第101話:【限界】パッチ・オフの提案、3時間の絆
再突入まで、残り2時間50分。
射程圏外に退避したアークの車内は、金属の焦げる匂いと、応急修理の火花が散る赤い光に包まれていた。
私はラボの作業台に突っ伏していた。あの2分間の恐怖が、まだ指先の震えとして残っている。
「……母様。お茶をお持ちしました」
振り返ると、次女オルガが湯気の立つカップを差し出していた。アークが損傷している中、彼女は電磁シールドのビットを流用して水分子を直接振動加熱している。防御用の装備をお茶に使うという贅沢。
「オルガ、そのビット防御用でしょ。お茶なんかに――」
「母様の手の震えを止めることも、防衛の一環ですわ」
返す言葉がなかった。温かいカップを両手で包むと、指先の震えが少しだけ収まった。
ラボの隅では、ヴォルフが3号車のひしゃげたフレームを本格的に叩き直していた。
「おい、エリー。こっちの溶接、手伝え。お前のハンダ付けじゃなきゃ強度が出ねえんだよ」
「……今の私の手、震えてるわよ」
「馬鹿野郎。震えてる手でハンダ付けするのが、お前の十八番だろうが」
カンカンとスパナがフレームを叩く音。私は立ち上がり、ハンダごてを手に取った。溶けた鉛に触れた瞬間、不思議と揺れが止まる。身体が覚えている。何千回と繰り返してきた「直す」という動作を。
◇◆◇◆◇
同じ頃、アークの屋根では別の光景が広がっていた。
騎士団の衛兵たちは車両の影に座り込み、虚ろな目で白亜の壁を見つめている。魔法が一切通じない敵を前に、心が折れかかっていた。
カイルは衛兵たちの前に立ち、腰のベルトから一本の瓶を取り出した。砂漠のスーパーマーケット遺構で回収した、あの旧世界の「コーラ」だ。
「隊長、またそれっすか。もう味は覚えちまいましたよ」
若い騎士ニコルが苦笑する。あのスーパーで初めて飲んだ時の衝撃は、もはや一行にとっての共有記憶だった。
「味を楽しむだけじゃねえよ、今日は。……おい、ルーテ嬢! ちょいと手を貸してくれるか」
カイルの声に、車両の影から四女ルーテが音もなく姿を現した。
「……何?」
「あのスーパーで拾った粉末ミルクがまだ残ってたろう。あれとこのコーラで、ちょっとしたものを作りたい」
カイルは保存食の袋から粉末ミルクを取り出し、金属のカップに水で溶いた。それをルーテの前に差し出す。
「これを、お前の冷却能力で一気に凍らせてくれ。できるか?」
「……凍らせるだけなら、容易い」
ルーテは高周波双剣で使う分子運動停止の応用で、カップに指先で触れた。ミルクの表面に霜が浮かび、見る間にシャリシャリと結晶化していく。数秒後、カップの中には不格好だが紛れもない「即席アイスクリーム」が出来上がっていた。
「おい嘘だろ、アイスクリームじゃないですか!? あの旧世界のデータベースに載ってた……!」
ニコルが飛び上がった。他の衛兵たちも身を乗り出す。
カイルはアイスの上にコーラを少しだけ垂らし、パチパチと泡立つそれを衛兵たちに差し出した。
「さあ食え。2000年前の人間はな、暑い日にこいつを仲間と分け合って笑ってたそうだ。魔法もナノマシンも入っちゃいない。ただの砂糖水と牛乳と炭酸だ。……だがな、こいつを食って笑った連中は、星の果てまで飛んで行ったんだとよ」
粗末なカップが回される。一口食べた衛兵が、泣きそうな顔で笑った。
「冷てぇ……。甘ぇ……。なんだこれ、戦場のど真ん中なのに……涙が出るほど美味いっすよ、隊長……」
「そうだろう。魔法がなくたって、人間は笑える。あの壁の向こうにいる連中は、感情を捨てて完璧になった。だが俺たちは、震えて、怯えて、それでもアイスクリームで笑える。……それが、人間の強さだ」
衛兵たちの目に光が戻っていく。ルーテはいつの間にか姿を消していたが、カイルの足元には彼女がこっそり置いていった予備の冷却済みコーラがもう一本転がっていた。
屋根の端では、十一女オーボエがその様子を見守り、僅かに口角を上げていた。
