第105話:【事件】自販機と子供の笑顔、最大級のバグ
潜入から三日が過ぎた。
リディアの偽装は完璧に機能していた。帝国の輸送車両に擬態したキャラバンは、白い街道を粛々と西へ進み、検問を二度通過したが、いずれも識別コードの照合だけで素通りできた。以前書き換えた認証データが、きちんと効いている。
私たちは旧ドイツ圏内の中規模都市を迂回しながら、旧フランス圏方面への移動ルートを探っていた。
「母様、補給のために市街地に寄る必要があります。冷却液の在庫が心もとないですわ」
チェロの報告に、私は渋々頷いた。
できれば街には近づきたくない。だが、10台のキャラバンを維持するには物資が要る。カイルが選んだのは、郊外の小さな物流拠点。帝国の自動配送センターに紛れ込み、必要な資材だけを調達して即座に離脱する計画だった。
「ルーテ、ハープ、先行偵察を。私とヴィオラが通信支援に回りますわ」
オーボエの指示で偵察班が動く。私はアークに残り、モニター越しに街の様子を監視していた。
白い建物。白い道路。番号を胸に刻んだ人々が、無表情で行き交う。三日間ずっと見てきた光景だが、慣れることはない。
その時だった。
モニターの端に、小さな影が映った。
配送センターの裏手。壊れた自動販売機の前で、5歳くらいの女の子がしゃがみ込んでいた。何度もボタンを押しているが、機械は沈黙したままだ。
この帝国では、壊れた機械は「修理」されない。「廃棄」されるだけだ。修理よりも新品の投入の方が効率的だという、冷徹な論理に基づいて。だから壊れた自販機は放置され、やがて回収されて溶かされる。
女の子は何度もボタンを押し、何も出てこないことを確認すると、小さな肩を落として立ち去ろうとした。
その瞬間、彼女の目元に、微かな「光」が見えた気がした。
涙ではない。この帝国の子供たちは泣き方を知らない。だが、何かが「欲しい」のに手に入らないという、最も原始的な「寂しさ」の片鱗が、その無表情の奥に揺らいでいた。
ルーテの警告が脳裏をよぎる。
『壊れた自販機を発見。母様を近づけないで。以上』
分かってる。分かってるのよ、ルーテ。
ここで目立ったら終わりだ。偽装が破れる。キャラバンが危険に晒される。家族全員の命がかかっている。
分かってるのに。
気づいた時には、私はアークのハッチを蹴り開けて走り出していた。
「母様ッ!」
チェロの制止が背中に飛ぶ。だが、私の足は止まらなかった。
◇◆◇◆◇
自動販売機の前にしゃがみ込み、背面パネルを開ける。中身を見た瞬間、エンジニアの血が沸騰した。
「……なによこれ。基板もモーターも無傷じゃない。単なる接触不良じゃない。端子が一本外れてるだけよ。こんなの、30秒で直せるわ……。壊れたら捨てるなんて、機械に対する冒涜だわ」
ポケットからドライバーを取り出し、端子を嵌め直す。基板の埃を息で吹き飛ばし、配線を確認。パネルを閉じて、ボタンを押した。
ガコン。
冷たい缶が一本、取り出し口に転がり落ちた。ラベルには見覚えのある赤い文字。コーラだ。2000年前の製造ラインがこの帝国ではまだ稼働しているらしい。
「はい、どうぞ」
私は缶を女の子に差し出した。
彼女は不思議そうに缶を見つめ、おずおずと受け取り、プルタブを引いた。プシュッという音に目を丸くして、一口飲んだ。
そして……。
その唇の端が、ほんの僅かに、上向きに動いた。
笑顔。
感情を去勢されたはずの子供の顔に浮かんだ、ほんの一瞬の、不完全な笑顔。
「美味しい……?」
女の子は答えなかった。言葉を持たないのか、それとも「美味しい」という概念を知らないのか。だが、もう一口飲み、もう一度だけ唇の端を上げた。
次の瞬間だった。
ビィィィィィ——ッ!!
