第49話 剣の間合い
増援隊と一緒に歩いていると、兵士たちの足音が道いっぱいに広がった。
先頭の騎兵が角を曲がるころ、最後尾の荷車はまだ橋を渡っていない。
僕はその長さに驚いた。
地図では一本の線なのに、実際には数百歩も続いている。
昼の休憩で、ユリウスが隊の若い兵たちへ剣の基本を教えていた。
僕は荷馬のそばで水桶を運びながら、その様子を見た。
若い兵が木剣を振る。相手はそれを受け、足を引いた。
「もう少し踏み込め」
ユリウスが声を掛ける。
兵がやり直そうとしたとき、レオンハルトが近づいた。
「一度、俺とやってみるか」
兵の顔が引き締まった。
「お願いします」
二人が向かい合う。
兵が剣を振る前に、兄さんはもう半歩動いていた。
木剣が空を切る。
兵が振り返るより早く、兄さんの剣先が肩の前で止まった。
「一本」
ユリウスが言った。
次は兵が慎重に構えた。
兄さんはそれを待ち、今度は短く踏み込んだ。
剣がぶつかった音は一度だけだった。
兵の木剣が横へ流れ、兄さんの先端が胸元へ届いた。
「どうして動く前に分かるんですか」
兵が尋ねた。
兄さんは相手の足元を指した。
「剣より先に、重心が動く。踵と肩を見ろ」
「でも、そんなに早く」
「練習すれば少しずつ分かる」
兄さんは木剣を返した。
僕は自分の胸の奥がざわつくのを感じた。
あのころ中庭で負けていた兄さんの動きとは、まるで違っていた。
兵たちが散ると、僕は兄さんのそばへ行った。
「昔から、あんなふうにできたの?」
兄さんは僕を見た。
「今ほどじゃないよ」
「でも、客人が来たときも、相手の動きが見えてたでしょ」
兄さんは返事をしなかった。
「見えてたのに、どうして負けたの?」
「勝つだけなら、ほかにも方法はあった」
「じゃあ、なんで」
「……あの庭で、俺が本気になる必要はなかったからだ」
僕は納得できなかった。
父さまに叱られるのも、知らない子に笑われるのも、兄さんは嫌だったはずだ。
「僕は、兄さんが弱いと思ってた」
「そう思わせたのは俺だ」
兄さんは淡々と言った。
それが僕には、少し悲しかった。
休憩が終わる鐘が鳴った。
兄さんは馬へ向かい、僕は荷車へ戻った。
背中を見送っていると、あのころ知りたかった答えが一つ見つかった気がした。
でも、その答えから新しい疑問がいくつも生まれていた。
◇
中継所へ向かう途中、道は岩壁に沿って細くなった。
先行した騎兵が角の向こうへ消えると、後ろの荷車は少し速度を落とした。
僕はロウの横で、積み荷の縄を確かめていた。
短い笛の音がした。
すぐに、先頭の方から叫び声が上がる。
「止まれ!」
ロウが手綱を引いた。
次の瞬間、岩の上から矢が飛んできた。荷車の木枠へ刺さり、乾いた音を立てる。
僕は身をかがめた。
荷馬が驚いて跳ね、テオが慌てて鼻先を押さえる。
「伏せろ!」
ユリウスの声が響いた。
護衛の兵が盾を上げ、荷車の脇へ走った。
僕は地面へしゃがんだまま、何が起きているのか分からなかった。
岩の上に人影が二つ。弓を持っている。
どこから来たのかも、何人いるのかも分からない。
兄さんはどこだろう。
そう思ったとき、道の先から風が押し寄せた。
矢が一斉に地面へ落ちた。
次いで、岩の上の弓兵たちが姿勢を崩す。
風は一瞬だけ強く吹き、すぐに収まった。
僕は顔を上げた。
兄さんが、先行隊の方から歩いてきていた。
片手を上げたまま、岩の上を見ている。
「弓を下ろせ。逃げ道は残してある」
静かな声だった。
相手が弓を引き直そうとすると、兄さんは手を振った。
道端の砂と小石が巻き上がり、弓兵の足元へ叩きつけられた。
人影が退いた。
兵たちが斜面を回り、襲撃者を追った。
ユリウスは追いかけようとする兵を止めた。
「荷を守れ! 人数が分からない!」
僕はその声を聞いて、ようやく息ができた。
敵を追う人と、荷を守る人。
誰かが決めなければ、みんな同じ方向へ走ってしまう。
騒ぎが収まると、矢が刺さった荷車を確かめた。
袋の一つが裂け、麦が地面へ散っている。
テオは口を結んで、破れた袋を押さえた。
僕はその横で、予備の布を広げた。
「使える分だけ集めよう」
声が震えた。
テオが僕の腕を掴む。
「怪我してないか」
「うん。テオは?」
「平気」
僕らは互いの顔を確かめた。
ふと見ると、兄さんが道端の石へ手をついていた。
右腕の手甲の下から、細い血が流れている。
僕は駆け寄りかけ、止まった。
兄さんは誰にも気づかれないように布を巻き、そのまま兵たちへ指示を出した。
僕は何も言えなかった。
あれほどの力を使っても、兄さんは平気ではないのだ。




