第94話:【修繕】メンテナンスの夜:嫉妬の解決
ドニエプル川の川面が、夜空に渦巻く青白いマナの光を反射して、不気味に揺れている。
ウクライナの荒野にアークを停め、私たちは束の間の野営に入った。
「……あ、ごめんなさい。痛かった?」
私はハッとして、リュウガの右腕のボルトを締めていた手を止めた。無意識に力が入りすぎていたらしい。
「いや、大丈夫だ。だがエリー、さっきから上の空だな。ボルトのトルク設定が規定値を15%も上回っているぞ」
リュウガが、銀色の義手を見つめながら静かに指摘した。
「……そうね。ごめんなさい、すぐに直すわ」
私は視線を逸らし、不器用に工具を動かした。
ショッピングモールで見つけたアリスの記録。孤独に怯え、誰かを愛し、苦悩していた彼女の姿を知ったことで、私は妙な不安に駆られていた。
彼女ほどの人でさえあんなに迷っていたのなら、その末裔で、研究バカで、胸も平らな私なんかが、彼の隣に居続けていいのだろうか。
「エリー。少し歩かないか」
「えっ? でも、まだメンテナンスが……」
「続きは後でいい。少し風に当たろう」
リュウガは私の返事を待たず、油で汚れた私の手を優しく引いてアークの外へと連れ出した。
その背後で、アークの影から複数の視線が動いたことに、私は全く気づいていなかった。
「……目標、移動開始。これより『母様と父様を自然にキスさせる大作戦』をフェーズ2へ移行します」
物陰でチェロが通信機(ファーファ経由)に低く囁くと、作戦の司令塔であるリディアから的確な指示が飛んだ。
「チェロ、テューバ、足元を。不自然にならない程度の局所振動でエリーの重心を崩して。クララ、あなたは風を。狙撃の要領で、彼女を優しく、かつ逃げ場のないようにリュウガ様の胸へ押し出すのよ。セフィラ、光学迷彩を維持したまま周囲の魔獣を完全に排除。……いいわね、これは二人の魂の『同期』を促す神聖な儀式よ。完璧に遂行しなさい」
シスターズたちがその鋭いタクティクスに従って迅速に配置に付く中、扇子を揺らしているリディアは満足げな笑みを浮かべた。
「ふふふ……私の計算によれば、あの川べりの岩影がベストポイントですわ。ヴォルフ、カイルたちの方はどう?」
「ああ、カイルたちは別の焚き火で『どっちのコーラが早く飲み干せるか』なんて馬鹿な競争に夢中だ。あいつら、こっちの空気には1ミリも気づいちゃいねぇよ。……っていうか、俺までこんな作戦に付き合わなきゃいけないのか?」
ヴォルフが呆れたようにリディアに尋ねるが、彼女は余裕たっぷりの笑みで彼の腕に絡みついた。
「いいじゃない。こういう『愛のアップデート』には、外部からの適切なパッチが必要なのよ。ほら、あなたも特等席で見守りなさいな」
そんなリディアの主導による暗躍も知らず、私はリュウガと二人、ドニエプル川沿いの荒涼とした岸辺を歩いていた。
「……ねぇ、リュウガ。私、アリスみたいに賢くないし、完璧でもないわ」
私は、川面に映る光を見つめたまま本音を漏らした。
「彼女の記録を読んで、怖くなったの。彼女はあんなに必死に、あんたを守ろうとしていた。私に、その代わりが務まるのかなって。……私で、いいのかな」
リュウガが足を止めた。彼は振り返ると、私の汚れた作業着の袖を、まるで迷子を捕まえるようにぎゅっと掴んだ。
「エリー。アリスの計算は確かに完璧だった。だが、彼女のデータには、君という『ノイズ』は存在しない」
「ノイズ……?」
「ああ。君が時折見せる理不尽な怒りや、今のような不器用な指先の震え、および俺を想って流す涙。……その非論理的なすべてが、俺を『システム』から引き剥がし、一人の『人間』へ繋ぎ止めてくれているんだ」
リュウガは私の目を真っ直ぐに見つめ、一歩踏み込んだ。
「アリスの代わりなんて必要ない。俺を直せるのは、世界で君一人だけだ」
その瞬間、私の心の中にあった霧が、熱い体温に溶かされていくのが分かった。
「リュウガ……。もう、ずるいんだから。そういうこと、さらっと言わないでよ……」
私は彼の胸に顔を埋めた。アリスへの劣等感じゃない。私は私として、この人を愛していけばいいんだ。
「……今ですわ、チェロ姉様、テューバ!」
クララの合図が静かに響いた――と思った瞬間、足元の地面が微かに、しかし確実に不自然な振動を起こした。
「わわっ!?」
チェロとテューバが重力干渉を応用して作り出した局所的な揺れに、私はたまらずよろめいた。
「危ない、エリー!」
リュウガが反射的に腕を伸ばした瞬間、さらなる「追い風」が吹いた。クララが精密な気流操作で、私の背中をしなやかに、だが力強く押し込んだのだ。
「……隙ありピ!」
さらにダメ押しとばかりに、空中から透明化した状態で待機していたファーファがリュウガの背中を物理的にド突いた。
よろめく私と、押されたリュウガ。二人の距離が、コンマ数秒でゼロになった。
チュッ
リュウガの唇が、私の額にそっと触れた。
「……っ!」