街全体に、鼓膜を突き刺すような警報音が鳴り響いた。
「母様ッ! 街の監視システムが反応しましたわ!」
アークからオーボエの鋭い通信が飛ぶ。
自販機の表面に刻まれていたセンサーが、私の「修理行為」を検知したのだ。廃棄予定の機器に対する未登録の物理干渉。帝国のシステムにとって、それは管理サイクルを破壊する「叛逆行為」に他ならない。
さらに悪いことに、女の子の脳内ナノマシンが「笑顔」という異常な感情パルスを記録し、それが街の管理AIへとリアルタイムで報告されていた。
『警告。セクター47に未登録の物理干渉を検知。廃棄予定資産への不正アクセス。および、市民ナンバー4721の感情バッファに異常値を確認。パターン分析:「笑顔」。危険度:最大。対象エリアの浄化プロトコルを起動』
合成音声が、街のスピーカーから無機質に響き渡る。
「笑顔が……危険度最大ですって……?」
私は絶句した。だが、呆然としている暇はなかった。
「エリー、走れッ!」
リュウガの声がアークのスピーカーから轟いた。
街路の角から、白銀の装甲を纏った治安維持ドロイドが次々と現れる。私は女の子を背に庇い、全力でアークへ向かって駆け出した。
「コルネ、ユーフィ! 母様を回収して!」
オーボエの号令で、バイクに跨ったコルネとユーフィが猛スピードで飛び出してきた。コルネが私を引っ掴んでバイクの後ろに乗せ、ユーフィが追いすがるドロイドを薙刀で叩き落とす。
「母様、マジでやらかしたじゃん! ルーテ姉が泣くよ!」
「泣かないわよ、あの子は! ……ごめん、でも、あの子が……!」
女の子は、私が去った後も、コーラの缶を両手で握りしめて立ち尽くしていた。やがて駆けつけたドロイドに連れ去られる彼女の姿が、バイクのミラーの中で小さくなっていく。
◇◆◇◆◇
アークの車内。全員が集まった緊急会議。
私は全員の視線を浴びながら、俯いていた。
「……ごめんなさい。自分で『目立つな』って言ったくせに、一番最初にやらかしたのが私だわ」
沈黙。
「……母様」
最初に口を開いたのは、ルーテだった。いつもの無表情だが、その瞳には微かな「呆れ」と「諦め」が同居している。
「……知ってた。母様は、壊れた機械と泣いてる子供を見たら、絶対に動く。だから、近づけるなと言った」
「ルーテ……」
「……でも。あの子は、笑った。……それは、悪いことじゃない」
ルーテの不器用な肯定に、車内の空気が少しだけ和らいだ。
「しかし、監視システムに検知された以上、このエリアには長居できません」
カイルが地図を広げる。
「浄化プロトコルの範囲が広がる前に離脱しましょう。幸い、まだキャラバン全体への追跡は始まっていない。自販機の修理者の顔はフードで隠れていましたから、個人の特定までは至っていないはずです」
「カイルの言う通りですわ。今回は教訓として受け止めて、移動方針を見直すべきですわ」
オーボエが厳しい表情で提言した。
「これまでは街道沿いを堂々と進んでいましたが、今後は都市部への接近を最小限に抑え、郊外の廃墟群を縫うように移動します。物資の調達も、無人の配送ステーションに限定。人のいる場所には、極力近づかない」
「……慎重路線、ね。まぁ、今の私が言える立場じゃないわよね」
「分かっているなら結構ですわ。……ですが母様」
オーボエの声が、僅かに柔らかくなった。
「あの子供の笑顔は、わたくしたちがこの帝国で最初に見つけた『希望』ですわ。……いつか必ず、この国中の子供たちにあの笑顔を取り戻す。そのためにも、今は耐えなさいまし」
「……うん。ありがとう、オーボエ」
リディアが端末を叩きながら、冷静に補足した。
「良い知らせもあるわよ。今回の事件で、帝国の監視システムの反応速度と検知範囲の実データが取れた。ドロイドの出動パターン、通信の暗号強度、それから『笑顔』が最大級の脅威として認定されるという異常な優先順位。……こんな情報、外から覗いただけじゃ絶対に手に入らなかったわ」
「結果オーライって言いたいの?」
「言わないわよ。でも、転んでもタダでは起きないのが、あんたの取り柄でしょ」
リディアの不敵な笑みに、私は少しだけ救われた。
ヴォルフが作業着の袖で汗を拭きながら立ち上がった。
「よし。ならばキャラバンの偽装をさらに強化するぜ。帝国の物流車両だけじゃなく、廃棄物回収車にも擬態できるようにする。ゴミに紛れりゃ、監視の目も緩むだろう」
「ゴミに紛れるって、あーしらのアーク、マジでゴミ扱いじゃん……」
ユーフィが苦笑し、コルネが「ボクたち、世界一豪華なゴミ収集車だね!」と笑った。
「全車、進路変更。郊外ルートへ移行しますわ」
オーボエの号令で、キャラバンが静かに動き出す。白い街並みを避け、廃墟の影を縫うように、一家は帝国の奥地へと潜り始めた。
バックミラーの中で、白亜の都市が遠ざかっていく。あの自販機はもう撤去されただろう。あの女の子の脳内ナノマシンは、きっと「笑顔」のデータを消去されただろう。
でも、私は見たのだ。
あの子が、笑ったのを。
「……絶対に取り戻すわ。この国中の笑顔を、私のスパナで」
私は前を向いた。旧フランス圏方面へ続く灰色の郊外ルートが、地平線の向こうへと伸びている。
『ファーファ、本日のログ保存完了だお。項目名:「自販機事件」。分類:母様の衝動的な正義感による偽装破綻未遂。……でも、あの子の笑顔は、ファーファのメモリの中で永久保存だお。これだけは、誰にも消させないお』
ファーファの液晶に、小さなハートマークが一つだけ灯っていた。




