第90話:【守人】ナノの番人:古の巨獣との遭遇
かつて「海」と呼ばれた場所は、今やひび割れた塩の荒野と化していた。
陽炎の向こうに、かつての石油プラットフォームの残骸が、巨大な死神の骨のように突き出している。
「……喉が渇くわね」
私はアークの操甲板で額の汗を拭った。手には、第88話で立ち寄ったスーパーマーケットの残骸で見つけ出した旧世界の遺物——漆黒の液体『コーラ』の瓶を握っている。
「カイルが『これこそ騎士の活力源だ!』なんて言って、部下たちと競うように飲んでいたけど……この刺激、確かに癖になるわ。アステリアの薄っぺらな果実水より、ずっと『生きてる』感じがする」
「ああ……懐かしいな。1800年以上も前、眠りにつく前に飲んだことがある。この喉を焼くような感覚、間違いなく本物だ」
リュウガも隣で頷き、シュワリと弾ける未知の飲料を喉に流し込んだ。2000年の眠りを経た彼にとって、それはかつて存在した文明との再会であり、失われた時代の記憶を呼び覚ますトリガーなのだ。
「えっ、リュウガもこれ、あっちの時代で飲んでたの!?」
私は改めて驚いて目を丸くした。リュウガは苦笑しながら、遠い目をして答えた。
「ああ。当時はどこにでもあったありふれた飲み物だったんだが……まさかこんな荒野で、当時のままの味に出会えるとは思わなかった」
カイルたちが珍しがって飲んでいる横で、一人、2000年前の日常を思い出すリュウガ。私たちが旧世界の強烈な文化に触れ、少しずつその感覚を共有し始めている。そのささやかな団らんの時間。
だが、その平穏は地響きによって破られた。
突火、砂塵の中から巨大な影が立ち上がる。
それは、放棄された採掘重機を自身の殻として取り込んだ、異形の巨大な――「カニ」のような化け物だった。
巨大な錆びたクレーンの腕をハサミのように振り回し、石油プラットフォームを文字通り「纏った」その姿は、歩く要塞そのものだった。
「Admin権限、干渉不能! 物理障壁が厚すぎて、論理コードが通りませんわ!」
「なら物理的な排熱口か、関節の隙間を狙いなさい! どんな重装甲でも熱の逃げ場は必ずあるわ!」
ピッコの悲鳴に近い報告に、私は即座に反応する。
「総員、迎撃用意! 魔法で外殻を焼きなさい!」
シスターズへの私の号令が飛ぶ。瞬時に、身の丈を超える大剣を担いだコルネと、薙刀を構えたユーフィがアークから飛び出した。
シスターズたちが魔道の武器を構え、連携して爆炎の熱波を放つ。化け物の装甲に命中し、鋼鉄を赤く焼くが、重厚な物理装甲はその熱を逃がし、致命傷を拒絶していた。
「くっ、これだけの質量を……!」
リュウガが剣を抜き、彼女たちの援護に回ろうとしたその時——。
ドォォォォン!!
ドォォォォォォォン!!
ドォォォォォォォォォォォン!!
空を裂く、雷鳴のような衝撃音。
魔法の光ではない。それは、十数本もの巨大な「鋼の杭」だった。
弾丸のような速度で飛来した杭が、化け物の関節部――重機の油圧シリンダーと生体組織が癒着した急所を、正確に穿つ。
「何……!? 横やりを入れる奴がいるの!?」
私が驚愕の声を上げる中、砂塵の向こうから一団の影が現れた。
それは、15人ほどの集団だった。
いや「人間」と呼ぶには、あまりに異質な存在。彼らの肌は日光を跳ね返すような鈍い金属光沢を帯びた褐色で、浮き出た血管はマナの代謝によって青く発光している。
コルネたちが展開している魔法の余波を、彼らは鍛え抜かれた肉体一つで押し通り、無言のまま倒れた巨獣に肉薄した。
「獲物だ……」
「久々の、上質な、タンパク質……」
彼らは手に持った無骨なナイフや斧で、装甲の隙間をこじ開け、中から溢れ出す半透明のバイオ肉を手際よく切り出していく。彼らにとって、この化け物は「脅威」である以上に「貴重な食糧」のようだった。
「……止まれ」
そのうちの一人、ひときわ巨大な男が、武器を収めようとしないシスターズとリュウガに向けて、巨大な弓を引き絞ったまま立ち塞がった。
「魔法の匂い……。そして、柔らかすぎる肌……。貴様ら、何だ」
男の瞳には、強烈な警戒心が宿っていた。
「ちょっと待って、私たちは旅の者です! 決して、敵ではありません!」
私は必死に敵意がないことを示す。だが、私の背後では、リュウガの意図とは別に、完璧な「迎撃布陣」が音も無く完成していた。
アークの屋根の上では、銀髪を荒野の風になびかせたセフィラが、真紅の瞳で男の喉笛を捉えている。彼女の足元には振動剣がいつでも射出できる状態で固定されていた。
さらに、アークの影や周囲の岩陰には、いつの間にか他のシスターズたちが分散して配置されている。
重力斧を携えたチェロ、巨大なハンマーを地に立てたテューバ、そして戦術バイザーを降ろして敵の急所をスキャンし続けるヴィオラ。
一見すれば、私やシスターズたちは困惑して立ち尽くしているように見えるだろう。だが、リュウガが一度「Adminコマンド」を発令すれば、コンマ数秒でこの男たちを無力化できるだけの殺気を、彼女たちは内包していた。
