第104話:【潜入】白亜の静寂、完璧な墓場
要塞の裂け目を抜けた瞬間、世界が変わった。
灰色のカオスゾーンを背に、私たちの前に広がったのは、目を疼くほどに白い都市だった。
「……嘘でしょ」
ハンドルを握ったまま、私は言葉を失った。
道路に段差がない。継ぎ目がない。ゴミがない。雑草がない。街路灯は等間隔に並び、どの建物も同じ高さ、同じ角度、同じ白さで幾何学的に配置されている。走っている車両は全て無人の電気駆動で、エンジン音すらない。排気ガスも蒸気もない。油の匂いも、鉄が焼ける匂いも、何もない。
アステリアの王都は、石造りの壁に蔦が絡み、裏路地では蒸気パイプが剥き出しで走り、マナの匂いと人々の喧騒が入り混じっていた。ガレリアの帝都は、煤けた煙突と泥臭いスラムの活気があった。
ここには、その全てがない。
「極東の文明とは、桁が違いますわね」
助手席のピッコが、バイザー越しにデータを読み取りながら呟いた。彼女の声には、いつもの傲慢さではなく、純粋な驚嘆が混じっている。
「建築物の構造強度、エネルギー効率、ナノマシンの制御精度。どれを取っても、極東の技術とは二桁から三桁は上ですわ。……2000年前の技術がほぼそのまま維持されている。いいえ、一部はアリスの時代をさえ超えている可能性がありますわ」
「つまり、私たちがカオスゾーンで死に物狂いで手に入れた技術が、ここでは当たり前の日常ってこと?」
「残酷な言い方をすれば、そうですわ、母様」
背筋が冷たくなった。エンジニアとしての矜持が、音を立てて軋んでいる。
リディアが偽装を施したキャラバンは、帝国の物流車両に擬態して白い街道を進んでいた。外装の塗り替えと識別コードの偽造で、遠目には帝国の輸送隊にしか見えないはずだ。だが、私の心臓はずっと警報を鳴らし続けている。
「カイル、偵察班の状況は?」
「ルーテ、ハープ、ヴィオラの3名が先行しています。1時間前に第一報が入りました」
カイルが通信ログを開く。ルーテの極端に短い報告が表示された。
『潜入完了。住民に警戒なし。異常あり。詳細は追って。……以上』
「相変わらず省エネな報告ね。『異常あり』って何よ。もう少し詳しく書いてくれてもいいじゃない」
「ルーテ嬢に多くを求めてはいけません。あれで彼女なりの全力報告です」
カイルが苦笑する。その横で、ヴィオラからの補足が入った。
『こちらヴィオラ。……母様、この街は「異常」なんて生易しいものではありませんわ。人々が歩いていますが、誰一人として会話をしていません。笑いも、怒りも、泣き声もない。全員が胸に数字を刻印され、決まった時間に決まった場所へ移動しているだけ。……まるで、精密時計の歯車のような人間たちですわ』
通信越しでも伝わる、ヴィオラの声に混じった嫌悪と戦慄。彼女は冷徹な分析者だが、同時にドSな毒舌で人の感情を弄ぶことを楽しむ「感情の鬼」でもある。その彼女が、感情のない人間を見て寒気を覚えているのだ。
ハープの報告がそれに続く。
『ハープです。衛生状態は完璧。細菌も埃も検知されません。……ですが、不気味ですわ。この街には「汚れ」がなさすぎる。汚れがないということは、何かを「直す」必要もないということ。……母様がいたら、発狂しますわ』
「……もう半分発狂してるわよ」
私は通信機を握りしめた。壊れたものがない世界。直すものがない世界。修理屋の私にとって、それは楽園ではなく「存在を否定される場所」だった。
リュウガが黙って窓の外を見つめていた。白い街を行き交う人々の胸に刻まれた数字。名前ではなく番号で管理される命。
「……これが、ソフィアの理想の成れの果てか」
「ソフィア? 誰よそれ」
「アリスのかつてのパートナーだ。彼女は『感情こそがノイズであり、それを排除すれば人類は永遠の平和を得る』と信じていた。……アリスは、その思想に最終的に反発して極東へ逃れた。だが、残されたソフィアはこの地で……彼女の理想を完成させたらしい」
