第109話:【贈名】名前を贈る者たち
地下に潜って三日目。排水路の暮らしにも、少しずつ輪郭が見え始めていた。
ヴォイスの人々は約50人。帝国が廃棄した期限切れの合成食糧ブロックを拾い集め、松明の灯りだけで命を繋いでいる。水は地下水を汲んで使うが、重金属まみれで、ハープとテューバが浄化装置をフル稼働させなければ飲めたものじゃない。
何より深刻なのは、彼らが「直す」ことを知らないことだった。
壊れた照明器具、ひび割れた水瓶、歪んだパイプ。どれも少し手を入れれば使えるものばかりなのに、「壊れたら捨てる」以外の選択肢を持たない。帝国の管理下では、市民が自分で何かを修理する必要も、その技術を学ぶ機会もなかったのだ。
「チェロ、配給の列が乱れてるわ。整理して」
「了解ですわ。……皆様、順番を守ってくださいまし。一人一個ずつ、確実にお渡しします」
チェロが毅然と立ち、列を整理する。最初は戸惑っていたヴォイスの面々も、彼女の揺るがない規律に導かれ、おずおずと並び直した。
隣ではオルガが、栄養失調の子供にスープを飲ませている。ルーテが無言で床を磨き、テューバが崩れた壁を補強し、ハープが隅々の水質をチェックする衛生班の仕事。
そして子供たちの集まる一角では、三馬鹿が大奮闘していた。
「ねーねー、これ見て! ボクの剣、火が出るんだよ! ……あ、大丈夫、小さい火ね!」
コルネが指先にぽっと灯した小さな炎を見せると、子供たちの目が僅かに動いた。笑いはしない。でも、火の揺らめきを追う瞳には、抑えきれない「興味」の片鱗がある。
「ほらほら、次はあーしの番! この髪飾り、キラキラでしょ? つけてあげよっか?」
ユーフィが自分のリボンを外して女の子の髪に結ぶと、その子は不思議そうに自分の頭に触れた。装飾品という概念を、生まれて初めて体験しているのだ。
私はその光景を見守りながら、ラボ車で音の刺激プログラムを調整していた。108話の失敗を踏まえ、心拍のリズムから始めた微弱な正弦波。三日間かけて周波数を少しずつ広げ、今日はようやく「水滴の音」まで到達している。
その時、耳に微かな旋律が届いた。
誰かが、歌っている。
私はハンダごてを置いて音の出所を探った。排水路の奥、壁の窪みに身を寄せた痩せた女性が、唇をほとんど動かさずに、かすかなハミングを漏らしている。
それはメロディとも呼べないほど断片的な、わずか三音の繰り返し。だが確かに「音の配列」だった。管理AIの指令音でも、ドロイドの駆動音でもない、彼女自身の内側から湧き出た振動。
「ピッコ、あの女性は?」
「脳波スキャン結果。感情パッチの経年劣化が顕著。抑制フィルターに微細な穴が開いていますわ。そこから「音への感受性」が漏れ出している状態。……つまり、パッチのバグのおかげで彼女は「音」を感じられるのですわ」
パッチのバグ。皮肉にも、帝国の完璧なシステムの「綻び」が、この女性に音楽を聴く力を与えていた。
私はアークの廃材置き場を漁った。そして見つけた。検疫要塞で回収した旧世界の遺物の中に、手のひらサイズの壊れたオルゴールがあった。ゼンマイが折れ、歯車が二つ外れている。
「……これなら、10分で直せるわ」
折れたゼンマイをスパナで伸ばし、外れた歯車を嵌め直す。ハンダで固定し、余分な錆を削り取る。カチッとネジを回すと、ジジジ……と錆びた機構が震え、不格好だが確かな旋律が流れ出した。
私はその女性の前にしゃがみ、オルゴールを差し出した。
「はい。あなたに」
女性が戸惑ったように私とオルゴールを見比べる。おずおずと手を伸ばし、掌に乗せた瞬間、彼女の目が見開かれた。
振動が伝わっている。手のひらを通じて、骨を通じて、脳に直接。管理AIのフィルターを通さない、物理的な「生の振動」。
女性の唇が震えた。目の縁に、光が滲む。泣いているのではない。涙腺の使い方も、まだ知らないのだから。ただ、彼女の内側で、2000年間眠っていた何かが、ようやく目を開けようとしていた。
