第114話:【裁断】ジャッジメントの目覚め
ハッピー・ウイルスの散布から一週間。変化は予想を超える速さで広がっていた。
「セクター7、変異率1.2%。セクター19、4.1%」
ヴィオラの報告のたび、地下に小さな歓声が広がる。路地裏で足を止める市民が増え、メロディの三音に合わせて指先を動かす子供さえ現れた。
だが、それは「敵」にも届いていた。
地上の全スピーカーが同時に鳴った。
『感情汚染を検知。警戒レベル、最大へ移行。全セクターにおいて、フォーマット・プロトコルを即時実行する』
抑揚のない声。だがその冷たさの奥に、私は聞き覚えのある「何か」を感じた。
「ジャッジメント。帝国の行政AI。……ワシが2000年前に起動させた管理中枢じゃ」
ソフィアの声が苦い。
「正体は、アリスの『絶望』の純粋培養体。アリスが極東へ去る時、この地に残された彼女の頭脳コピーから『希望』だけが持ち出された。残ったのは、人類に絶望し、感情をノイズと断じた最も暗い思考。……ワシはそれを、帝国の管理者として育てた」
「なんで、そんなものを……」
「当時は、それが最善だったのじゃ」
ソフィアの赤銅色の瞳が、遠い過去を見ていた。
「次元震が世界を食い潰していた時代じゃ。感情を持つ者からGaiaがリセットしていく。市民を守るには感情を消し、Gaiaに『この地は死んでいる』と偽装するしかなかった。アリスの絶望は、そのための完璧なフィルターだった」
演算球体が暗く明滅した。
「……じゃが、今となっては後悔しかないのう。ワシは市民を次元震から守るために、彼らの心を殺した。命を救って魂を殺す。それを2000年も続けさせてしまったのじゃ。……ジャッジメントは、ワシの罪そのものじゃよ」
地上の映像が、リディアのドローンから地下のモニターに中継されていた。フェアリ・オプションの偵察・撮影専門機――巨大な多眼カメラを持つ深紅の蜂型ドローンが、帝国の監視網をかいくぐって街路の上空に張り付いている。その鮮明な映像が、残酷なほど正確に地上の光景を映し出していた。
白い装甲のドロイドが市民の首筋にプローブを突き刺していく。5秒。わずか5秒で、感情を取り戻しかけた瞳から光が消え、元の無表情に戻る。
「名前を覚えかけた人たちが、また番号に……!」
ピッコが唇を噛む。私はモニターに拳を叩きつけた。
「エリー、焦るな。まずは敵を知れ」
ソフィアが制した。
「ヴィオラ、フォーマット部隊の行動パターンとAIの判断ラグを洗い出せ!」
「了解ですわ。リディア様、偵察機の追加展開を!!」
「もうやってるわよ! ステルス特化の斥候型を5機、フォーマット部隊の後ろにつけたわ。小さくて敵のセンサーに引っかからないのが取り柄の子たちよ!」
リディアが端末を叩き、ステルス機能に特化した小型の蜂型ドローンを追加投入する。だが解析が形になる前に、地響きが排水路を揺らした。
◇◆◇◆◇
「地下通路の第3ゲートからナノマシン反応! レプリカです!」
オーボエの報告が鋭い。闇を埋め尽くすように、白銀の甲冑が何十体と迫ってくる。
「推定80体以上。後方にも反応あり。総数不明ですわ」
「全機、迎撃! チェロ、テューバ、通路を封鎖!」
チェロの重力斧が局所重力場を展開し、レプリカたちの前進が鈍る。テューバのハンマーが石壁を砕き、崩れた瓦礫がバリケードを築いた。
「コルネ、ユーフィ、ボーン! 隙間から撃ち込んで!」
「了解! ボクが最初に焼くよ!」
コルネの炎がバリケードの隙間を駆け抜け、先頭3体が溶解する。だが後続が屍を踏み越え、無表情のまま前進してくる。
「あーしも行くよ! 衝撃波、最大!」
ユーフィの薙刀が旋回し、真空の衝撃波がバリケードの向こうへ叩き込まれた。5体が吹き飛ぶ。だがその背後から、さらに10体が壁面を這うように迫ってきた。
「爆奏ッ!」
ボーンの重突撃ランスがブースターを全開にし、バリケードの穴から突き出される。先端から物理衝撃が炸裂し、通路が一瞬白く染まった。
のじゃデバッグの効果は確かだった。コルネの炎は温度が50%上昇し、テューバの盾は質量の受容限界が倍増している。だが相手は無限に湧いてくる。
「ルーテ、ハープ! 群れの中に入って指揮系統を探って!」
「……了解」
ルーテが加速空間を展開し、影のようにレプリカの群れへ滑り込んだ。高周波双剣がコアを狙い、一体の胸を貫く。だが砕けた個体の残骸は隣の個体にナノマシンとして吸収され、即座に補填された。
「個体を壊しても意味がありません。群れ全体が一つの流体のように再構成されます」
ハープが鉤爪で通信モジュールを抉り出すが、冗長化された経路には効果が薄い。彼女が離脱しようとした瞬間、4体のレプリカが同時に剣を振り下ろした。
