第92話:【廃墟】ショッピングモール遺構:逃亡者の足跡
カスピ海を抜け、黒海北岸のウクライナ地域へと入った私たちの前に、それは現れた。
かつての地平線を埋め尽くすほど巨大な、ガラスと鉄の山。マナの結晶が蔦のように絡みついたその廃墟を、リュウガは「世界最大級のショッピングモール」だと教えてくれた。
「……何よこれ、都市一つ分くらいあるじゃない」
私はアークの窓から、その圧倒的な規模を見上げて呆然とした。先日立ち寄ったスーパーマーケットなんて、これに比べれば玩具みたいなものだ。
「懐かしいな。当時は一日中歩いても回りきれないほど、あらゆる物が溢れていた場所だ」
リュウガが目を細めて呟く。2000年前の彼にとっては日常の風景でも、私にとっては失われた神話の巨大博物館にしか見えない。
私たちは補給と調査を兼ねて内部へ足を踏み入れた。
モール内は自動発電システムが奇跡的に生きていたらしく、マナの光に照らされて薄暗いネオンが明滅している。
「……あらあら、随分と埃っぽい場所ですわね。お掃除が必要かしら?」
オルガが首を傾げると同時、通路の奥から大量の「掃除ロボット」が這い出してきた。……いや、それは長い年月の間にナノマシンに侵食され、鋭い回転刃を持つ魔獣へと変貌した「清掃型ドローン」の群れだった。
「生活班、出番。……ゴミは、迅速に排除する」
生活班の隊長を務めるルーテが、高周波双剣を抜いて低く告げた。彼女に続き、ハープ、テューバ、そしてオルガの四人が一斉に前に出る。普段は私たちの身の回りの世話を一手に引き受けている彼女たちだが、その戦闘能力は凄まじい。
「衛生環境の乱れはバグと同じ。即刻、消毒します」
ハープが振動鉤爪で機械の装甲を紙のように切り裂き、テューバがハンマーで通路を塞ぐ残骸を叩き潰して道を切り開く。
「テューバ、そっちに漏れたわ。……重力定着。ゴミは、ゴミ箱へ」
「了解……。逃さない」
彼女たちはまるで、午後の特売セールにでも出かけるような軽やかさで、魔獣化した機械軍団を文字通り「掃き掃除」していった。
「ご主人様! 私もショッピングしたいピ! 私をカゴに入れて歩くピ!」
足元でファーファが騒いでいる。最近、この球体は語尾に「ピ」をつけるのがブームらしい。なんでも、旧文明のデータベースで見た『タコピー』とかなんとかいう昔のアニメのキャラを真似しているのだとか。
「……何その語尾。興味ないから、あっちでライトでも照らしてなさい」
「ひどいーーーーピーーーーー」
私はバッサリと切り捨て、最深部へと急いだ。そこには、アリスが極東へ向かう旅の途中で拠点としていた形跡――彼女のプライベートな居住区が「フリーズ」された状態で残っていたからだ。
「ピッコ、端末の同期は?」
「遅いですよ、エリー。既にアリスのバックアップ・プロトコルへのアクセスを開始しています。アリスの管理コードを使いこなせていないのは、やはり末裔としての自覚が足りないのでは?」
相変わらず辛辣なピッコの言葉に、私は眉をひそめて言い返した。
「もう、いちいちうるさいわね。2000年も前の、それも物理的に死んでるような端末を今の時代の人間が使いこなせるわけないでしょ。これはピッコにしかできないことだから頼んでるのよ……ねぇ、大叔母様?」
「お、お、大叔母様……!? そ、そのような不正確かつ非論理的な呼称はやめなさい、エリー! 私は演算ユニットであり……!」
ピッコのホログラムが激しく乱れ、ごにょごにょと何かを言い淀む。だが、その光の揺らぎはどこか照れくさそうでもあった。
「……まあ、私にしかできないというのは演算上の事実です。アリスのデータを私以外の低級AIが触れるはずもありませんし……そこまで言うのであれば、今回だけはやって差し上げないこともありません」
露骨に嬉しそうな気配を感じつつ、私は最深部のメインフレームに手を触れた。
そこで見つけたのは、膨大な研究データではない。
アリスが「親友」の息子――すなわち、リュウガのオリジナルの素体へ宛てた、未送信のメールログだった。
『……もう、一ヶ月も独りで歩いている。私の選択は、本当に正しかったの?』
画面に浮かび上がった文字は、震えていた。
『完璧な科学者だなんて、皆に言われるけれど。本当は、夜になると怖くて仕方がなくなるの。私はただ、あの子を守りたかっただけなのに……。あの子と、私の親友……リュウガの父親を、世界の破滅から遠ざけたかっただけなのに』
ログには、崩壊する西の世界から約束の地「極東」へと逃れる三人の過酷な逃避行が記されていた。
だが、歴史は残酷で、皮肉だった。
アリスという「希望」を信奉し、救いを求める人々が、彼女の背後に吸い寄せられるように集まってきたのだ。
『どうして私についてくるの。私は、誰も救うつもりなんてない。そんな能力もないのに。あの子と彼だけが、私の世界の全てなのに。……逃げても、逃げても、背後の列は数万人に膨れ上がっていく。皮肉なものね。私が愛を貫こうとするほど、私は彼らにとっての「聖女」になっていく』
アリスの個人的な「愛」というエゴ。彼女が背負いきれないほどの重圧を感じながら歩んだその「エクソダス」こそが、極東の人々と交わり、後のアステリア王国とガレリア帝国の基礎を作ったのだという真実。
私たちの世界は、一人の女性の「不器用な情熱」が引き起こした結果論によって救われたのだ。
そこには、私がずっと劣等感を抱き続けてきた「完璧な聖アリス」の姿はなかった。
大切な絆を守るために、孤独に震え、群衆の期待に怯え、それでもなお歩みを止めなかった「一人の女性」の苦悩が綴られていた。
「……なーんだ。あんたも、私と同じだったんじゃない」
私は不覚にも、端末の前で涙を零しそうになった。
アリスが極東へ逃れた真の目的。それは人類救済などという高潔な義務感ではなく、目の前の愛した者たちだけでも救いたいという、切実すぎる願いだったのだ。
劣等感が、スッと消えていくのが分かった。
「アリス……あんたを追い越してみせるわよ。あんたが救えなかった未来も、あんたが愛したリュウガも、全部私が引き受けるんだから」
私は居住区の外で待っていたリュウガに駆け寄り、その逞しい胸に思い切り顔を埋めた。
「リュウガ……! もう、あんたを独りにはさせない。私が、死ぬまで隣にいるから! 絶対に離さないんだからね!」
「エリー……? 急にどうしたんだ?」
リュウガが困惑しながらも、大きな手で私の背中を包み込んでくれる。
「てぇてぇ最大値おめでとうピ! 奥様のデレが限界突破だピ!」
「マスター、奥様のバイタルが急速に加熱していますわ。……ふふ、記録しておきますね」
周りでファーファやシスターズたちが囃し立てているけれど、今だけは構わない。
アリスを「超えるべき先人」と定義し直した私の心は、この荒野の空よりも晴れ渡っていた。
不完全な私たちが、不完全なまま歩む旅。その足取りは、かつてないほど力強く地を蹴った。




