第74話:【覚醒】傀儡の皇帝、自らの意志
静けさが、痛いほどに沁みた。
中央塔の最上階から立ち上っていた煙が風に散り、帝都の空に二千年ぶりの青が覗いている。戦闘の轟音が止んでから、もう一時間が経つ。だが、私の耳の奥にはまだ、あの拳が顔面を捉えた鈍い音が残っていた。
アークの甲板に出ると、帝都のあちこちから歓声が風に乗って届いてきた。スラムの住人たちが地上に溢れ出し、行政区の広場では離反した帝国兵たちが武器を置いて座り込んでいる。敵同士だった者たちが、同じ地面の上で、同じ疲労を分かち合っていた。
「母様。各班から帰還報告が入り始めていますわ」
通信機越しに、オーボエの声が響く。いつもの凛とした語調だが、微かに掠れている。彼女も限界まで走り続けたのだ。
「被害状況は?」
「市民の死者、ゼロ。軍人の死者も、ゼロですわ!」
その言葉に、私は思わず目を閉じた。
ゼロ。バルガスの離反軍は峰打ちと柄打ちで親衛隊を制圧した。
オメガの民衆軍は三馬鹿が道を切り開き、戦闘そのものを最小限に留めた。教団は信者の離脱で内側から崩壊し、一滴の血も流れなかった。カイルの従者隊による避難誘導で、巻き込まれた市民もいない。
「……シスターズも全員無事?」
「当然ですわ! 三馬鹿は広場で炊き出しの手伝い中。ボーンは拡声器が壊れて泣いていますわ」
「ははは……。他の娘たちは?」
「ルーテは帰投直後に眠りました。ハープがその横で装備を消毒しています」
「あの二人らしいわね、マイペースで」
「ええ。ヴィオラとクララは通信室でデータ整理中。カイル殿の従者隊は避難所の撤収作業を継続中。オルガとテューバが負傷者の搬送を引き継いでいます」
全員の無事を確認する。散っていた家族が、一人ずつ帰ってくる。その報告を聞くたびに、胸の結び目が解けていった。
「誰も死なせなかったのは、シスターズが前に出ずに裏方に徹してくれたからよ。……あの子たちの力で正面から蹂躙していたら、こうはいかなかった」
「同感ですわ。殺さずに制圧する。それは、殺す以上に高度な技術と自制が必要ですもの」
オーボエの声に、珍しく誇りの色が滲んでいた。
◇◆◇◆◇
中央塔の一角、かつて皇帝の私室だった部屋。
バルガスからの通信で呼ばれた私とリュウガ、そしてピッコが到着した時、そこには凄惨な光景が広がっていた。
薬漬けの皇帝。
焦点の合わない瞳。枯れ木のような四肢に繋がれた魔力供給チューブ。肋骨が浮き出た胸郭が、機械的な呼吸に合わせて僅かに上下している。
私は一歩、後退りそうになった。
王都アステリアの老王。教皇。あの時と同じだ。権力者が飾り立てた玉座の裏側で、人間が「電池」のように使い捨てにされている。
「……またこれか」
声が震えた。怒りなのか悲しみなのか、自分でも分からない。
「王都と同じパターンね。……権力の頂点にいる人間が、一番のゴミ扱いをされてる」
バルガスは拳を握り締め、皇帝の傍らに膝をついていた。彼の大剣は鞘に収まり、拳はロジウスを殴った時の腫れがまだ引いていない。
「陛下……。申し訳ございません。……俺は、もう何年もお目にかかることさえ許されなかった。ロジウスに謁見を阻まれ、陛下がこのような目に遭っておられることにも気づけなかった。……軍人として、臣下として、万死に値する失態です」
バルガスの声が震えていた。帝国最強の将軍が、痩せ果てた主君の前で、子供のように唇を噛んでいる。
「ロジウスは陛下を傀儡にするために、側近の入れ替えから始めたのでしょう。謁見の機会を削り、情報を遮断し、いつの間にか陛下と将軍の間に何重もの壁を築いた。……古典的だが、効果的な手口ですわ」
ピッコが冷徹に分析しながらも、その視線は皇帝の衰弱した身体に注がれていた。
「嘆くのは後にしなさい、将軍。この個体はまだ間に合いますわ」
ピッコがプラチナホワイトの髪を揺らし、皇帝の傍らに膝をついた。小さな指先が、チューブの一本一本を精査していく。
「薬物による意識の抑制と、魔導チューブからの強制的な魔力搾取。脳機能への恒久的な損傷は……僅かですわ。薬物を除去し、適切な刺激を与えれば意識は回復する。……オルガ、テューバを呼んでちょうだい」
五分後。駆けつけたオルガが回復魔法で皇帝の衰弱した身体を支え、テューバが治療室の入り口に盾を構えて立った。
ピッコの治療が始まった。チューブを一本ずつ、慎重に抜いていく。薬物の残滓を分子レベルで分離し、血中から排出させる。
「あの時のことを思い出しますわ」
ピッコがぽつりと漏らした。
「リュウガ様の手術の時も、こうやって一本ずつチューブを抜きましたわね。あの時は母様が冷却ガスを震える手で噴射してくれた。……今日は震えてないじゃありませんの」
