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泥まみれの英雄たち  作者: 時雨
第一部 神童と喪失/第一章 泥まみれの英雄と魔術の芽生え
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第4話 小さな炎と折れた木剣

 ヴォルク先生が机の上に油皿を二つ置いた日、僕は朝から指先が落ち着かなかった。

 これまでは息を整え、身体の内側にある温かいものを感じ取る練習ばかりだった。今日は初めて、自分の意思で火を動かす。


「大きくするのが魔術ではない。大きくした火を、必要なところへ届けられて初めて仕事になる」


 先生は油皿の片方だけに火を灯した。


「まず、これを揺らしてみろ」


 胸の奥へ意識を向ける。熱を含んだ息が腹から喉へ抜ける。指を伸ばすと、小さな炎が横へ傾いた。


「動いた!」

「動いたな。では元へ戻せ」


 言われた通りにしようとした途端、火が大きく跳ねた。油皿の縁から舌のように伸び、僕は思わず手を引いた。先生が指を鳴らすと、炎は元の高さへ戻った。


「力を入れすぎた。今のまま暖炉で試せば、薪を一度に燃やし尽くすぞ」

「でも、大きくできました」

「できた。だから失敗したことも覚えろ」


 そう言って、ヴォルク先生は僕の前に冷めた茶を置いた。ほんの一度火を動かしただけなのに、額には汗が出ていた。

 次に試したのは火を細く伸ばすことだった。最初はなかなか動かず、動いたと思えば火が消えた。三度目には火の向きが変わり、四度目には指が震えた。


「今日はそこまで」

「もう一回だけ」

「そのもう一回が、いつも余計なんだ」


 先生は手首を取り、脈を確かめた。


「力を扱う訓練は、力を使い切る訓練じゃない。お前の身体はまだ小さい」


 ◇


 そのとき、窓の外から木の折れる乾いた音がした。

 中庭へ降りると、兄さんが折れた木剣を見下ろしていた。柄の先から割れ目が走り、刃に当たる部分が土に落ちている。


「また折ったの?」

「俺じゃない。古い剣だからだ」


 兄さんの掌には赤い線がついていた。切り傷ではなく、握り続けた跡だ。僕は先生の話を思い出した。


「休まないと、強くなれないんだって」

「それは魔術の話だろ」

「剣だって同じかもしれない」


 兄さんは答えず、折れた先を拾った。


「見ててくれ」


 残った柄を木剣の代わりにして、足を運ぶ。右へ踏み出して止まり、左へ体重を移す。子どもの僕には地味な動きにしか見えなかった。


「何してるの?」

「剣がなくてもできるところを練習してる」


 兄さんがもう一度動いたとき、右腕の袖が少し上がった。犬に噛まれたところは赤く盛り上がり、腕をひねるたび引きつれるらしい。

 僕は自分の指先を見た。もし魔術でもっと上手に火を動かせるようになったら、兄さんの腕を温めて痛みを取れるかもしれない。


「兄さんは、僕が強くなったら嬉しい?」


 聞くと、兄さんは足を止めた。


「嬉しいよ。何で?」

「だって、僕だけ先生に教わってる」

「お前は魔術が得意なんだろ。俺は剣をやる。それでいい」


 何でもないように答えたけれど、兄さんは折れた木剣を握り直した。


 その夕方、僕はヴォルク先生の帳面に、今日できたこととできなかったことを二つずつ書いた。

 『火を横へ動かした。大きくした。元に戻すのは失敗。長く続けるのも失敗』

 最後の行に、『もう一回は明日』と書いた。窓の外では、兄さんが剣のない手で足運びを繰り返していた。

お読みいただきありがとうございます!

油皿の小さな火を動かす訓練と、折れた木剣の柄を握り直すレオンハルト。

それぞれの場所で積み重ねていく二人の歩みを、見守っていただけると嬉しいです。

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