第108話:【灯火】地下レジスタンス「ヴォイス」の灯火
松明の光が、地下排水路の湿った壁面を赤く揺らしている。
私たちを取り囲んでいるのは、数十人のボロ布を纏った男女だった。胸には全員、「×」で消した番号の傷跡がある。帝国が市民に刻む管理番号を、自分で潰した痕だ。
先頭の男が、錆びたパイプを構えて私たちを睨みつけている。
「……止まれ。何者だ」
低く、かすれた声。喉を使い慣れていない人間特有の不器用な響き。この帝国では市民同士の会話なんて必要ない。番号を提示して管理AIの指示に従えば、一日が無音のまま終わるのだから。
「旅の者よ。帝国の敵じゃないわ。……あなたたちは?」
私が一歩前に出ると、男の目が微かに揺れた。
「俺たちは……『不適応個体』だ。帝国の適性プロセスで弾かれ、廃棄処分を受けるはずだった。だが逃げた。ここに潜った」
リュウガが静かに補足する。
「帝国の市民管理は、脳内ナノマシンによる神経伝達物質の定量制御で成り立っている。怒り、悲しみ、歓喜……あらゆる感情の振幅を一定値以下に抑え込む『幸福感パッチ』だ。ごく稀に、その抑制を体質的に受け付けない個体が生まれる」
感情を消す薬が効かない人たち。だから「不適応」として捨てられた。
「番号は捨てた」と男が言った。「だが、代わりに何と名乗ればいいか分からん。俺たちには……名前がない」
名前が、ない。
アステリアでもガレリアでも、名前は生まれた時に親がつけてくれるものだ。それは「お前はお前だ」という最初の承認であり、世界に存在する許可証。それがない人たち。
私は男の前にしゃがみ込んだ。パイプの切っ先が鼻先をかすめるが、構わない。
「あなた、さっきからずっと壁に印をつけてたわよね。左手でマーカーを使って、分岐点に丸を描いてる」
男が僅かに目を見開いた。
「……仲間が迷わないように、道しるべを残している」
「マルク。あなたの名前よ。『印をつける者』から取ったの」
男が――マルクが、凍りついたように動かなくなった。
「……まるく?」
「そう、マルク。マ・ル・ク」
彼がその音を口にした瞬間、喉仏が大きく上下した。名前を呼ぶという行為。それは彼にとって、生まれて初めての「自分だけの振動」だった。
「よろしくね、マルク。私はエリアーナ。世界一不器用な修理屋よ」
◇◆◇◆◇
マルクたちに案内されたのは、旧パリの排水路網の最深部だった。コンクリートの天井は苔むし、電力はない。照明は松明と蓄光性のナノマシン結晶だけ。
「電気もないの……?」
「帝国の管理網に接続されたインフラは全て監視下にある。電力を使えば即座にドロイドが飛んでくる」
なるほど。彼らはシステムから完全に切断されることで身を守っている。その代償が、石器時代のような暮らし。
シスターズが即座に動き始めた。ルーテ、ハープ、テューバが地下水の浄化に取りかかり、オルガが負傷者を手当てし、コルネ、ユーフィ、ボーンが子供たちに近づいていく。
「みんなー、遊ぼうよぉー!」
ボーンが駆け寄ると、子供たちは最初怯えていたが、彼女のあまりのテンションに困惑し、それから――ほんの少しだけ、近づいてきた。笑わない。泣かない。でも「近づく」。この場所では、それだけでも奇跡に近い反応だった。
◇◆◇◆◇
その夜、私はラボ車で廃材の山と格闘していた。簡易的な無線受信機を組み上げている。
「あの人たちに、外の音を聴かせたいの。風の音、雨の音。この世界にはまだ豊かな『ノイズ』があるって教えてあげたい」
背後のリュウガが頷きつつも、声を低くした。
「エリー、少しだけ注意しろ」
「ん? なにを?」
「長年感情を抑制されてきた脳に強い刺激を与えれば、神経系がショートする。最悪、廃人になる。……音量を最小限から始めろ。壊れた機械に通電する時と同じだ」