顔が火が出るほど熱くなる。
「……エリー。君が望むなら、毎日でもメンテナンスを受けてやる。だから、そんな顔はしないでくれ」
「……当たり前よ! 明日から毎日24時間フルメンテナンスなんだからね! 一秒も休ませないわよ!」
「それは流石に過剰整備だ。物理的な摩耗が激しすぎる」
少しの間、私たちは言葉もなく、ただ重なり合う鼓動を感じていた。
その静寂を、影から必死に守り続けていたのはシスターズたちだ。背後の藪の向こう、光学迷彩を解かずにセフィラが迫りくる魔獣を音もなく両断し、ボーンが鼻息を荒くしながら小声で通信を入れる。
『……セフィラちゃん、右からもう一匹来てるよぉ! 絶対にこっちに行かせちゃダメだよぉ! 今は最高に良いところなんだからぁ……!』
『了解。……周囲100メートル、完全清掃を継続します』
リディアの冷徹かつ完璧な指揮により、二人の甘い時間は、外界のノイズから完全に隔離されていた。
だが、魔獣の群れも執拗だった。モールから引き連れてきた残党が、マナの光に誘われるように次々と集まってくる。
ついに一際巨大な個体が、セフィラたちの防衛網を力技で突破しようと咆哮を上げた。
「……チッ、これ以上は隠しきれないだよぉ!」
不本意そうに、けれど警告を込めてボーンの声が闇から響いたのは、私たちがようやく顔を上げ、次の言葉を交わそうとしたその時だった。
「リュウガ、来るわよ! 夫婦の共同作業、邪魔する奴は許さないんだから!」
「了解だ、エリー」
シンクロ率が跳ね上がった私たちの連携は、もはや一つの生命体だった。
私が「リュウガ、右30度!」と叫びながら、予備のスパナを空中に放り投げる。リュウガはそれを見することなく、跳躍しながら空中でキャッチ。そのままスパナを武器にして、魔獣の核を粉砕した。
「ナイスキャッチ! 次は左から二体、足元に粘着魔法を流したわ!」
「助かる。……一気に殲滅する」
夫婦漫才のようなテンポで次々と魔獣を翻弄する私たちに、茂みの中からシスターズたちの喝采が上がった。
「素晴らしい連携ピ! てぇてぇが戦術的優位に変換されているピ!」
「マスターのAdminデータ、更新を確認。……心、という名のパッチが完全に適用されたようです」
セフィラが、どこか誇らしげに報告する。
戦いが終わり、静寂が戻った夜。
ピッコはアークの片隅で、静かに日記を綴っていた。
『愛とは、互いのOSを最適化し続けるプロセスである。エリー様、アリス様の呪縛を克服。リュウガ様、個としての魂へ完全移行。……ふん、悪くないアップデートですわ』
13番目の妹(自称)の微笑みを、私たちはまだ知らない。
「リュウガ、もう一度……さっきの、して」
「……今は、メンテナンスの途中だと言わなかったか?」
「いいの。これが一番の特効薬なんだから」
ドニエプル川のほとり。
不器用な私たちは、新しい世界の理を、唇と唇で書き換えていった。
――なんて、最高のムードに浸っていたのも束の間。
「……あら、お熱いことですわね。計算通りの着地点ですけれど、実物は予想以上に『てぇてぇ』でしたわ」
聞き覚えのある艶やかな声に、私は飛び上がってリュウガから離れた。岩陰から、リディアが扇子を片手に、ニヤニヤしながら現れたのだ。
その後ろからは、バツの悪そうな顔のチェロや、親指を立てているボーン、それに無表情ながらどこか満足げなクララたちシスターズがぞろぞろと出てくる。
「……ちょっと! あんたたち、ずっと見てたの!?」
「見てただけじゃないだよぉ! 最高の特等席でバッチリ記録しただよぉ!」
「母様、気流の角度、いかがでしたか? 少し強すぎたかと思いましたが……」
クララの言葉に、私はようやくすべてを理解した。
あの絶妙なタイミングの地震も、背中を押した風も、全部こいつらが仕組んだ「接待」だったのだ。
「チェロ! テューバ! クララ! それにリディアも! みんな、夫婦のプライベートにナノマシンや魔法で介入するなんて、公私混同も甚だしいわよ! 第一、恥ずかしいじゃないの!! ……あとで全員、くすぐりセンサーの感度を200倍にしてメンテナンスしてやるから、今のうちにたっぷり笑っておきなさい……!」
私が顔を真っ赤にして怒鳴ると、シスターズたちは一斉に「母様と父様のためだお!」「末妹の教育のためですわ」と口々に言い訳を始めた。
全く、この家族は……。
私は深くため息をつき、隣で苦笑しているリュウガの顔を見た。
……まあ、いいわ。あのアリスへの劣等感から私を救い出してくれたのは、確かにこいつらのお節介もあったんだし。
「……分かったわよ。今回だけ、今回だけは特別に許してあげる! でも、次にやる時は事前に申請しなさい、申請を!」
「申請したら『自然』じゃないよぉ!」
賑やかな声が夜の荒野に響き渡る。
不器用な正妻の、ちょっとだけ寛大な夜。
私たちの絆は、ノイズだらけのこの家族と一緒に、また一歩先へ進んだ。