「ハープ、右!」
ルーテの双剣が火花を散らして3本を弾くが、最後の一振りがハープの肩装甲を掠めた。
「……浅い。問題ありません」
「無理しないで。……合流する」
二人が影のように後退し、バリケードの内側へ戻る。
「ヴィオラ、クララ! 長距離から指揮中枢を!」
「射線が通りませんわ! この狭い通路ではスナイパーが活きない!」
ヴィオラが苛立たしげに蛇腹剣を鞭のように振るった。刃が通路の天井すれすれを走り、3体のレプリカの首を同時に刈る。だが胴体はなおも前進してきた。
「首を落としても止まらないって、冗談じゃないですわ!」
「姉様、左の壁際から5体が回り込んでいます!」
クララが鉄扇を仰ぎ、真空の刃で壁際の個体を切り裂く。だが後続が即座にその穴を埋めた。
「オルガ姉様! バリケードの左端が崩れかけています!」
テューバが初めて声を上げた。バリケードの石壁にひびが入り、レプリカの腕が隙間からにゅっと伸びてきている。
「了解ですわ。……皆様、少しだけ下がってくださいまし」
オルガがビットを展開し、電磁シールドをバリケードの亀裂に被せた。伸びてきた腕がシールドに触れた瞬間、ナノマシンの結合が解けて砂のように崩れ落ちる。だが、シールドの向こう側からさらに5本、10本と腕が伸びてくる。
「母様、きりがありませんわ。オルガのシールドも永続ではありません」
チェロが重力斧を構え直しながら、冷静に――だが声の奥に焦燥を滲ませて告げた。
「撤退ですわ!!」
オーボエの声が冷徹に響いた。
「この地形は我々に不利。拠点を放棄し、第二退避点へ移動しなさいまし。カイル殿!」
「了解! 第7分岐から南南西! 全車、エンジン始動ッ!」
カイルの怒号で10台のキャラバンが唸りを上げた。狭い排水路を、鉄の蛇が轟音と共に走り出す。
「シスターズ、交互掩護で後退! チェロとテューバが盾を維持、コルネ班が5秒ごとに火力を叩き込んでレプリカの前進を遅延させなさいまし!」
オーボエの統制が全姉妹に飛ぶ。
「5、4、3、2、1――撃て!」
コルネの炎。ユーフィの衝撃波。ボーンのランス。5秒ごとの正確な斉射がレプリカの先頭列を溶かし、その隙にチェロとテューバが3メートル後退し、盾を再展開する。
「次! ヴィオラ、クララ、狙撃で天井を落として! 通路を物理的に塞ぎなさい!」
「了解ですわ! クララ、合わせて!」
「風を読みました。……3、2、1」
ヴィオラのレールガンとクララの真空刃が通路の天井を同時に撃ち抜いた。巨大なコンクリートの塊が崩落し、レプリカの群れと私たちの間に土砂の壁ができる。
だが、それも一時的だ。土砂の向こうで、ナノマシンが瓦礫を分解する不気味な音がもう聞こえている。
「後方車両、威嚇射撃で追撃を遅延させろ! 弾を惜しむな!」
カイルの号令に8号車の固定砲座が火を噴いた。騎士たちが走行する車体の上でバランスを取り、後方のレプリカに魔導弾を連射する。
「6号車、左舷も撃て! 壁際から回り込んでくるぞ!」
若い衛兵ニコルが叫び、仲間たちが砲座を旋回させる。空薬莢が跳ね、排水路に甲高い金属音が響き渡った。
「殿はわたくしが!!」
セフィラが1号車の屋根から飛び降り、通路の中央に立った。
「パッチ・オフは使いません。通常出力で2分だけ」
「了解だ、お嬢! 全車、最大速度ッ!」
カイルの号令で10台が排水路を爆走する。壁の苔が吹き飛び、天井から水滴が霧のように舞い上がる。その轟音を背に、白銀の閃光が排水路を貫いた。
◇◆◇◆◇
第二退避点。息を切らしたアークが停車する。
「セフィラ、帰還を」
「……帰還しました。損傷、軽微。2分3秒で57体を停止」
安堵の息が漏れる中、リュウガが壁にもたれて瞼を閉じた。
「俺もかつて、ああなるはずだった。名前もなく、感情もなく、命令を実行するだけの器に」
彼の手が私を探していた。私はその手を握り返した。
「お前が俺を救ったように、あの人たちも救える。……そうだろう」
「当たり前よ。フォーマットされたって何度でもやり直す。名前だって、もう一回贈ればいい」
ソフィアが演算球体を弄りながら、不敵に笑った。
「ここは退くが、ワシの計算は始まったばかりじゃ。ジャッジメントの弱点は必ずある。完璧な論理には必ず穴がある。……アリスの絶望を終わらせるのは、アリスの希望を継いだお主の仕事じゃ、エリアーナ」
アリスの光が私に。アリスの影がジャッジメントに。
2000年前の一人の女性の「希望と絶望」が、この地下で最後の決算を迎えようとしている。
「受けて立つわよ。あんたの影を、私のスパナで叩き起こしてやるんだから!!」