リュウガの声は静かだが、そこには2000年分の苦味が滲んでいた。
「感情を消せば争いは起きない。名前を消せば差別は起きない。全てを管理すれば飢えも病もない。……完璧な論理だ。だが、その完璧さの代償が『これ』だ」
窓の外を、番号を胸に刻んだ子供が通り過ぎた。無表情で、玩具も持たず、友達と手を繋ぐこともなく、ただ決められた方向へ歩いている。
「……許せない」
私の口から、低い声が漏れた。
「あんな子供たちが、笑い方も知らないなんて。泣き方も、怒り方も、誰かを好きになることも知らないなんて。……こんなの、平和なんかじゃない。ただの、綺麗な墓場よ」
「同感ですわ。規律は必要ですが、規律だけの世界は牢獄と変わりません」
通信越しに、オーボエの凛とした声が響いた。
「母様。わたくしたちシスターズは、母様が与えてくださった『不揃いな個性』があるから、こうして自分の意志で戦い、笑い、怒ることができる。……あの子供たちにはそれがない。わたくしは、それが許せませんわ」
オーボエの言葉に、通信回線が一瞬静まった。普段は規律と効率を最優先する彼女が、「感情」の側に立って怒りを表明した。それは、この帝国の異常さが彼女の魂にまで届いた証拠だった。
「……うん。私もよ、オーボエ」
だが、私はすぐに頭を切り替えた。ここで感情的になって目立つ行動を取れば、103話の寝言の二の舞だ。せっかくの偽装が台無しになる。
「いい、みんな聞きなさい。気持ちは分かるけど、ここでは絶対に目立っちゃダメ。私たちは帝国の物流車両になりきって、静かに奥へ進むのよ。壊れたものを見つけても、勝手に直さない。子供が泣いていても、声をかけない。……今は、耐える時よ」
自分で言いながら、拳が震えた。
「……エリー。お前がそれを言うのが、一番辛いだろうな」
リュウガが、私の震える拳をそっと包んだ。
「ええ。……でも、ここで捕まったら何も直せなくなるわ。帝国の心臓を叩くまでは、我慢する。……我慢してやるんだから」
キャラバンは白い街道を静かに進んでいく。帝国の輸送車両に紛れ、目立たず、声を上げず。
だが、私の目はずっと、街の隅々を観察し続けていた。壊れた自動販売機。ひび割れた歩道のタイル。僅かに傾いた街路灯。
この完璧な街にも、必ず「ほころび」がある。綻びがあるなら、そこは私の出番だ。
「リュウガ。この帝国、どこまで続いてるの?」
「ここ旧ドイツ圏が入り口に過ぎない。西へベルギー、フランス。南はスイスを経てイタリア、さらにスペイン、ポルトガルまで。旧西欧のほぼ全域だ。……北欧にも影響圏があるらしいが、詳細は分からない」
「極東の何倍あるのよ、それ……」
「控えめに見て、5倍から10倍だろうな」
途方もない数字だった。この白い静寂が、大陸の半分を覆っている。
「……いいわ。だったら、その全部を私のスパナで叩き起こしてやる。時間はかかるかもしれないけど、必ず。……この墓場を、あったかい家に作り変えてやるんだから」
私は白い街並みを睨みつけ、ハンドルを強く握りしめた。
隣でリュウガが「……ああ。お前なら、やるだろうな」と小さく笑い、後部座席ではピッコが「大風呂敷にも程がありますわ」と呆れ顔で溜息をついた。
その時、ファーファが突然液晶を赤く点滅させた。
『母様、緊急だお。ルーテ姉から第二報だお。……短すぎて、逆に怖いお』
通信ログに表示された文字は、たった一行だった。
『壊れた自販機を発見。母様を近づけないで。以上』
「……ルーテのくせに、私の行動を完璧に予測してるじゃないのよ!」
私の叫びに、車内で初めて笑い声が響いた。
白亜の帝国への潜入。最初の一日は、こうして静かに、そして少しだけ騒がしく過ぎていった。