「……感情に訴える鼓舞は効率的ではありませんが。嫌いではありませんことよ、カイル殿」
「褒めてるのか貶してるのか分からんな、お嬢さん」
「褒めていますわ。規律を重んじる者として」
二人の視線が一瞬交わり、夜風の中に溶けた。
その数メートル後方、車両の影に身を潜めていた七女クララが、鉄扇で口元を隠しながら、スコープ越しに二人の横顔を連写していた。
「……記録。カイル殿とオーボエ姉様の視線交差、角度37度、持続時間0.8秒。……てぇてぇ予備軍として、観察を継続しますわ」
◇◆◇◆◇
再突入まで、残り1時間。
作業台の上に広げられたホログラムの前で、リディアとピッコが激しい議論を交わしていた。
「砲座の射撃パターン、周期性を抽出したわ。0.3秒の再装填サイクルが存在する。だけど600基が時差をつけて撃ってくるから、全体としての死角は0.02秒しかない」
「0.02秒。常識的には不可能ですが、わたくしの演算速度なら、その隙間を通るルートを秒単位で算出できますわ」
「問題は出力よ。あの壁のセラミックを物理的に破壊するには、セフィラの通常出力の3倍以上が必要。今のままじゃ、壁に到達しても傷もつけられない」
リディアの指摘に、ラボが沈黙した。
その静寂を破ったのは、車両の隅で黙って座っていたセフィラだった。
「……母様」
銀髪の少女が、真紅の瞳でまっすぐに私を見つめた。
「わたくしを、本当の『自由な姫』にしてください。……パッチ・オフを要請します」
パッチ・オフ。
それはヴォルフがセフィラを構築した際に施した安全装置――出力の上限を定めるリミッターを物理的に破壊する禁忌のプロトコルだ。セフィラの設計はヴォルフが旧文明の設計図をもとに独自に組み上げたもので、シスターズとは出自が異なる。その安全装置もまた、ヴォルフが自分の手で彼女に施した「親としての枷」だった。
解除すれば、出力は理論上無限に跳ね上がる。壁を内側から食い破ることすら可能になるだろう。だが代償として、機体の自壊が始まる。制御を超えた出力が、セフィラ自身を内側から焼き尽くす。
「駄目だ! 絶対に駄目だ、セフィラ!」
真っ先に叫んだのはヴォルフだった。
彼はスパナを床に叩きつけ、セフィラの前に膝をついて両肩を掴んだ。
「パッチ・オフなんてやったら、お前のリアクターが制御不能になる。最悪、コアが溶けて二度と戻れなくなるんだぞ。……あのリミッターは、俺がお前を守るために自分の手で組み込んだんだ。お前が壊れないように、お前が苦しまないように……!」
ヴォルフの声が震えていた。セフィラを設計した時、彼はただの兵器を作ったのではない。旧文明の設計図に自分の願いを込め、たった一人の「娘」を世に送り出したのだ。そのリミッターは、技術的な制約であると同時に、父親の祈りそのものだった。
「お父様。わたくしは知っています」
セフィラが静かに答えた。
「わたくしの名前が、お父様が子供の頃に憧れた童話の竜姫から取られたことを。自由に空を駆ける姫に、お父様は憧れた。……ならば、わたくしを自由にしてください。鎖に繋がれたままでは、姫は飛べません」
「だが、壊れたら……!」
「壊れません。……いいえ、壊れても構わないのです。わたくしが壁の内側に辿り着きさえすれば、防衛システムを内部から無力化できる。お姉様たちが道を作ってくださるなら、わたくしは必ず壁を貫きます」
セフィラの言葉に、シスターズたちが顔を見合わせた。
「道を作る、か」
長女チェロが眼鏡を押し上げ、静かに呟いた。
「セフィラの出自は、わたくしたちシスターズとは違う。ヴォルフ殿が独自に構築した機体だ。わたくしたちが彼女のリミッターを直接いじることはできない。……だけど」
チェロがオーボエと視線を交わした。
「600基の砲座が作る弾幕に、0.02秒の隙間がある。その針の穴にセフィラを通すのは、わたくしたち11人の仕事ですわ」
