第106話:【暗影】管理者個体、もう一人のリュウガ
自販機事件から五日。
キャラバンは白い街道を避け、帝国の郊外を縫うように西へ進んでいた。ヴォルフが即席で仕上げた「廃棄物回収車」の偽装は思いのほか優秀で、帝国の無人検問を三度通過したが、いずれも停止を求められなかった。あの要塞で書き換えた認証データが、きちんと効いている。
「ゴミ扱いが、こんなに役に立つとはな」
ヴォルフが自嘲気味に笑い、リディアが「あんたの油臭さが偽装に真実味を与えてるのよ」と毒を吐く。二人の軽口も、今ではキャラバン内の日常風景だった。
旧フランス圏に入ると、街の風景が微かに変わった。
旧ドイツ圏の幾何学的な直線と正方形の都市設計とは異なり、ここには緩やかな曲線と、かつての石造りの建物を白いナノセラミックで覆い直した「上書きの痕跡」が見られた。2000年前の街並みが完全に消されたのではなく、その上から管理の白い皮膜が被せられている。
「……昔のヨーロッパの街って、こんなに美しかったのね」
私はモニターに映る、かつてのフランスの古城の残骸を見つめた。尖塔は折れ、壁は崩れていたが、その優雅な曲線はナノセラミックの下からなお息づいている。
「2000年以上前の世界では、人間が自分の手で石を積み、自分の美意識で街を作った。効率とは無関係の、ただ美しいから美しくした建築だ」
リュウガが、どこか懐かしそうに呟いた。
「あんた、見たことあるの? この街を」
「……データとしては、な。アリスの記録に残っているのを見せてもらっただけだ。彼女はこの地を離れる前、最後に振り返って泣いていた」
その言葉に、私は胸が痛んだ。アリスが愛し、そして捨てざるを得なかった世界。それが今、感情のない白い管理の下で息を止めている。
「母様、偵察班から第三報ですわ」
オーボエが通信ログを開いた。今回はヴィオラが詳細な報告を送ってきていた。
『こちらヴィオラ。旧フランス圏の管理体制について報告しますわ。旧ドイツ圏と比較して、監視ドローンの密度が1.5倍に増加。街路のセンサー間隔も狭まっています。奥に進むほど管理が厳しくなる構造のようですわ。そして――』
報告文が、一拍だけ途切れた。ヴィオラにしては珍しい。
『――市街地の中枢部に、見慣れない部隊を確認しました。白銀の甲冑を纏った人型ユニット。動きはシスターズと酷似していますが、個体間の差異がゼロ。全員が同じ顔、同じ体格、同じ歩幅。……そして、その顔は』
ヴィオラの声が、初めて聞くほど硬くなった。
『お父様と、全く同じ顔でしたわ』
車内の空気が、凍った。
「……なんですって?」
私は通信機を掴み、聞き返した。
『繰り返します。リュウガ様と全く同じ外見の個体が、少なくとも12体確認されました。ただし、瞳に光がありません。感情の痕跡が一切ない、完全な無表情。胸には市民と同じ「番号」が刻まれています。……00、01、02という具合に』
沈黙。
私はゆっくりとリュウガの方を向いた。
彼は窓の外を見つめたまま、微動だにしなかった。だが、仮想の右手が僅かに震えていた。
「リュウガ。……あれは、何なの」
長い沈黙の後、リュウガが口を開いた。
「……管理者個体。俺のデータを元に量産された、感情を去勢した複製体だ」
「複製……? あんたの?」
「ああ。アリスが極東に持ち出したのは俺のオリジナルだけだが、このクロノスに残されたデータから、ソフィアが、残されたシステムが帝国を管理するための『道具』として俺のコピーを作り続けたんだろう。名前もなく、番号だけで呼ばれ、摩耗すれば廃棄される。使い捨ての管理者だ」
リュウガの声は平坦だったが、仮想の右手の震えは止まらなかった。
「俺も、エリーと出会わなければ、ああなっていたかもしれない」
その一言が、胸に突き刺さった。
名前を持たない。感情を持たない。ただシステムの指示通りに動き、壊れたら捨てられる。それは、かつてリュウガがコールドスリープの中で2000年間強いられていた「虚無」そのものだ。
「リュウガ……」
「大丈夫だ。俺は揺らがない。……だが、あいつらを見ると、考えずにはいられない。俺に名前をくれたのはお前だ。俺に感情を教えたのもお前だ。……あいつらには、それがない。誰一人として、手を差し伸べる『エリー』がいなかったんだ」
リュウガの瞳が、静かに揺れていた。怒りではない。悲しみだ。自分と同じ顔をした「兄弟」たちが、心を奪われたまま道具として使われている事実への、深い悲哀。
「リュウガ、あんた今、あの子たちを『助けたい』って思ってるでしょ」
「……不合理だな。今の俺たちには、そんな余裕は――」
「いいのよ。不合理で」
私はリュウガの仮想の右手を、両手で包み込んだ。
