第100話:【最後】検疫の要塞
白亜の壁が、地平線を左右に断ち切っていた。
汚れ一つない純白のナノセラミックの隔壁。その手前には、泥まみれでボロボロになった私たちのアーク(移動要塞)が立ち往生している。数千キロの荒野を踏み越えてきた鉄の巨獣は、この白い壁の前ではゴミ捨て場から這い出した廃品にしか見えなかった。
蒸気の煙も、油の匂いも、鳥の声すらない。核融合による電気駆動が発する微かなハム音だけが支配する、異質な「沈黙」の空間。
「……クロノス帝国の境界防壁『クアランティン』。ナノマシンの超高密度圧縮セラミックで構成されている。魔法はおろか、通常の物理攻撃では傷一つつけられない」
リュウガが険しい表情で告げた。彼のディープブルーの瞳には、もはやAdminの黄金はほとんど灯っていない。
「防壁内部の自動迎撃砲座、推定600基。射程は少なくとも10キロ。そして――」
ピッコがホログラムを展開した、その瞬間だった。
キィィィィィィィン――ッ!
壁の上縁から白銀の光が一筋飛来し、先頭を飛んでいたリディアの偵察ドローン3機が火花すら散らさず「消失」した。爆発でも撃墜でもない。ドローンが存在していた座標の空間そのものが、一瞬で「書き換えられた」のだ。
「……光速のレールガン! 2000年前の純粋な物理兵器だ。魔法の加護もナノマシンの障壁も介在しない、質量と速度だけの暴力!!」
リュウガの声から、初めて「恐怖」に近い響きが漏れた。
「全車、回避ッ!!!」
私がハンドルを回すのと同時に、壁面から無数の光線が放たれた。さっきまでいた座標が光の柱に貫かれ、直径10メートルのクレーターが穿たれる。魔法発動の予兆も、オゾンの匂いも一切ない。「撃たれた」という結果だけが0.001秒の遅延なく叩きつけられる。
「チェロ、テューバ、オルガ! 三重防壁を!」
チェロが重力斧を突き立て、テューバがハンマーで地を割り、オルガが電磁シールドを展開する。三重の盾が光弾を逸らすが、衝撃波だけでアークの外装がミシミシと悲鳴を上げた。
「防壁の維持限界、120秒ですわ!」
オーボエが冷徹に宣告する。たった2分。
光弾がチェロたちの防壁の隙間を縫い、1号車の居住区を貫通した。車内に吹き込んだ衝撃波がラボの精密機器を粉々に吹き飛ばす。
「1号車に被弾! 第三モジュール消滅!」
「3号車の牽引フレームにもクラック! 連結がもちませんわ!」
「全車、撤退ッ!! 射程圏外まで後退しなさい!」
◇◆◇◆◇
600基の砲座が同時に吐き出す光速の弾幕の中を、10台の大型トレーラーが無事に引き返せる保証はどこにもなかった。
「オーボエ! 撤退陣形を!」
「了解。全シスターズ、フォーメーション『リバース・シールド』! 殿はチェロ、テューバ、オルガの防衛班! コルネ、ユーフィ、ボーンは攪乱! ヴィオラ、クララは砲座センサーへのノイズ弾を!」
オーボエの号令がMNWを駆け巡る。
「お任せを! お安い御用ですわ!」
ヴィオラが蛇腹剣を組み替え電磁パルスを放射。クララが鉄扇で気流を乱し、レールガンの精密照準を物理的に揺さぶる。着弾精度が僅かに落ちた――その一瞬が命綱だった。
「三馬鹿、壁に向かって全力でブラスターを撃ちまくりなさい! 当てなくていい、光と音で砲座の注意を引くのよ!」
「了解だだよぉ! 爆音で注目集めるの、あたしの得意技なのですよぉおお!」
ボーンがバイクを急加速させ、壁面ギリギリを掠めるように疾走する。ユーフィが薙刀を振り回してマナの残光を撒き散らし、コルネが炎のブラスターで砲座の表面を焼いた。三人の攪乱が砲座の処理能力を飽和させる。
その隙に、後方ではカイルが鬼の形相で全車両に指示を飛ばしていた。
「全車、逆進180度! 1号車から順に旋回開始! 6号車から8号車はアンカーワイヤーを射出して3号車のフレームを補強しろ! 連結を切らすな!」
騎士団の若い衛兵たちが火花の中を走り回る。泥まみれの手でワイヤーを掴み、ひしゃげた牽引フレームを人力で押さえ込む。
「リディア! ドローンで援護を!」
「分かってるわよ! ……全機、電磁攪乱モードに移行! 壁面の砲座に向けて高出力ジャミング波を放射しなさい! 撃たれても構わない、アークの後退を1秒でも稼ぐのよ!」
リディアの100機編隊が白い壁に向かって殺到した。光弾に貫かれるたび爆散するが、その度に放たれる電磁パルスが砲座のセンサーを僅かに乱す。1機が落ちるたび、2秒の猶予が生まれた。
「くっ、30機……あと28機……もう止まらないわ、落ちていく……!」
リディアが端末を叩く指先が震えていた。だが、その視線はモニターから逸らさない。100機のうちすでに70機以上が光の塵と化し、残りの30機弱が身を呈して攪乱を続けている。
「ヴォルフ! 3号車のエンジンが悲鳴を上げてるわ! 何とかして!」
「わかってるって! フレームが歪みすぎてシリンダーが噛んでやがる!」