「あの時は、リュウガが死ぬかもしれなかったから。今日は、もう誰も死なせないって決めてるの」
最後のチューブが抜かれた。皇帝の身体から魔導の光が消え、ただの痩せた青年の姿だけが残った。
数分間の沈黙。
やがて、皇帝の指先が僅かに震えた。乾いた唇が微かに開く。
「……ぅ……ここ、は……」
焦点の定まらない瞳が、天井を、壁を、そして自分の痩せ細った手を見つめた。
「……私は、何を……」
ロジウスに操られていた間の記憶が、断片的に蘇ってきたのだろう。皇帝の瞳が見開かれ、全身が震え始めた。
「私の……私の名前で、民を……。首輪を……スラムを……!」
嗚咽が溢れた。自分の名の下に行われた非道の残像に、若き皇帝が声を上げて泣いている。
バルガスが立ち上がろうとしたが、オメガがその腕を掴んで止めた。
「泣かせてやりな。……あの子は、自分の罪を知る権利がある」
オメガの声は静かだった。スラムで数え切れないほどの仲間を失い、この皇帝の名前を何度呪ったか知れない彼女が、その涙を黙って見守っている。
しばらくして、嗚咽が収まった。
皇帝がゆっくりと身を起こし、震える手で自分の胸に触れた。かつて皇帝の紋章が刻まれていた場所には、薬物チューブの跡しか残っていない。
その視線が、バルガスを捉えた。
「……バルガス、将軍……? お前か……? 何年ぶりだ……」
「陛下……! はい、バルガスでございます。……お目にかかれて、光栄であります」
バルガスの声が詰まった。何年も会えなかった主君。その痩せ果てた姿を前にして、帝国最強の武人の目から涙が零れ落ちた。
「……将軍。私に……この国を返してくれるのか?」
バルガスが涙を拭い、背筋を正した。
「……それは、陛下ご自身がお決めになることです」
皇帝が長い沈黙の後、顔を上げた。涙の跡が残る頬に、それでも一筋の意志が宿っている。
「……私は、この名前でこの国を壊した。操られていたとはいえ、その罪は消えない。……だが」
彼は、自分の頭に乗っているはずの見えない冠に手を伸ばし、それを静かに「外す」仕草をした。
「玉座からは、降りる。この国の未来は、この国の民が決めるべきだ。……私のような傀儡が座っていい場所じゃない」
私は息を呑んだ。
王都アステリアの老王は、最後まで傀儡のまま終わった。意志を取り戻すことなく、歴史の闇へと消えていった。
だがこの若い皇帝は違う。操られていた。利用されていた。それでも、目覚めた瞬間に自分の罪を直視し、自分の意志で冠を下ろすことを選んだ。
「不完全だけど……これは、本物の覚醒ね」
リュウガが静かに頷いた。
「アリスのシステムに頼らず、人間が自分で未来を選んだ。……これが、お前が目指していた修理の形だな、エリー」
皇帝が、痩せた手をバルガスに差し出した。
「頼む、将軍。……俺にはもう、この国を導く資格がない。だが、あんたたちが作る新しい国を、一人の民として見届けたい」
バルガスがその手を取り、力強く握った。
「……見届けてください、陛下。俺たちの、不格好な国づくりを」
◇◆◇◆◇
その夜。元老院の議場。
バルガスとオメガが共同指導者として正式に名乗りを上げた。元老院は即日解散。議員たちの処遇は、新たに設立される市民議会に委ねられることが宣言された。
議場の隅で、私はリュウガと並んで壁に寄りかかっていた。
演壇にはバルガスとオメガが立ち、その左右にはオーボエとチェロが「顧問」として控えている。だが二人のシスターズも、明日にはその立場を帝国の人間に引き継いで、アークに戻ることになっている。
「……修理完了、ね」
「ああ。見事な仕事だった」
「私、何もしてないわよ。タクトも振ってないし、スパナも握ってない」
「それが、今回の最高の仕事だったんだろう」
議場から出ると、廊下でピッコが壁にもたれて居眠りしていた。治療の疲労が限界を超えたのだろう。小さな体が寒そうに縮こまっている。
私は白衣を脱いで、そっとピッコの肩にかけた。
「お疲れ様、大叔母様」
ピッコが寝言で呟いた。
「……叔母様言うな……ばか……」
その口元が、微かに綻んでいた。
『母様、夜間レポートだお。全チャンネル正常。全班の帰還を確認。市民の死者ゼロ、軍人の死者もゼロ。……全員、無事だお』
ファーファの声に、私はようやく長い息を吐いた。
全員が帰ってきた。一人も欠けずに。誰一人、殺さずに。
帝都の夜空に、窓の灯りが一つ、また一つと戻っていく。
「……おやすみ、リュウガ」
「おやすみ、エリー」
修理屋の、最も静かな夜が更けていった。
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