「私だって同じよ。あの自販機の女の子を見捨てられなかったのと、同じ。……でも今は、まだその時じゃない。帝国の心臓を叩いて、システムそのものを書き換えないと、あの子たちは永遠に道具のままよ」
「……ああ。分かっている」
「だから今は耐えて。あんたの兄弟たちのことも、あの女の子のことも、全部まとめて私が直してあげるから。……世界一の修理屋を、舐めないでよね」
リュウガが、僅かに目を細めた。震えが止まる。
「……ああ。お前のハンダ付けなら、きっと直せるだろうな」
「当たり前でしょ!!」
その時、ヴィオラから続報が入った。
『母様、追加報告ですわ。管理者個体の部隊が、キャラバンの移動ルートに近い廃墟群を定期巡回していることが判明しました。巡回の周期は4時間おき。次の巡回まで、あと1時間40分ですわ』
「1時間40分。……このまま進めば鉢合わせするわね」
カイルが地図を広げ、迂回ルートを検討し始めた。
「南へ迂回すれば巡回圏を避けられますが、3日分の遠回りになります。正面を突っ切れば30分で通過できますが、発見されるリスクが……」
「……南へ迂回しましょう。今は見つからないことが最優先よ」
あの自販機事件の失敗が脳裏をよぎった。衝動的に動けば家族を危険に晒す。今は耐える時。管理者個体たちに会うのは、こちらの準備が万全になってからだ。
「全車、南へ進路変更。廃墟群を迂回して、旧フランス圏の南部ルートを取りますわ」
オーボエの号令でキャラバンがゆっくりと舵を切る。白い街の影から離れ、崩れた古城の残骸が点在する丘陵地帯へ。ここはまだ管理の手が完全には届いていない「灰色の領域」だ。
リュウガの瞳は、もう元の穏やかさを取り戻していた。私が手を握ったまま離さなかったからか、それとも「必ず直す」という言葉が効いたのか。
「……ねえ、リュウガ」
「何だ?」
「あの管理者個体たち、名前がないんでしょ。番号だけで呼ばれてる」
「ああ……」
「……じゃあ、いつか全員にちゃんとした名前をつけてあげなきゃね。あんたの兄弟なんだから」
リュウガが、不意を突かれたように私を見つめた。
「……お前は本当に、底なしのお人好しだな」
「お人好しじゃないわよ。修理屋よ。壊れてるなら直す。名前がないなら付ける。それだけのことよ」
リュウガは何も言わず、ただ私の手を強く握り返した。
バックミラーの中で、白い街並みが遠ざかっていく。その中を、リュウガと同じ顔をした「兄弟」たちが、名前も感情もなく、ただ歩き続けている。
「……待ってなさい。全員まとめて、直してあげるから」
私の呟きは、誰にも聞こえないほど小さかった。
『ファーファ、本日のログ保存完了だお。項目名:「管理者個体の発見」。分類:世界の闇、レベル最大。……でも、母様が「名前をつける」って言った時の父様の顔、ファーファは見逃さなかったお。あれは間違いなく「惚れ直した顔」だったお』
「ファーファ、余計な解析をするんじゃないのよッ!」
私は声を荒げた。だが、通信機を握る指先が熱いのは、怒りのせいじゃない。頬が火照っているのも、砂漠の気温のせいなんかじゃない。
「……あらあら。母様、声は怒っていらっしゃるのに、お耳が真っ赤ですわよ?」
次女オルガが、聖母のような微笑みで私の耳元を指差した。
「正直に申し上げますと、母様。現在の顔面温度が通常値の147%に達していますわ。これは怒りではなく、明らかに羞恥と歓喜による複合的な血流増加ですわね」
長女チェロが眼鏡を光らせ、容赦のない委員長モードで数値を読み上げる。
「オルガ! チェロ! あんたたち、いい加減に――」
「……母様」
背後から、小さな声がした。
振り返ると、八女テューバが縦巻きロールを指先で弄りながら、顔を真っ赤にして俯いている。彼女は何かを言おうとして、何度も口を開閉した末に、ようやく蚊の鳴くような声を絞り出した。
「……母様と父様の。……その。……手を繋いでる、の。……わたし、見てました。……ずっと」
一拍の沈黙。
「……す、すごく。……素敵、でした。……わたしも、いつか。……あんなふうに。……誰かと」
テューバの声は尻すぼみに消えていき、最後は蒸気機関のように顔から湯気を吹き出して、ハンマーの影に隠れてしまった。
車内が、どよめいた。
「テューバが喋った! テューバがあんなに長く喋ったんだよぉぉぉおおおお!」
ボーンが通信越しに絶叫し、コルネが「テューバ、かわいい!」と跳ね回り、ユーフィが「マジ尊い、つーか泣ける」と鼻をすすった。
「……てぇてぇ連鎖が止まりませんわ。本日のログ、特別保存版に格上げですわ」
クララが鉄扇の影で目を潤ませながら、静かにカメラのシャッターを切り続けていた。
丘陵を越える風の中に、笑い声と歓声が溶けていった。




