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泥まみれの英雄たち  作者: 時雨
第二部 凡人の再起/第四章 西谷補給所と石門砦への道
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第41話 予定表にない雨

 補給所に着いて最初の月が終わるころ、僕はようやく、門の鐘が鳴る回数でおおよその時刻を知るようになっていた。

 夜明けの鐘で馬番が動き始め、二つ目で倉庫の錠が開く。昼の鐘は少し遅れることもある。厨房の都合だとテオは言っていた。

 その朝は、二つ目の鐘が鳴る前にオルドが倉庫へ来た。


「石門砦から急使だ。南の巡回隊が増員される。三日後までに麦と塩を運べ」


 机へ置かれた紙には、兵百八十人と書かれていた。

 それは石門砦にいる兵の総数ではない。これまで砦の外を巡回していた隊に、新たに加わる兵の数だという。


「砦の備蓄から、少し回せないんですか」

「砦の常駐守備兵は八百人。厨房や修理班、負傷者の世話をする者まで含めれば、食べる口は千人を超える。あちらにも余裕はない」


 オルドは帳面を指した。


「人間一人一日に食糧を一・五キロと見積もれば、千人で一・五トン。現地で集める分と、ほかの補給所から来る分も合わせて、毎日それを回している」

「百八十人増えたら?」

「一日二百七十キロ増える。三台の荷車で一・五トン送れても、増員分なら五日ほどだ。ずっと足りるわけではない」


 オルドは周辺の小砦へ伸びる道を指した。


「西谷は石門方面へ荷を送る補給所の一つだ。ここで百八十人増えると、ほかの荷にも影響が出る」


 増員百八十人は、西谷が直接配給を手配する巡回隊の規模に近い。行き先が一つ増えるだけで、いつもの便の順番を崩すことになる。

 僕は思わず数字を数え直した。


「これ、いつ決まったんですか」

「昨夜だ。国境沿いで小競り合いがあったらしい」


 オルドはそれ以上を知らなかった。補給所へ届く命令には、理由が書かれていないことも多い。

 ミラが在庫を確かめ、テオが使える荷車を数えた。ロウは馬小屋へ走る。


 僕には、道中で必要になる時間を見積もる仕事が任された。

 石門砦へ続く東の街道は、去年修理されたばかりだ。雨が降っても通れるはずだった。

 僕は地図を広げ、過去の輸送記録と比べる。


「荷車三台なら、二日目の夕方に着けます」

「三台を出せればな」


 オルドが言った。


「馬は、この便に出せる分が二台しか揃っていない。残りは商人から借りるか、別の荷を遅らせる」


 西谷の帳簿には荷車が二十四台ある。だが、ほとんどは別の街道を往復中だ。荷車を持っていることと、今日使えることは違うのだと知った。


「別の荷って?」

「西の診療所への薬と、北の村への種麦だ」


 僕は黙った。

 新しい命令を優先すれば、すでに約束している荷が遅れる。数字を動かせば解決するわけではない。


「商人から借りる費用と、遅らせたときの影響を比べよう」


 ミラが言った。

 彼女は紙を二枚、僕の前へ置いた。

 一枚には、馬車を借りるための費用。

 もう一枚には、それぞれの荷を待っている人の数。


 僕は一枚目ばかり見ていたことに気づいた。

 午後、雨が降り始めた。

 窓を叩く音を聞きながら、僕は道の状態を確かめに来た伝令へ尋ねた。


「東の街道は、まだ通れますか」

「街道はな。ただし、その先の川が膨れてる」

「橋は?」

「今朝までは使えた。明日も使えるかは知らん」


 僕は紙の端へ『橋、要確認』と書いた。

 オルドへ見せると、彼は頷いた。


「よし。橋の向こうの見張り所へ伝令を回せ。返事が来るまでは、到着時刻を確定するな」


 夜、食堂の窓から庭を見ると、雨は強くなっていた。

 テオが僕の隣でパンを食べながら言った。


「去年もあの川、氾濫したんだって」

「知ってた?」

「噂ではね。けど、今年はどうなるか分からない」


 僕は帳面を閉じた。

 次の日の予定に、まだ空白が残っている。

 以前なら、空白を埋めたくて仕方がなかった。

 今は、分からないと書いておく勇気も必要なのだと思った。


 ◇


 翌朝、石門砦へ通じる橋は使えると返事が来た。

 ただし川の水位は高く、重い荷車は一台ずつ渡るようにという注意がついていた。

 オルドは輸送を決めた。


 足りない一台は、町の商人から借りることになった。

 商人の名はセラ。僕の母さまと同じくらいの年に見える女性で、馬車の車輪より値札の汚れを気にするような人だった。


「荷車を貸すのは構いません。けれど、返す日を決めてください」


 彼女は机の上へ契約書を置いた。


「軍の皆さんは『すぐ返す』とおっしゃいますが、その『すぐ』が十日になることもあるので」


 オルドが顔をしかめる。


「今回は四日だ」

「では五日分の代金を。雨の日の遅れは数えない約束にはできません」


 僕は高いと思った。けれど、オルドは値段だけを見ていなかった。


「車軸の状態を確かめさせてくれ。故障で荷を止めたくない」

「もちろんです」


 セラは少し嬉しそうに笑った。

 荷車を見に行くと、僕は板の裏に新しい補修跡を見つけた。


「ここ、壊れたの?」

「先月ね。職人に替えてもらったわ」

「本当に大丈夫ですか」


 僕が重ねて尋ねると、セラは僕の顔を見た。


「あなたが心配なのは、荷のこと? それとも、貸した馬車に傷がついたら叱られること?」


 僕は言葉に詰まった。

 どちらも少しずつだった。


「荷を待っている人がいます」


 ようやく答えると、セラは頷いた。


「なら、故障したときに連絡する方法も決めなさい。壊れないと願うだけじゃ運べないわ」


 彼女は予備の車輪止めと軸の留め具を荷台へ積んだ。

 午後、テオと僕は袋を積んだ。

 借りた荷車には、軍の車より少し小さな荷台しかない。

 最初の予定通り積むと、車輪の上まで荷が膨らんだ。


「これ、揺れたら落ちるんじゃないか」


 テオが言った。

 僕は帳面を見た。必要な食糧の量は決まっている。


「じゃあ、上の袋を下ろす?」

「下ろさなきゃ危ない」

「でも、三台で全部運ばないと」


 僕が迷っていると、ロウがやってきた。

 荷台を一目見て、黙って一袋降ろした。


「積めるのと、走れるのは違う」


 僕はその言葉を帳面へ書いた。

 夕方になっても、積み残した麦袋が倉庫の隅にあった。

 ミラは届ける優先順位を聞いて回り、食糧は先便と後便に分けられた。


「全部一度には届かないね」


 僕が言うと、ミラは頷いた。


「だから、先便だけで何日もつか、砦へ知らせておかないと」


 僕は伝令用の紙を書いた。


『麦の一部は後便。到着予定は未確定』


 自分の字が、いつもより頼りなく見えた。

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