「……人間? いや、記録にある『旧人類』の生き残りか? まさか、生きた個体が存在するとはな……」
男はリュウガを凝視し、信じられないものを見るように呟いた。
彼の視線は次に、肩で息をする私やシスターズたちへと移る。
激しく魔法を連射していた私たちを見て、彼は鼻で笑った。彼にとって私たちは、精巧なオートマタなどではなく、不自然な「魔法」という杖を振り回すだけの、肉体的には脆弱な「人間の女」にしか見えていないようだった。
だが、男の背後に立つ部下たちの何人かが、本能的な恐怖に身を震わせているのを私は見逃さなかった。
アークの屋根から見下ろすセフィラの、感情の欠落した視線。そして、何処からともなく自分たちの背後を取っている気配。
「長、こいつら、何かがおかしい……」
「ピッコ……彼らは何なの?」
「……リュウガ、エリー様、気をつけて。おそらく彼らはアリス様が提唱した、外部システムを捨て肉体というハードウェアを聖域化した『ナノの守り人』です。数百年間、外部との接触を絶っていたはずですが……」
一触即発の緊張感。
男は弓をわずかに下げたが、その瞳に宿る疑念は消えていない。
「……私は、この部族の長、ガラードだ」
ようやく、男が名乗った。
「貴様らが何者であれ、このリグ・クローラーの肉は渡さん。我らの村の100の民を生かすための大事な糧だ。……および、魔法などという呪われた杖に頼る軟弱な者は、我らの集落には入れん。去れ」
「リグ・クローラー? ……ああ、この『でっかいカニ』のことね」
私は眉をひそめて化け物の死骸を指差した。
「でも、追い払うなら自分たちの手だけで完結させるべきじゃない? 私たちの魔法だって、少しは役に立ったはずよ! それを一方的に去れだなんて、失礼にも程があるわ!」
「魔法? 魔法な旧ドイツ圏か必ず牙を向くバグの塊だ。我らは己の肉体しか信じぬ」
ガラードの頑なな態度に、その場が沈黙に包まれかける。
そこに、アークの陰から一人の美女がしなやかに歩み出た。
赤茶色の豊かなウェーブロングをかき上げ、扇子で口元を隠して笑う――リディア・スカーレットだ。彼女は社交的な笑みを浮かべ、ガラードの鋭い視線を受け流しながら、交渉のテーブルへと踏み込んだ。
「ガラード殿。あなたが我らを『軟弱』と断じるのは自由ですが……その大量の肉、どうやって運ぶおつもりかしら?」
リディアは、解体されたリグ・クローラーの膨大な山のような肉塊と、15人の狩人たちを交互に見た。
「100人の民を養うための糧を、人力だけで運ぶには無理があるでしょう? 日が暮れれば別の『カニ』が集まってくる。我々の所有するこの『アーク』の積載能力を使えば、一度で、しかも安全にあなたの集落まで送り届けることが可能ですわ」
ガラードの眉がピクリと動いた。
「……我らに、その『魔法の箱』に乗れと言うのか」
「あら、誤解しないで。我々があなたの『獲物』を運ぶ、ただの運び屋を務めると言っているのよ」
リディアは自信に満ちた態度で続けた。
「対価として求めているのは、一夜の宿と情報の共有だけ。この過酷な荒野を生き抜くのに、意地と伝統だけで十分だとお思い? 合理的な協力は、決して『依存』ではありませんわ」
ガラードは黙考した。
青く光る血管が、彼の腕で激しく脈打っている。やがて、彼は背負った巨大な弓をゆっくりと収めた。
それと同時に、周囲に潜んでいたシスターズたちの殺気が、霧が晴れるように消え去った。
「……いいだろう。その奇妙な鉄の獣が、どれほどの重さに耐えられるか見せてもらう。ただし、不審な動きをすれば、その喉笛を我らの杭で貫くと思え」
「ふふ、交渉成立ね」
リディアが微かに微笑んだ瞬間、背後から溜息混じりの声が響いた。
「……すげぇな、リディア。あの筋肉バカ相手に一歩も引かねぇどころか、ちゃっかり宿まで。やっぱり俺の惚れた女は格が違うぜ」
ヴォルフが、興奮した様子で工具を弄りながら呟いている。その目は完全にハートマークだ。
すると、アークの屋根の上から冷徹な声が降ってきた。
「マスター、鼻の下が2.5ミリ伸びています。非常に非効率な表情です。冷却が必要ですか?」
「お、おいセフィラ! 余計な計算するなよ!」
「はいはい、ヴォルフ様、惚気る暇があるならリグ・クローラーの肉の積み込みを手伝ってくださいな」
クララが、どこからか取り出した清掃用具を手に、事務的な笑みを浮かべてヴォルフを促した。
「データの蓄積よりも、今は物理的な労働が必要ですわ。……あ、リュウガ様。あのガラードという方の筋肉構造、後で詳しく分析しましょうね。リュウガ様が関心をお持ちのようですから」
「あ、リュウガ! あの筋肉だるまにばっかり見惚れてちゃダメなんだからね!」
クララの言葉を受けて、私はリュウガの腕をギュッと抱き寄せた。リュウガは困ったように笑いながらも、私の頭を軽く撫でてくれた。
リュウガがアークのハッチを開く。失われた人類の可能性を持つ「守り人」と、魔法のバグから生まれた「家族」。
全く異なる進化を遂げた二つの勢力は、大量の肉を積んだアークと共に、陽炎の揺れる荒野へと踏み出した。