「なるほど、修理の基本を人間に適用する……ね」
翌朝。地下のホールで無線機のスイッチを入れた。
ヒュウウウウウ……。
地上の風の音が流れ出した。誰にも管理されない風。
ある者は目を閉じた。ある者は首を傾げた。
そして――若い女性が両耳を押さえて悲鳴を上げた。
「止めて……! 処理できない……! 頭が割れる……!」
続いて三人、四人と倒れ始める。脳が「未知の入力」を拒絶したのだ。
「スイッチ切って! 今すぐ!」
無線機を止め、倒れた者たちをオルガとテューバが介抱する。
私は自分の手を見つめた。震えている。また、やっちゃった。「良かれと思って」踏み込んで、相手を傷つけた。
ピッコの冷静な声が通信越しに届く。
「方向は正しいのですわ。ただ量が間違っていた。いきなり風の音は情報量が多すぎます。……心拍のリズム、呼吸の音。最も原始的な振動から始めなさい。修理と同じでしょう? マイクロアンペアから少しずつ上げるのが常識ですわ」
修理の基本。微弱な信号から、少しずつ。
私は無線機のチューニングを変えた。単純な正弦波。ほとんど聞こえない音量で、そっと流す。
ポ……ポ……ポ……。
パニックは起きない。ほとんどの者は気づいてすらいない。でも、一人の老人が微かに首を傾げた。
それでいい。今日は、それだけでいい。
「壊れてるんじゃない、眠ってるだけなの。時間がかかるけど、ゆっくり、一人ずつ」
◇◆◇◆◇
その夜。アークの屋根で膝を抱えていると、リュウガが隣に座った。
「……落ち込んでるわよ。あの人たち苦しませちゃったんだから」
「ああ。だが、お前は即座にやり方を変えた。アリスにはできなかったことだ」
「……どういう意味?」
「アリスは完璧な配分で人々を救おうとし、暴動が起きた時に修正できなかった。お前は違う。間違えたら手を止めて、やり直す。……アリスが2000年前に学べなかったことを、お前は今日学んだ」
「……褒めてるの? 慰めてるの?」
「両方だ」
リュウガの左手が、私の震える右手をそっと包み込んだ。
その時、階段の下からマルクが現れた。松明の光に照らされた薄暗がりの中で、彼は不器用に、たどたどしく口を開いた。
「マルク……マルク……。俺は、マルクだ」
何度も、何度も。噛み締めるように。名前という音の振動が喉を通って空気を震わせるたびに、彼の瞳の奥で何かが灯り始めていた。
「……うん。あなたは、マルクよ」
マルクが、初めて――ほんの僅かに――口角を上げた。笑顔とは呼べない。唇が少し動いただけ。でもそれは、2000年間止まっていた時計の秒針が、カチリと一つ進んだ瞬間だった。
「……ありがとう、エリアーナ。明日も、その音を聞かせてくれるか」
「もちろん。もっと小さい音から、少しずつね」
彼が闇に戻っていく背中を見送りながら、私は拳を握った。
完璧じゃなくていい。一人ずつ、一歩ずつ。壊れた時計の秒針を、一つずつ動かしていく。
「さあ、明日から忙しくなるわよ。音の刺激プログラムを段階的に設計するわ。心拍音から始めて、呼吸、足音、水の滴り……周波数帯を一つずつ広げていく」
「了解した。旧世界の音響データベースから原始的なパターンを抽出しておこう」
「ありがと。……あ、でも私の寝言だけは絶対使わないでよ?」
「847件の中にも心拍同期率の高いサンプルが――」
「使わないでって言ってるでしょーッ!!」
『母様の絶叫は世界一のノイズだお(゜∀゜)! これを流せば帝国民が一発で目覚めるお!』
「ファーファも黙りなさいッ!!」
地下の闇に、小さな灯火が一つ。マルクという名の、世界で一つだけの光。
明日はもう一つ、灯してやるんだから。