「メロディ」
私は、彼女に名前を贈った。
「あなたの名前よ。あなたが無意識に口ずさんでいた、あの三つの音から取ったの」
「メロディ……」
彼女がその音を舌に乗せた瞬間、昨日のマルクと同じ震えが走った。自分だけの振動。自分だけの音。世界に一つしかない、名前という共鳴。
その様子を見ていたリュウガが、微かに息を呑んだ。
「……この旋律を知っている。アリスがよく口ずさんでいた」
「え? このオルゴールの曲を?」
「ああ。2000年前、ラボで作業する時にいつも。……音楽だけは、時間を超えるものらしい」
「2000年経っても消えないのね、音楽って」
「ああ。……お前の寝言847件も、帝国のデータベースに永久保存されているがな」
「なんでそこに着地するのよッ!」
◇◆◇◆◇
その日から、名付けは一家の「日課」になった。
私が一人ずつ話を聞き、癖や特徴を見つけて名前を考える。手先が器用で、廃材を組み合わせるのが上手い男には「クラフト」。通路の壁をいつもコンコン叩いて反響を確かめている少年には「ノック」。
シスターズたちも自然と手伝い始めた。
「この方、いつも他の方の毛布を直してくださいますわ。『ニット』はいかがかしら?」
オルガが聖母の笑みで提案し、チェロが「記録しておきますわ」と手帳に書き込む。
「この子、走るのめっちゃ速いんだよぉ! 『ダッシュ』でどう?」
ボーンが子供を肩車しながら叫ぶ。
全員ではない。名前を受け入れられない者もいる。恐怖で固まる者、拒絶する者。それでいい。全員を一度に救おうとした108話の失敗を、私は忘れない。一人ずつ、その人のペースで。
「母様、地上にドローンの反応」
ヴィオラの声が通信に入り、空気が引き締まった。
「帝国の追跡型。3機。地下入口の半径200メートルを捜索中ですわ」
「リディア、対応をお願い!」
「任せなさい。ドローン3機、電磁欺瞞モードで引き離すわ。……ルーテ、ハープ、入口の偽装を」
「……了解。痕跡、消す」
ルーテとハープが音もなく地上へ滑り出し、入口周辺の足跡や熱源痕跡を物理的に消去していく。リディアのドローンが敵を別方向へ誘導し、数分後に「逸れた」とヴィオラが報告。
潜伏の緊張感。私たちがここにいることは、まだ帝国に知られていない。だがそれも時間の問題だ。
「エリー。名前を贈ることは、この人たちのアイデンティティを物理的に再構築する行為だ」
夜、ラボでリュウガが言った。
「帝国のナノマシンは、名前を消すことで個人の自己認識を根絶している。名前を取り戻すことは、パッチに穴を開ける行為と同義だ。……だが、完全にパッチを除去するにはピッコの外科手術が必要になる」
「つまり、名前は『入口』ってことね。ドアをノックしただけで、まだ中に入ってない」
「そうだ。だが、ドアが開くかどうかは、ノックする者の誠意にかかっている」
「……大丈夫よ。私、ノックだけは得意だから。壊れたドアは蹴破るし」
「それはノックとは言わないのではないか?」
「うるさいわね、細かいことは気にしないの!」
私は、メロディが抱きしめたまま離さないオルゴールのことを思い出した。あの三つの音。アリスが口ずさんでいたという旋律。2000年の時を超えて、一人の女性の眠りを覚ました不完全な音楽。
全員を一気に救えなくても。
一人ずつ、名前を贈ろう。一つずつ、音を届けよう。
それが私にできる、世界一不器用な修理の続きだ。
『母様、ログ保存完了だお。本日の命名数:7名。「マルク」「メロディ」「クラフト」「ノック」「ニット」「ダッシュ」「シグナル」。……てぇてぇの種、着実に撒かれてるお(゜∀゜)』
「ファーファ、たまにはいいこと言うじゃない」
『えへへ。ファーファはへその緒だからお! みんなの名前も、ちゃんと繋いでおくお!』
地下の闇に、灯火が七つ。
明日はもっと増やしてやる。