ヴォルフがバギーから3号車の床下に飛び移り、走行中の車両の腹に潜り込んだ。火花と金属の悲鳴の中、巨大なスパナで歪んだフレームを力任せにこじ開け、エンジンの息を繋ぐ。
「ルーテ、ハープ! 三馬鹿の帰り道を確保して!」
「……了解。影で、道を作る」
ルーテが加速空間をデリートし、砲座の死角を縫うように撤退ルートを確保。ハープが超音波で光弾の軌道を微かに逸らし、コルネたちがアークの影に滑り込んだ。
最後に殿を務めたチェロが、限界を超えた重力障壁を展開したまま後退する。
「……全員、射程圏外に離脱しました」
チェロの声に、いつもの委員長らしい余裕はなかった。
◇◆◇◆◇
2分の交戦の代償。アークの装甲に3つの穴。リディアのドローンは100機中70機以上を喪失。シスターズの防壁エネルギーは残量30%。3号車のフレームは大きく歪み、牽引が不安定な状態だった。
車内は重苦しい沈黙に包まれていた。
「……くそっ」
ヴォルフが、ひしゃげたスパナを壁に叩きつけた。
「あの砲火、俺の装甲理論じゃ防げねえ。質量で止められる威力の次元を超えてやがる」
「残ったドローンは27機よ。偵察に出すだけで撃ち落とされるわ。……でも、この27機は死守する。別の使い方を考えなくちゃ」
リディアが失ったドローンのデータログを睨みつけながら歯噛みする。
カイルは無言で地図を広げていたが、やがて静かに首を振った。
「迂回路はありません。防壁は地平線の両端まで途切れなく続いています。……正面突破以外の選択肢がないのが現状です」
「正面突破なんて、今の状態じゃ自殺行為じゃないのよ……」
私は膝を抱え、冷たい床に座り込んだ。
「感情なんてバグだと言わんばかりね……あの壁は」
沈黙が降りる。リュウガが私の隣に腰を下ろした。
「エリー。お前が怖がっているのは壁じゃない。……『アリスの正解に勝てないかもしれない自分自身』だ」
私は息を呑んだ。
「アリスは正解を出すたびに、そこから零れ落ちる人を見て苦しんでいた。彼女の完璧さは、彼女自身を追い詰めたんだ。……お前は違う。最初から正解なんて出さない。ただ目の前の壊れたものに手を伸ばして、強引に繋ぎ止める」
リュウガは仮想の右手で私の震える指を包んだ。
「お前の『不合理』を信じさせてくれ。正解なんて出さなくていい。お前がタクトを振れば、俺たちはついていく」
凍りついた胸の奥が、鉄のハンダごてで焼くように溶けていく。
私は涙を拭い、錆びたスパナを握り直して立ち上がった。
「そうね。……正解なんて知らないわよ」
全員が顔を上げた。
「正解が正面突破を拒むなら、正解の外側を走ればいい。壊れたなら、叩いて直して、無理やり動かしてやるわよ。それが私の、世界一不完全な『正解』なのッ!」
沈黙が一拍。
「……ふん。お子様エリーにしては、悪くない啖呵ね!」
最初に口を開いたのはリディアだった。失ったドローンのデータログを閉じ、新しい解析ウィンドウを開く。
「残り27機を攪乱ではなく解析に回すわ。あの砲座の射撃パターンには必ず周期がある。完璧なシステムほど、規則正しい『隙間』が存在するはずよ」
「リディア……」
「か、勘違いしないで。あんたに付き合って死ぬのはご免だけど、あんたに負けたまま死ぬのはもっと嫌なだけよ」
続いてヴォルフが床から立ち上がった。
「おう。装甲で止められねえなら、『当たらない』ようにすりゃいい。エリー、3号車のフレーム修理ついでに全車両の機動性を引き上げるぜ。鉄の塊でも、俺の手にかかりゃ踊り出す」
カイルも地図を畳み、腰の剣を叩いた。
「セーラ様は『あの子を信じなさい』とおっしゃっていた。俺はあの方の命に従います。……全力で、後ろを固めましょう」
「母様。あの砲座の射撃間隔に0.3秒の再装填サイクルがありましたわ。そこを突けば、突破口が生まれますわ」
チェロが眼鏡を光らせる。ただ撤退をしていたわけではない、あの短時間で敵の弱点をしっかりと観察していたのだ。さすが、我が娘!
「わたくしの演算能力を砲座のパターン解析に全振りすれば、射撃の死角を秒単位で特定できるはずですわ」
ピッコが金色の瞳を鋭くした。
「セフィラは、次は止まりませんわ。……母様の道を、わたくしが開きます」
セフィラが真紅の瞳を灼熱の意志で輝かせた。
作戦会議が始まった。リディアの解析、ピッコの演算、ヴォルフの機動力向上、カイルの後方統制。シスターズ11人とセフィラ。不完全な力が、一つの「作戦」へと練り上げられていく。
「よし! 3時間後に再突入よ。全員、自分の持ち場を120%にして待ちなさい。……この壁を越えたら、あとは世界の心臓部よ」
私はタクトを掲げた。
アリスの「完璧な壁」に、不完全な愛という名の一撃をブチ込みに行く。
『ファーファ、全データのバックアップ完了だお! 「完璧な論理の壁に、不完全な修理屋が挑む!」 ……第4部最終決戦、3時間後に開幕だおーッ!』
「ファーファったら、最後まで実況で締めるんじゃないわよッ!」
白亜の壁を前に、世界で最も不完全で、最も騒がしい家族が、最後の突撃準備を開始した。