「全シスターズの防御と攪乱を、セフィラ一人の突破に集中させる。チェロ、テューバ、オルガの防衛班が正面から砲火を引きつけ、コルネ、ユーフィ、ボーンの攻撃班が壁面を叩いて砲座の注意を分散。ルーテとハープが死角を作り、ヴィオラとクララが射撃パターンをリアルタイムで解析して指示を出す。そしてわたくしが全体を統制し、0.02秒の隙間にセフィラを射出する。……いけますわ」
オーボエがハルバードの石突を床に打ち鳴らし、全姉妹が一斉に頷いた。
「……11人で、たった1人のための道を作るのか」
ヴォルフが、呆然とシスターズたちを見つめた。
「当たり前でしょ」
私はヴォルフの肩を叩いた。
「セフィラは私たちの末っ子よ。末っ子が家族を守りたいって言ってるなら、姉妹がその背中を押すのは当然のことじゃない。……あんたの仕事はね、ヴォルフ。壁を抜けた後のセフィラを、最高の状態で迎えてあげることよ。壊れたら、あんたと私で直せばいい。何度だって」
「……リディアの時も、お前の指先に救われた」
ヴォルフは長い沈黙の後、ゆっくりと拳を握った。
「今回も任せるぞ、相棒。……セフィラ、行け。お前は俺の誇りだ」
「……はい、お父様」
セフィラが微かに、けれど確かに微笑んだ。
◇◆◇◆◇
残り30分。作戦は急ピッチで形になっていった。
ヴォルフがセフィラの冷却系統を限界まで強化し、リディアが残り27機のドローンをセフィラの外部センサーとしてリンクさせる。ピッコが砲座の射撃パターンを0.001秒単位の予測モデルに落とし込み、カイルが全車両の連結を物理ワイヤーで補強した。
「リュウガ。あんたにできることは?」
私が尋ねると、リュウガは仮想の右手を握りしめた。
「Admin権限はほとんど残っていない。だが、壁に到達したセフィラが内部のシステムに接触する瞬間、俺の残り僅かな権限で『認証の隙間』をこじ開ける。……最後の一押しだ」
「十分よ。最後の鍵はあんたが開けなさい」
全員の視線が、アークの甲板に立つセフィラへと集まった。
銀髪が夜明け前の風に揺れている。彼女の背中には、ヴォルフが組み上げた白銀の翼。その翼が、静かに、だが灼熱の光を帯びて展開された。パッチ・オフの予兆。安全装置が物理的に軋み、出力メーターが通常値の200%を越えて上昇を始める。
「セフィラの出力、上昇中。230%……250%……まだ上がりますわ……!」
ピッコの声が緊張で震える。
「全車、エンジン始動ッ!」
10台のキャラバンが一斉に咆哮を上げた。
「救済キャラバン、再突入ッ!! シスターズ全員で道を開けなさい! セフィラ、あんたはその道を駆け抜けて、あの壁をぶち破りなさいッ!」
私のタクトが振り下ろされた。
先頭ではチェロとテューバが盾を重ね、正面から砲火を引きつける。その左右からコルネの炎とユーフィの衝撃波が壁面を叩き、ボーンの爆音が砲座のセンサーを狂わせた。ルーテとハープが影を縫って死角を作り、ヴィオラとクララが射撃パターンの変化を秒単位で叫び続ける。オルガが全員を包む最大出力の電磁シールドを展開し、オーボエが11人の動きをミリ秒の精度で統制する。
11人の姉妹が、たった1人の末妹のために、命懸けで「針の穴」をこじ開けていく。
「セフィラ、今よッ!」
「……了解。……パッチ・オフ、最終解除。……わたくしは、自由の姫ッ!」
セフィラの背中で、安全弁が限界の熱で弾け飛ぶ。制御不能な過給圧が、彼女の装甲を赤熱させた。
セフィラの翼が真紅に燃え上がった。出力メーターが300%を突破し、計器が悲鳴を上げる。白銀の流星が、姉妹たちが必死に開いた0.02秒の隙間を突き抜け、光速の弾幕の間を縫って壁面へと肉薄した。
旧ドイツ圏の夜明け前の空に、真紅の光が一筋、白亜の壁を貫いた。
『ファーファ、再突入のログ記録開始だお! 「11人の姉が開いた針の穴を、末っ子が真紅の流星で駆け抜ける!」 ……これぞ家族の最終兵器だおーッ!』
「ファーファ、実況もいいけど、ちゃんと全体のモニタリングもしてよね……! まぁ、とにかく、全員、死ぬ気で壁を叩きなさいッ!!」
白亜の壁に、不完全な家族の全力が叩きつけられた。




