュウガが機能停止しかけた時も、私には理解できない旧文明の医学知識で彼を救い出した。口は最悪に悪いけれど、この子の「腕」だけは本物だ。
「わかったわ、ピッコ。あんたに預けるわよ! ルーテ、ハープ! あんたたちは手術の補佐に入りなさい!」
「……了解。精密作業モードに移行します」
四女ルーテが無表情ながらも、その指先を医療用のアタッチメントへと換装し、ピッコの横に並ぶ。
「ハープです。リディア様の全バイタルデータをリアルタイムでピッコ、いえ、プリシラ様に同期します。……全姉妹、支援を開始しますわ」
アークのラボ車が慌ただしく連結を変え、不気味な青い殺菌光に包まれる。
リディアが手術台へと運ばれる際、彼女の周りをシスターズたちが取り囲んだ。
「リディアお姉ちゃん、大丈夫だよ! ボクの予備の冷却パーツ、貸してあげるからね!」
三女コルネが、不安を隠すように無理やり元気な声を出してリディアの手を握る。
「そうなんよ! うちのデコパーツ、術後に最高に可愛いのを付けてあげるんよ。だから、泣かないでほしいんよ……」
五女ユーフィが、大切なリボンをリディアの枕元にそっと置いた。
無機質な存在であるはずの彼女たちの瞳には、人間以上の慈愛と「家族」への心配が溢れていた。
それは、彼女たちの守護者であるセフィラも同じだった。
「……リディア。……死ぬことは、許されない。貴方がいなくなれば、エリーの心が『故障』するから」
セフィラが低く、最終確認のような声で告げる。その銀の瞳は、リディアに迫る死の影を射抜くかのように鋭かった。
「……みんな、ありがとう……」
リディアが手術台の上で、震える手で側にいたヴォルフの服の裾を掴んだ。
「……ねえ、ヴォルフ。……もし私が、ただの鉄屑になっちゃったら……あんたのデータベースに、リディアという女がいたことも、記録しておいてよ」
技術屋として、不器用なほど言葉を持たないヴォルフは、何も言わなかった。
ただ、彼女の手を、その指の骨が軋むほど強く、強く握り返した。
「……死なせん。記録などせん。お前は、俺の隣で生きていろ。俺が……この斧で、運命を叩き切ってやる」
手術が始まった。
だが、カオスゾーンの脅威はそれだけではなかった。
砂嵐の中から、リディアと同じ「銀」に侵食され、理性を失った凶暴な銀の狼、ナノ・ウルフの群れが、アークの熱量を嗅ぎつけて集まってきたのだ。以前戦ったハイエナとは違う。彼らはより凶悪で巨大な、優秀な狩人だ。
「――防衛ライン死守! 手術室には、一歩も近づかせん!」 ヴォルフが愛用の斧を振り上げ、一人でアークのハッチの前に立ち塞がった。
「カイル、衛兵隊、シスターズ! 全員、ヴォルフを援護しなさい!」
アークの内部では、プリシラ(ピッコ)の執刀の下、ルーテとハープが火花を散らすような精密作業を続ける「命の修理」が進行していた。
『緊急事態だお! 母様、父様、外の「ナノ・ウルフ」が防衛ネットの隙間を突いてるお!』
私の肩で、ファーファの目が赤く明滅し、アークの全周囲モニターを私たちの視界に強制投影した。
『熱源反応がさらに12、後方から接近中だお! ヴォルフの左側、遮蔽物の影に回り込もうとする個体がいるお! 父様、このままだと手術室の冷却ダクトが狙われるお!』
能天気な口調は消え、ファーファは戦場のマナ分布と敵の動きを冷徹に解析していた。
『「不器用な家族たちが物理で運命を繋ぎ止める」……リディアを救うための絶対防衛作戦だお! ボクが全姉妹の攻撃座標を最適化するお! 作戦開始だおー!』
外では、ヴォルフたちによる「命の盾」が激しさを増す。
砂漠の闇の中で、不完全な家族たちの、最も長く、最も残酷な夜が本格的に始まった。
『……観測。死の淵での絆。てぇてぇを通り越して、胸が締め付けられますわ……。母様、リディア様、お父様……。みんな、生きて帰るのですわ……』
七女クララが、涙で滲むスコープを拭いながら、ファーファの指示に従い銀の狼の眉間を狙い定めた。




